お知らせ
■来月からこのサイトをMITIS(水野通訳翻訳研究所)ブログに変更します。研究所の活動内容は、研究会開催、公開講演会等の開催、出版活動(年報やOccasional Papers等)を予定しています。研究所のウェブサイトは別になります。詳しくは徐々にお知らせしていきます。
■『同時通訳の理論:認知的制約と訳出方略』(朝日出版社)。詳しくはこちらをごらん下さい。
■『日本の翻訳論』(法政大学出版局)。詳しくはこちらをごらん下さい。
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■水村は第7章で、英語が<普遍語>になったことを受けて、日本語が亡びる運命を避けるために3つの選択肢を提示する。
「I は、<国語>を英語にしてしまうこと。
II は、国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。
III は、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。」(267)
最終的に水村はIIIを選択しなければ日本語は亡びるという。そして、
「日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。必ずしも日本の利益を代表する必要はなく、場合によっては日本の批判さえすべきだが、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。」(276)
少数の「選ばれた」バイリンガルを生み出す必要があるというのである。このような人材について水村は不思議なことにこれ以上展開していない。このような人材は国費を使って養成するらしい。しかしこの人材はどういう社会的存在なのだろうか。水村は新渡戸稲造や岡倉天心のような人材を考えているようだが、新渡戸は一高の校長や国際連盟事務次長であったし、天心は東京芸術学校の校長であった。彼等のような社会的役割(肩書き)がなく、「世界に向かって英語で意味のある発言ができる人材」とはいったい何なのか。それは単なる英語屋であり、便利屋であるものとして利用されるだけではないのか。水村はしきりに日本の指導層の英語力のなさを嘆くが、どうもはなから指導者たるものは英語を使いこなせなければならないと思いこんでいるようである。通訳者をうまく使うという発想はど望むべくもない。
ともあれ、英語での発信はそのような人材に任せておいて、一般人のための学校教育では、「英語を読む能力の最初のとっかかり」を与えるだけにして、「その先は選択科目にする」という提言がなされる。そして「日本人はまず何よりも日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきり打ち立てる」こと、「<国語>としての日本語を護ることを私たち日本人のもっとも大いなる教育理念」とすべきだと言う。そして最後の提言がくる。
「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。」(317)
その理由が3つ挙げられている。もはや詳述はしないが、いずれも理由になっていないと思う。総じてこの本は、翻訳に<国語>形成という役割を与えながら、現代における翻訳や通訳の役割をほとんど無視している点、<普遍語>であるという英語の規範性にまったく疑いを抱いていない点が特徴的である。第6章で、日本語は西洋語からの翻訳が可能な言葉に変化していく必然性」があったが、「西洋語は、そのような変化を遂げる必然性がなかった」とし、「西洋語に訳された日本文学を読んでいて、その文学の善し悪しがわかることなど、ほとんどありえない」と言っているところがあるが、これはおそらく、起点言語の「異質性」や芸術性が目標言語の規範(「自然な」英語)によって収奪されてしまうことを意味している。しかし、このような認識はたとえばLawrence VenutiやAntoine Bermanのような翻訳理論家や新しい世代の(支配的言語の規範に挑戦している)翻訳者達の努力を無視しており、とうてい受け容れることはできない。
以上、翻訳(と通訳)という視点から問題点を指摘してみた。それにしてもほとんどの論点が破綻を来していることを考え合わせると、出版のハードルの低さに驚かざるを得ない。
Guardian WeeklyにGlobal English: The European lessonsというフォーラムがある。これをみると、「コミュニケーションとしての共通語(英語)」と「帰属確認のための言語」の分業であるとか、少数派言語話者の間で行われている3カ国語教育(英語、支配的言語、母語)など様々な主張や試みがあるのがわかる。この中で面白いのは、イギリスのJennifer Jenkinsがやがてイギリス英語に規範を求めないハイブリッドな英語アクセントが登場するだろうと述べていることだ。ことはアクセントに限らない。語法や文法さえもハイブリッド化していくかもしれない。端的に言えば英語を壊してもかまわないのだ。それは現代の普遍語、共通語の甘受すべき宿命だろう。
(さらに続く、かもしれない)