昨日は、通称「論語の会」、正確には、順受の会だった。
この会はうちでは一番古く、上池袋の最初の天真庵(上池袋4-12-12)に
あった「お化け屋敷」みたいな大きなうちで始まった。たぶん15年くらいなるのでは
。その後、上池袋4-12-13、つまり隣のこんどは、ペンシルビル、いたいな、
細い敷地に4階建てのビルに移り住んだ。一階が倉庫、二階が自分の会社、三階
に自宅、4階がギャラリー、つまり天真庵。屋上に、長崎くんが、池袋の摩天楼を
借景に、枯山水?(写真参照)の庭をつくってくれた。そこでお茶をたてたり、長屋くんがときどき料理をつくってくれたりして、「味楽会」というのもやっていた。
長屋くんは、今、縁あってパリの「YEN」という有名なお店の料理長をやっている。
久保さんの織部の器を、ていねいに見ているのを青山の器やで見てからの縁だ。
彼の料理の締めにいつもぼくが蕎麦を出し、そのうちに彼も広島「達磨」にいって
蕎麦打ちを極め、長屋くんがパリにいき、ぼくは長屋の街に移りすんだ。
そして、論語の会も、押上で継続してやることになった。
月に一度集まる会。普通は、ほとんど会うことがない。
「あのひとの過去を聞いてはいけない」ということではないが、みな
何を職業にしているか、など不問。論語に「下問を恥じず」というのが
ある。知らないことを、後輩に聞いたりすることを戸惑うな、という
ような意味だ。でも相手の職業やら素性なんかは、聞かないほがいい
場合も多い。肩書きや、年収なんかで、人を評価するようなバカな時代が
長く続いたけど、これからは、「人間性」が一番最初にくるだろう。
そうあってほしいものだ。
この会は、今あるいろいろな「文花的な寺子屋」の模範みたいな会。
7時に始まる。その前(30分以上)に来た人たちは、カウンターに座って
お客として、珈琲や蕎麦を食べる。でもビールを所望する人が多い。
勉強する机の上には、久保さんの白いマグが置かれていて、夏は「裸麦茶」
をペットボトルで冷やしたものをおいている。各自がセルフで注ぐ。
7時になったら勉強開始。一時間、今は伝習録をやっている。(きのうまで)
そして、その間に、カウンターに焼締めの皿(各自のとり皿)と、竹橋、
雑炊やおでんなどの料理を準備して、並べている。みんなで協力しながら席を
つくったり、料理を運んだりして、蕎麦会が始まる。
先生の松田さんが鹿児島なので、この会は昔から焼酎を飲む。
そこで、「コップください」なんて、なまいきなことをいうと、すこし
浮いてしまう。托鉢の雲水みたいに、椀ひとつで、飲んだり食べたりする、
のが、ならわしだ。(茶のコップはでる)ぞうすいで、皿に残飯が残っている状態で、ほかの料理を盛るのは、確かに不都合だ。でも、そこを工夫するところに、食の修行というか、生活の中の禅味、みたいなものがある。普茶料理(煎茶の世界の精進料理)
みたいに、ひとつの器に、料理を盛って、それをみんなで分けて食べる、を
基本にしている。そうすることによって、「ありがたさ」や「ともに楽しむ」
、つまりは「おいしいものを食べる」よりも、「おいしく食べる」のコツが
わかる。9時半くらいになると、かっぽれの相方のイワジーが、そうろうと
(早漏ではない、そうろう、ゆっくり)席を立ち、「では、みなさんおさきに」
と挨拶をする。そうすると、「おひらき」の時間だ。空いた焼酎のビンは外の
置場、まだ入っているのは、もとの位置。そして、それぞれの使った器や
はしなどは、それぞれが雲水のように、厨房までもってきてくれる。
もちろん食べ残しなどは、皆無。おかげで、片付けもスムーズで、10時半には
お店をでることができた。「そんなことを勉強している」という「そんな」の幅の広い会である。
来月から「呻吟語」(しんぎんご)。しんぎん、とは、苦しんでウーンとうなる
ようなことをあらわしている。「どう生きたらいいか」とか右往左往している輩
が多い。でも頭で悩んでいる間に、何かからだを動かしてみることだ。
お茶を飲んだり、音楽を聴いたり、散歩したり・・・その刹那刹那の中にこそ、
人生がある。
水木が定休。金曜日はもう7月。すばらしいコンサートで、7月はじまる。
7月1日(金) MUSICA LIBERA TOKYO(現代音楽)
演奏:山根孝司(クラリネット)・曽根恭子(ピアノ)
19時開場 19時半開演 ¥5,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲付き)
2011.7.10(sun) Nobie trio
Nobie(vo&per) 伊藤志宏(pf&key) 小森耕造(ds)
19時開場 19時半開演 ¥4,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲付き)
7月15日(金)ピアノとヴィオラの調べ
演奏:野代奈緒(ピアノ)・神永枝理子(ヴィオラ)
19時開場 19時半開演 ¥2,000(蕎麦・珈琲付き)
この会はうちでは一番古く、上池袋の最初の天真庵(上池袋4-12-12)に
あった「お化け屋敷」みたいな大きなうちで始まった。たぶん15年くらいなるのでは
。その後、上池袋4-12-13、つまり隣のこんどは、ペンシルビル、いたいな、
細い敷地に4階建てのビルに移り住んだ。一階が倉庫、二階が自分の会社、三階
に自宅、4階がギャラリー、つまり天真庵。屋上に、長崎くんが、池袋の摩天楼を
借景に、枯山水?(写真参照)の庭をつくってくれた。そこでお茶をたてたり、長屋くんがときどき料理をつくってくれたりして、「味楽会」というのもやっていた。
長屋くんは、今、縁あってパリの「YEN」という有名なお店の料理長をやっている。
久保さんの織部の器を、ていねいに見ているのを青山の器やで見てからの縁だ。
彼の料理の締めにいつもぼくが蕎麦を出し、そのうちに彼も広島「達磨」にいって
蕎麦打ちを極め、長屋くんがパリにいき、ぼくは長屋の街に移りすんだ。
そして、論語の会も、押上で継続してやることになった。
月に一度集まる会。普通は、ほとんど会うことがない。
「あのひとの過去を聞いてはいけない」ということではないが、みな
何を職業にしているか、など不問。論語に「下問を恥じず」というのが
ある。知らないことを、後輩に聞いたりすることを戸惑うな、という
ような意味だ。でも相手の職業やら素性なんかは、聞かないほがいい
場合も多い。肩書きや、年収なんかで、人を評価するようなバカな時代が
長く続いたけど、これからは、「人間性」が一番最初にくるだろう。
そうあってほしいものだ。
この会は、今あるいろいろな「文花的な寺子屋」の模範みたいな会。
7時に始まる。その前(30分以上)に来た人たちは、カウンターに座って
お客として、珈琲や蕎麦を食べる。でもビールを所望する人が多い。
勉強する机の上には、久保さんの白いマグが置かれていて、夏は「裸麦茶」
をペットボトルで冷やしたものをおいている。各自がセルフで注ぐ。
7時になったら勉強開始。一時間、今は伝習録をやっている。(きのうまで)
そして、その間に、カウンターに焼締めの皿(各自のとり皿)と、竹橋、
雑炊やおでんなどの料理を準備して、並べている。みんなで協力しながら席を
つくったり、料理を運んだりして、蕎麦会が始まる。
先生の松田さんが鹿児島なので、この会は昔から焼酎を飲む。
そこで、「コップください」なんて、なまいきなことをいうと、すこし
浮いてしまう。托鉢の雲水みたいに、椀ひとつで、飲んだり食べたりする、
のが、ならわしだ。(茶のコップはでる)ぞうすいで、皿に残飯が残っている状態で、ほかの料理を盛るのは、確かに不都合だ。でも、そこを工夫するところに、食の修行というか、生活の中の禅味、みたいなものがある。普茶料理(煎茶の世界の精進料理)
みたいに、ひとつの器に、料理を盛って、それをみんなで分けて食べる、を
基本にしている。そうすることによって、「ありがたさ」や「ともに楽しむ」
、つまりは「おいしいものを食べる」よりも、「おいしく食べる」のコツが
わかる。9時半くらいになると、かっぽれの相方のイワジーが、そうろうと
(早漏ではない、そうろう、ゆっくり)席を立ち、「では、みなさんおさきに」
と挨拶をする。そうすると、「おひらき」の時間だ。空いた焼酎のビンは外の
置場、まだ入っているのは、もとの位置。そして、それぞれの使った器や
はしなどは、それぞれが雲水のように、厨房までもってきてくれる。
もちろん食べ残しなどは、皆無。おかげで、片付けもスムーズで、10時半には
お店をでることができた。「そんなことを勉強している」という「そんな」の幅の広い会である。
来月から「呻吟語」(しんぎんご)。しんぎん、とは、苦しんでウーンとうなる
ようなことをあらわしている。「どう生きたらいいか」とか右往左往している輩
が多い。でも頭で悩んでいる間に、何かからだを動かしてみることだ。
お茶を飲んだり、音楽を聴いたり、散歩したり・・・その刹那刹那の中にこそ、
人生がある。
水木が定休。金曜日はもう7月。すばらしいコンサートで、7月はじまる。
7月1日(金) MUSICA LIBERA TOKYO(現代音楽)
演奏:山根孝司(クラリネット)・曽根恭子(ピアノ)
19時開場 19時半開演 ¥5,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲付き)
2011.7.10(sun) Nobie trio
Nobie(vo&per) 伊藤志宏(pf&key) 小森耕造(ds)
19時開場 19時半開演 ¥4,000(お酒・肴・蕎麦・珈琲付き)
7月15日(金)ピアノとヴィオラの調べ
演奏:野代奈緒(ピアノ)・神永枝理子(ヴィオラ)
19時開場 19時半開演 ¥2,000(蕎麦・珈琲付き)