■第二次大戦での通訳については回想録も多く、ある程度わかっていたが、日清、日露戦争ではどうだったのだろうか。
田岡嶺雲・宮崎来城(1900/M33)『侠文章』(大学館)の中に、「海外出兵につきその筋と通訳官」という一節がある。ここで日清戦争中と後の通訳者の地位が分かる。
「回顧すれば今に六年、明治二十七八年に日清の干戈を交ゆるや、通訳官は実に戦時に於ける一大必要のものとして聘せられたるが、サテ愈よ出発の暁には如何といふに、之れが待遇は無惨にも陸軍下士、乃ち一等軍曹か二等軍曹には過ぎざりき、憐れ(・・・)下士待遇という名目の下に、牛馬も同然に取扱はれ、船でも汽車でも下等の切符はまだしも、昨日までは外国の縉紳はおろか名将大臣と東洋の経綸を策したる身を以て、所謂る一本筋の少尉どもまで、オイコラ通弁などと如何にも卑下に看做さるるに到り(・・・)一時軍医の欠乏を補はん為めに雇はれた僻村のヤブ医先生でさへ士官待遇という名目の下に勲六等を拝受したるも、ひとり通訳官のみは如何に功労のありたるにもせよ、下士待遇の悲しさ、勲七等に過ぎたるものは一人もなかりき」
それで、雲行きが怪しくなってきたので、再び通訳官を募集したのだが、馬鹿馬鹿しくて応募する人がいない。とんでもないのが採用されたりする。
「△氏は曾て台湾総督府の通訳として苗栗支庁に勤務せしが、支那語と来ては、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十(イー、アル、サン、スー・・・)でも解せぬ位なり、」
という状況だったらしい。
4年後の『戦地職業案内』(1904)の「通訳」の項を見ると、「露語通訳は昨今に至りて志願者稍や増加したるも元来払底の方なり。俸給は百円内外より四十円内外までの所なるべく、戦地に於て増給の見込あるは勿論なり」「功労に依りては、年金付の六等七等勲章を授けらるるもあり、一時金を授けらるるもあるべし。志士の奮って志願すべき所なりとす。」
履歴書の提出先は大本営、軍司令部、師団司令部などになっている。すこぶる人気のない職業だったことがよく分かる。この文書はどちらも国会図書館の近代デジタルライブラリで見ることができる。
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