10月11日の石見(島根県西部)旅行の続きです。
益田市三里ヶ浜の「観音岩」を後にして、海岸沿いを西に約2Kmの場所にある「戸田柿本神社」を参拝しました。
旅行の下調べで、ここが柿本人麿の出生地とする説があることを知り、少し驚きました。
二十数年前、梅原猛著「水底の歌 柿本人麿論」を読んだ記憶では、人麿は流罪で都から遠く離れた益田市に連れて来られ、水死刑となった説が、強く印象に残っていたためです。
この地が人麿の出生地であり、終焉の地としたら「水底の歌」で読んだ非業の死のイメージには違和感が出てきます。
ともかく益田市は、人麿と強いつながりがあるようです。
東光山の中腹に建つ「戸田柿本神社」の社殿です。
少し長い坂道を登り切った境内から更に一段上にそびえる社殿には写真以上に大きく輝いて見え、品格を感じます。
拝殿のすぐ右手に四本の石柱で囲まれた柿の木があり、神木とされているようです。
■拝殿下の石段の横に神社の由緒が掲示されていました。
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戸田柿本神社由緒記
祭神は正一位柿本朝臣人麿であります。人麿公は今からおよそ千三百年前、天武、持統、文武の三天皇につかえ宮廷歌人として令名が高く、万葉集に数多くの長歌、短歌を遣しています。
そのうち「妻と別れて京に上り来る歌」「臨死[みまか]らんとする時自ら傷みて作る歌」は石見の国と人麿との深い由縁を物語っています。
わけても「万葉集」の「石見の海打歌の山の木の際りわが振る袖を妹見つらむか」の「打歌の山」が古くから益田市中垣内町の大道山とされ、その北西の戸田町は、生誕地、北東の高津町は死没地と伝えられています。
柿本社の宮司綾部家は四十九代続いている旧家ですが、その庭前の柿の木もとに、祭神は七才の童子となって孝徳天皇即位九年に天降ったと古記にあります。同家には人麿のお墓が現存しています。
社殿は神亀年代に創建され、学問、産業、疫病除厄の神様で、津和野亀井藩主をはじめ、古来地方民の尊崇厚いところであります。
記
一、建造物 本殿 権現造り 文政五年 四月再建
拝殿 妻破風 木造り明治二十九年再建、
組み物の彫刻は精巧そのもの、美事である。
宝庫、社務所 大正十二年建立
神楽殿 明治三十五年増築
二、御神体 柿本人麿木彫座像 ほかに人麿御童子像、付帯像計七体は益田市指定
文化財、台座の動物浮かし彫りは妙である。
作者は津和野藩士大島常一(文政五年作)
三、宝物 柿本従三位人麿記、人麿旧記、柿本集、筆柿古木の根など多数
綾部家には近世古文書の所蔵が多い。なお境内には神木筆柿がある。
四、例大祭 四月十八日 新年祭 春季
八朔祭 九月一日 新穀感謝祭 秋季
昭和五十六年十一月吉日
益田ロータリークラブ建之
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「戸田柿本神社」の駐車場近くにあった案内板です。
国道191号から南に曲がり、右折した道の脇に小さな駐車がありました。
この道を直進するとすぐ左手に「遺髪塚」、更に進むと「足型岩」「聖なる岩(柿本人麿伝承岩)」があるようです。
案内板の右上に「戸田柿本神社の御神体 人麿七体像」と書かれた写真があります。
上の写真には三体の像があり、中央に人麿像、左右に養父母像がありました。
その下には四体の従者の像があり、合わせて七体の神体像としているようです。
益田市の万葉公園にある「和風休憩所」に展示されていた戸田柿本神社の御神体像「人麻呂童形像」と案内された写真です。
人麿が生まれてしばらくして、両親が亡くなり、柿本家に語家(語り部)として仕える綾部家の夫婦によって養育されたとされています。
今から1300年以上前の話ですが、現在も綾部家が戸田柿本神社の宮司として49代続いていることに驚きました。
道路脇の駐車場から神社のある東光山方向を見た景色です。
小川に架かった橋を進むと右上に登る坂道が分かれ、参道になります。
神社の鳥居と、手水舎が、桜の木の陰になり見えていません。
付近には農家がまばらにあり、実にのんびりした場所です。
坂道を登り始めるとすぐに赤い鳥居が見え、その先に長い石段が続いています。
何と、安芸の宮島で、海に浮かぶ大鳥居と同じ形です。
鳥居の形式は「両部鳥居[りょうぶとりい]」と呼ばれ、左右四本の稚児柱で支えているものです。
扁額には金色の文字で「柿本神社」とあります。
益田市にはもう一つ高津町に「柿本神社」があり、戸田町にあるこの「柿本神社」と区別するために町名を付けて呼ばれているようです。
坂道を登って行くと境内が見えてきます。
左手の木の陰に拝殿があり、中央に「社務所」、右手の白壁の建物は「宝庫」、右端の建物は「神楽殿」と思われます。
境内の入口付近に珍しく石州瓦の鯱鉾が置かれていました。
白壁の「宝庫」です。
左右の壁の下部になぜか鬼瓦が付けられていました。
「宝庫」の鬼瓦を拡大した写真です。
石州瓦の鬼瓦と思われますが、なぜ壁に取り付けられているのか分かりません。
とにかく始めてみる光景です。
拝殿前に個性的な狛犬がありました。
窪んだ大きな目、鼻筋が通った顔は、始めてみる顔立ちです。
拝殿に登る石段の脇にこんな瓦が置かれていました。
拝殿の屋根にある瓦と同じように見えましたが、石州瓦が多用されている理由はまったく謎です。
帰る頃に3名の家族連れが参拝に来られましたが、静かな境内でした。
益田市三里ヶ浜の「観音岩」を後にして、海岸沿いを西に約2Kmの場所にある「戸田柿本神社」を参拝しました。
旅行の下調べで、ここが柿本人麿の出生地とする説があることを知り、少し驚きました。
二十数年前、梅原猛著「水底の歌 柿本人麿論」を読んだ記憶では、人麿は流罪で都から遠く離れた益田市に連れて来られ、水死刑となった説が、強く印象に残っていたためです。
この地が人麿の出生地であり、終焉の地としたら「水底の歌」で読んだ非業の死のイメージには違和感が出てきます。
ともかく益田市は、人麿と強いつながりがあるようです。
東光山の中腹に建つ「戸田柿本神社」の社殿です。
少し長い坂道を登り切った境内から更に一段上にそびえる社殿には写真以上に大きく輝いて見え、品格を感じます。
拝殿のすぐ右手に四本の石柱で囲まれた柿の木があり、神木とされているようです。
■拝殿下の石段の横に神社の由緒が掲示されていました。
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戸田柿本神社由緒記
祭神は正一位柿本朝臣人麿であります。人麿公は今からおよそ千三百年前、天武、持統、文武の三天皇につかえ宮廷歌人として令名が高く、万葉集に数多くの長歌、短歌を遣しています。
そのうち「妻と別れて京に上り来る歌」「臨死[みまか]らんとする時自ら傷みて作る歌」は石見の国と人麿との深い由縁を物語っています。
わけても「万葉集」の「石見の海打歌の山の木の際りわが振る袖を妹見つらむか」の「打歌の山」が古くから益田市中垣内町の大道山とされ、その北西の戸田町は、生誕地、北東の高津町は死没地と伝えられています。
柿本社の宮司綾部家は四十九代続いている旧家ですが、その庭前の柿の木もとに、祭神は七才の童子となって孝徳天皇即位九年に天降ったと古記にあります。同家には人麿のお墓が現存しています。
社殿は神亀年代に創建され、学問、産業、疫病除厄の神様で、津和野亀井藩主をはじめ、古来地方民の尊崇厚いところであります。
記
一、建造物 本殿 権現造り 文政五年 四月再建
拝殿 妻破風 木造り明治二十九年再建、
組み物の彫刻は精巧そのもの、美事である。
宝庫、社務所 大正十二年建立
神楽殿 明治三十五年増築
二、御神体 柿本人麿木彫座像 ほかに人麿御童子像、付帯像計七体は益田市指定
文化財、台座の動物浮かし彫りは妙である。
作者は津和野藩士大島常一(文政五年作)
三、宝物 柿本従三位人麿記、人麿旧記、柿本集、筆柿古木の根など多数
綾部家には近世古文書の所蔵が多い。なお境内には神木筆柿がある。
四、例大祭 四月十八日 新年祭 春季
八朔祭 九月一日 新穀感謝祭 秋季
昭和五十六年十一月吉日
益田ロータリークラブ建之
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「戸田柿本神社」の駐車場近くにあった案内板です。
国道191号から南に曲がり、右折した道の脇に小さな駐車がありました。
この道を直進するとすぐ左手に「遺髪塚」、更に進むと「足型岩」「聖なる岩(柿本人麿伝承岩)」があるようです。
案内板の右上に「戸田柿本神社の御神体 人麿七体像」と書かれた写真があります。
上の写真には三体の像があり、中央に人麿像、左右に養父母像がありました。
その下には四体の従者の像があり、合わせて七体の神体像としているようです。
益田市の万葉公園にある「和風休憩所」に展示されていた戸田柿本神社の御神体像「人麻呂童形像」と案内された写真です。
人麿が生まれてしばらくして、両親が亡くなり、柿本家に語家(語り部)として仕える綾部家の夫婦によって養育されたとされています。
今から1300年以上前の話ですが、現在も綾部家が戸田柿本神社の宮司として49代続いていることに驚きました。
道路脇の駐車場から神社のある東光山方向を見た景色です。
小川に架かった橋を進むと右上に登る坂道が分かれ、参道になります。
神社の鳥居と、手水舎が、桜の木の陰になり見えていません。
付近には農家がまばらにあり、実にのんびりした場所です。
坂道を登り始めるとすぐに赤い鳥居が見え、その先に長い石段が続いています。
何と、安芸の宮島で、海に浮かぶ大鳥居と同じ形です。
鳥居の形式は「両部鳥居[りょうぶとりい]」と呼ばれ、左右四本の稚児柱で支えているものです。
扁額には金色の文字で「柿本神社」とあります。
益田市にはもう一つ高津町に「柿本神社」があり、戸田町にあるこの「柿本神社」と区別するために町名を付けて呼ばれているようです。
坂道を登って行くと境内が見えてきます。
左手の木の陰に拝殿があり、中央に「社務所」、右手の白壁の建物は「宝庫」、右端の建物は「神楽殿」と思われます。
境内の入口付近に珍しく石州瓦の鯱鉾が置かれていました。
白壁の「宝庫」です。
左右の壁の下部になぜか鬼瓦が付けられていました。
「宝庫」の鬼瓦を拡大した写真です。
石州瓦の鬼瓦と思われますが、なぜ壁に取り付けられているのか分かりません。
とにかく始めてみる光景です。
拝殿前に個性的な狛犬がありました。
窪んだ大きな目、鼻筋が通った顔は、始めてみる顔立ちです。
拝殿に登る石段の脇にこんな瓦が置かれていました。
拝殿の屋根にある瓦と同じように見えましたが、石州瓦が多用されている理由はまったく謎です。
帰る頃に3名の家族連れが参拝に来られましたが、静かな境内でした。