一昨日ヤングサンデーを買って読んでいたり…。絶薬が大槻ケンジ氏の第二回だったりしてました。そのなかで興味をひいたのが,大槻氏がかって海外で食べた茸でPSTDになったという話…。<
個人的にその手の話はだいぶ前に興味をもって文献とか体験談とか調べたことがあるので,「あぁ,あれか」という感じ(^^;)…。茸じゃないのですが,その手のものでパニック症候群が発症した…という話は結構身近な人にもいたりします。そういえば,彼は治ったんだろうか?。パニック症をPSTDと表現していたのは,実は新鮮でした。まぁたしかにPSTD…といえばそうですが…。
この手のものはうまくいった人は「すばらしい体験だった」とかいうこともありますが,この様な非常に恐いリスクもあります。別に食べ物に限った話でもありません。例えば宗教的修行も同じような心理状態に自分の中におすものだ…とわたしは思いますので,宗教的修行も同じようなことになりかねない。つまりすばらしい体験や悟りを得られる可能性もあるけど,数年引き摺るかも知れない心の傷を負う可能性もあります。だから遊び半分じゃ止めておいた方がいいし,どうしても治療として必要な人だけ,合法な範囲で,適当な指導を受けながらやった方がいい…。
…と書いておきます。まぁ本当にそう思うんだけど,安易に勧めてると思われると困るので。
さて書きたいことはそのことではなく,その時に彼の内部はどうなっていたか?…という話。
茸で変性状態になっているときというのは,想像するに「視点の移動」なんだと思います。宗教的体験や瞑想でも「視点の移動」というレベルではくくれてしまいます。つまり自分のココロをいろんな視点で見せ付けられている状態だといえましょう。
なぜそれでショックを受けるかというと,人間というのは自分が一番良く見えないものです。そして自分の中にいろんなものがありそれを一つの側面からとらえられてない…ということは,ほとんどの人は自覚してません。なのでそれを強制的に見せられるとショックを受けるのです。ココロといいましたが,「体」ですらそうです。人間は自分の顔を鏡を通してしかみることが出来ません。それを視点の移動により顔をみたり背中をみたりお尻をみたら,結構ショックをうけると思います。ましてや他人からみた自分,社会の中での自分,そういういろんな視点が,目まぐるしく切り替わって見せ付けられた…というと気のことを考えると,そこで「アレ」になり悟る人もいれば,ショックを受ける人もいるでしょう。
ココロにしても自分が意識してる心は非常に限定的で,過去の遠い記憶,抑圧してる感情,世界とつながっている部分,そして,それを含めたもっと上の視点…それらを見せ付けられたときに,どう転ぶかは非常に読みにくいと思います。
それに大槻氏の場合,それまで自分のコンプレックスを歌にする…という手法で曲をつくっていたわけで,そういうものが内部で造成されている状態で,一気にそれらを顕にしたら,そうなるのもあり得るな…とか思いました。
さて,「視点の移動は悟りにもつながるし,PSTDにもつながる」という話…。じつは「メタ視点」にもそういうリスクがないのか?…というのが最後に書きたかったこと。
最近「メタ視点」を求める…そして勧める論調がわりと多い気がします。悩んでいる人に対して視点の移動をメタ側にもっていくことで,それを克服しようという話。たしかに現在みたいに自意識が強くなってしまった社会ではメタにもっていくことは,自家発電の様に自我を増幅しそれに押し潰される人にとっては救いになると思います。ただ最初の大槻氏の様な経験を聞くと,メタ視点を得ようとすることにもリスクが無いことはない…という気がします。
どうなんでしょう…。ちょっと最近メタ視点推奨…みたいは本を良く読むので,うまくガイドしないと,安易に受け取っちゃうと結構危ない部分もあるような気がするんですが…。
…とか言いながら,わたしがここにかいてる文章自体が,「ものへの視点をすこし変えてみよう…」という内容のものがほとんどなので‥,まぁ言ってることとやってることが違うというか,やってることに自分自身で危惧を感じているとというか(^^;)…。
個人的にその手の話はだいぶ前に興味をもって文献とか体験談とか調べたことがあるので,「あぁ,あれか」という感じ(^^;)…。茸じゃないのですが,その手のものでパニック症候群が発症した…という話は結構身近な人にもいたりします。そういえば,彼は治ったんだろうか?。パニック症をPSTDと表現していたのは,実は新鮮でした。まぁたしかにPSTD…といえばそうですが…。
この手のものはうまくいった人は「すばらしい体験だった」とかいうこともありますが,この様な非常に恐いリスクもあります。別に食べ物に限った話でもありません。例えば宗教的修行も同じような心理状態に自分の中におすものだ…とわたしは思いますので,宗教的修行も同じようなことになりかねない。つまりすばらしい体験や悟りを得られる可能性もあるけど,数年引き摺るかも知れない心の傷を負う可能性もあります。だから遊び半分じゃ止めておいた方がいいし,どうしても治療として必要な人だけ,合法な範囲で,適当な指導を受けながらやった方がいい…。
…と書いておきます。まぁ本当にそう思うんだけど,安易に勧めてると思われると困るので。
さて書きたいことはそのことではなく,その時に彼の内部はどうなっていたか?…という話。
茸で変性状態になっているときというのは,想像するに「視点の移動」なんだと思います。宗教的体験や瞑想でも「視点の移動」というレベルではくくれてしまいます。つまり自分のココロをいろんな視点で見せ付けられている状態だといえましょう。
なぜそれでショックを受けるかというと,人間というのは自分が一番良く見えないものです。そして自分の中にいろんなものがありそれを一つの側面からとらえられてない…ということは,ほとんどの人は自覚してません。なのでそれを強制的に見せられるとショックを受けるのです。ココロといいましたが,「体」ですらそうです。人間は自分の顔を鏡を通してしかみることが出来ません。それを視点の移動により顔をみたり背中をみたりお尻をみたら,結構ショックをうけると思います。ましてや他人からみた自分,社会の中での自分,そういういろんな視点が,目まぐるしく切り替わって見せ付けられた…というと気のことを考えると,そこで「アレ」になり悟る人もいれば,ショックを受ける人もいるでしょう。
ココロにしても自分が意識してる心は非常に限定的で,過去の遠い記憶,抑圧してる感情,世界とつながっている部分,そして,それを含めたもっと上の視点…それらを見せ付けられたときに,どう転ぶかは非常に読みにくいと思います。
それに大槻氏の場合,それまで自分のコンプレックスを歌にする…という手法で曲をつくっていたわけで,そういうものが内部で造成されている状態で,一気にそれらを顕にしたら,そうなるのもあり得るな…とか思いました。
さて,「視点の移動は悟りにもつながるし,PSTDにもつながる」という話…。じつは「メタ視点」にもそういうリスクがないのか?…というのが最後に書きたかったこと。
最近「メタ視点」を求める…そして勧める論調がわりと多い気がします。悩んでいる人に対して視点の移動をメタ側にもっていくことで,それを克服しようという話。たしかに現在みたいに自意識が強くなってしまった社会ではメタにもっていくことは,自家発電の様に自我を増幅しそれに押し潰される人にとっては救いになると思います。ただ最初の大槻氏の様な経験を聞くと,メタ視点を得ようとすることにもリスクが無いことはない…という気がします。
どうなんでしょう…。ちょっと最近メタ視点推奨…みたいは本を良く読むので,うまくガイドしないと,安易に受け取っちゃうと結構危ない部分もあるような気がするんですが…。
…とか言いながら,わたしがここにかいてる文章自体が,「ものへの視点をすこし変えてみよう…」という内容のものがほとんどなので‥,まぁ言ってることとやってることが違うというか,やってることに自分自身で危惧を感じているとというか(^^;)…。