MITIS 水野通訳翻訳研究所ブログ

Mizuno Institute for Interpreting and Translation Studies

時代は訳読?

2009年09月11日 | 翻訳研究

名古屋での大会の際、ホテルの朝食で一緒になった2人の大学院生との雑談の中で、調子に乗ってまた「時代は訳読だ」などと言ってしまったが、根拠がないわけでもないのである。言語教育における翻訳法(訳読)の使用は、一般には否定的に見られているが、Malmkjaerの編集したTranslation and Language Teaching: Language Teaching and Translation (1998)では、90年代を通じて「リバイバル」が見られるとして、語学教育と翻訳(訳読)との関係を様々な視点から探っている。しかし、何カ所か面白い指摘は見られるものの、日本で言ういわゆる訳読を理論的に解明するものではない。
 ところで、明治36年刊の高橋五郎『最新英語学習法』には次のような記述がある。
「…外国語を外国語として学ぶ以上は、翻訳は其之を学習するに必須なる一要素たるや論をまたず、夫(か)の所謂交錯聯想(cross association)
を避んため、又は其他間接的疎闊の弊を防がん為めとて、一切の翻訳を廃止し、直ちに初より学生をして其学ぶ外国語にて思想し言談せしめんと計る如きは、(…)母語と外国語とを同一視せる僻論なること、蓋し火をみるが如く明らかなるべし、翻訳は-則ち自国語を以て外国語を訳解し或は訳解することは-外国語たる外国語を領会すべき唯一の関門たるを知らずや」
川澄哲夫編『資料日本英学史2 英語教育論争史』(大修館書店)には、不思議なことに明治時代の訳読に関する論争は取り上げられていないが、明治初期の外国人教師による英語での教育を終えた後の英語教育界にも、どうやら現代と同じような対立があったようである。このあたりから直訳法や直読直解法も出てくるのである。ただ、こういう歴史を掘り起こすのもたしかに面白いとは思うが、それよりは訳読の理論的解明と有効な教育法としての訳読の方法を開発することが重要だと思う。しかし巷に流行しているというスラッシュリーディングのたぐいは答にならない。あまり理論的根拠がないからだ。(もっとも、何の根拠もなかった「英語で考える」よりはましかもしれないが。)この辺の問題をやってくれる人はいないものか。やはり自分でやるしかないのかな。

ちなみに高橋五郎『最新英語学習法』に関しては こういう論文があるが、訳読については見事にスルーされている。その関連で「日本英語教育史学会月報」というのを見つけたが、そこに立教の榎本君の名前があった。これは2年前の号だが、外山正一の「英語学習法」について報告している。


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