昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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益田市「染羽天石勝神社」と、「米原恭庵」の石碑

2009年11月29日 | 山陰地方の旅
10月11・12日の石見(島根県西部)旅行の続きです。

石見旅行の2日目 朝8:00頃、「染羽天石勝神社[そめばあめのいわかつ]」へ参拝しました。

「染羽天石勝神社」は、この地を開発した一族の祖霊を祀ったようで、奈良時代に創建され、明治維新の神仏分離までは「勝達寺」だったようです。

このブログ2009-11-23掲載の石見美術館の特別展で見た国の重要文化財「不動明王坐像」は、この勝達寺の本尊でした。


「染羽天石勝神社」の参道は、右手の益田東高校のグランド前にあります。

鳥居の前の石柱には「式内 縣社 染羽天石勝神社」、両脇に石灯籠には「瀧蔵大権現」の文字が刻まれていました。

下記の説明文に「弁天池の背後にある注連岩[しめいわ]を石神とした自然崇拝を起源とし・・・」とありますが、「注連岩」は、背後に見える山の頂上の真下辺りにありました。

■境内の案内板に神社本殿の説明文がありました。
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国指定重要文化財
染羽天石勝神社本殿[そめばあめのいわかつじんじゃほんでん]
指定 昭和四年四月六日
染羽天石勝神社は、社殿の東側、弁天池の背後にある注連岩[しめいわ]を石神とした自然崇拝を起源とし、神亀二年(七二五)に天石勝命を祭神として創建されました。
『延書式[えんぎしき]』に美濃郡五座のひとつとしてその名がみえ、後に蔵権現と呼ばれるようになりました。承平元年(九三一に社殿西側の高台に別当寺[べっとうじ]の勝達寺[しょうたつじ]を建立し、中世には益田氏の庇を受けて発展しました。
明治の廃仏毀釈に伴い勝達寺は廃寺となり、神社も名を染羽天石勝神社と改めました。なお、勝達寺の本尊であった不動明王坐像は鎌倉の極楽寺に現存し、国の重要文化財に指定されています。
 本殿は、天正九年(一五八一)に火災で焼失しましたが、益田藤兼[ふじかね]・元祥[もとよし]親子により再建されました。その後、江戸時代に修理され、昭和十二年に解体修理、昭和三十九年及び平成十年・十一年に屋根の葺き替え工事が行われています。
本殿は三間社流造[さんげんしゃながれづくり]で、三間×三間の身舎[もや]の前に奥行一間の吹放し板張りの庇床[ひさしゆか]を設け、両側のみに高欄付きの縁をもちます。このような構造は、重要文化財指定の建造物の中では唯一のものです。
本殿の特異な平面構成と装飾彫刻の蟇股[かえるまた]や手挟[たばさみ]に見られる桃山時代の特色から、昭和四年に国宝となり、戦後、文化財保護法の制定に伴い、改めて重要文化財に指定されました。
平成十八年十二月 益田市教育委員会
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右手の参道から境内に入り、左手の社務所前の駐車場から参道方向をみた様子です。

小さな屋根の手水舎から向って左の本殿に進んで行きます。

後ろの大きな建物の玄関が、手水舎の右手に見えます。

建物の出入口はここだけで、四方の壁面には窓が続いており、まるで寺院の講堂のような建物でした。

神社では初めて見る変った建物でした。



一段高く、石塀に囲まれた建物の前で、背後の本殿に参拝するようです。

写真の右手に見える大きな建物の裏手になります。



上段の写真の建物を正面から見た写真です

見た目には拝殿前の参拝する場所に見えますが、小さな屋根だけの建物です。



参拝の建物の奥には本殿に上がる石段がありました。

石段上の小さな赤い本殿を見上げた写真です。



参拝の建物の前から石段上の本殿を見上げた写真です。

染羽天石勝神社のすぐ左隣に別の神殿があり、上る石段がありました。

石段の横に神社のものとは違う石碑が見えます。



■石段の脇に興味深い江戸末期の医者「米原恭庵」の石碑があり、転記します。
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「米原恭庵頌徳碑」
米原恭庵は本名を祥 号を恭庵と称し文政十一年八月石見国高角村(現益田市高津町)米原宗敬の長男として生る 歳僅か十一才にして医学に志し 津和野藩医岩本靖庵に師事し 更に長門国須佐村田村玄洞に学び 十七才の時江戸に上り 竹内玄同の門を訪れ 西洋法内外科及牛痘種法等を修学の上帰郷す 
嘉永二年九月旧師田村玄洞より牛痘を入手し 初めて高角村において接種 翌年三月までに五百有余名に施行す 時に恭庵二十一才であった
当時高角港は津和野藩港として殷賑を極めたが 反面悪疫病の流行も亦猛威を振い 特に天然痘の災禍は地方住民を苦しめた 恭庵は惨状を見るに忍びず 私財を投じ決然として全国に先駆け牛痘接種を断行しその防疫に献身した 後 居を益田村に移し内外産各科に亘りその研究と診療に生涯を捧げた
ことに先師の医術に対する偉大なる研究心と牛痘実施の先駆者としての功績を讃えその遺徳を敬仰する
 昭和四十七年九月二十二日
  益田市美濃郡医師会建之
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■上段の写真向って左に新しく造られた石の案内板があり、上記の石碑と同様の説明に加え、次のことが刻まれていました。
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・・・・嘉永二年(1849)七月十七日に、オランダのモーニッケが長崎で日本初の牛痘接種に成功しているが、そのわずか二ヶ月後に僻地に住む恭庵が新しい接種法を実施したことになる。
・・・・右側後方の碑は恭庵翁が自ら業績を刻み建立したといわれる種痘記念碑である。
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写真中央の石碑に向かって右隣に先の尖った石碑が江戸時代に恭庵が建てたようです。

新たな種痘技術を使う決意には、使命感の他、不安や迷いもあったと思われますが、この恭庵の話は、多くの人に希望と勇気を与えてくれるものと思われます。



石段を登ると小さな神殿があり、提灯には「染羽大元神社」と書かれています。



「染羽大元神社」の隣に「染羽天石勝神社」の赤い本殿があります。

この社殿は、天正九年(1581)に焼失、その後、益田藤兼親子により再建されとされ、おそらく桃山時代の建物と思われます。

天正九年(1581)は、織田信長が倒された本能寺の変の前年で、この神社も長い激動の歴史を生き延びてきたことを改めて感じました。



本殿の前部分を横から撮った写真です。

神社案内板に「・・・奥行一間の吹放し板張りの庇床を設け、両側のみに高欄付きの縁をもちます。 」とあり、この建物の特徴はこの部分と思われます。



本殿に向かって右手に進むと弁天池があり、小さな鳥居と祠が見えます。

神社の説明文に「弁天池の背後にある注連岩[しめいわ]」とあり、後方の山裾の岩と思われます。

神亀二年(725)に創建されたとされていますが、岩のある古代祭祀的な場所を見るとその以前から祭祀が行われていた可能性があります。



それぞれ特徴のある形の小さな石碑が並んでいました。

刻まれたひら仮名混じりの文が読めず、残念ながら何の石碑かわかりませんでした。