10月11日の石見(島根県西部)旅行の続きです。
益田市戸田町の「戸田柿本神社」を後にして、益田市の市街地に近い「高津柿本神社」を参拝しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/61/c5afc174740617fbcc2347f93b901a7b.jpg)
「高津柿本神社」の参道は、長い石段で、上には大きな楼門が建っています。
赤い欄干の橋の下の両側には鯉がおよぐ小さな池がありました。
石段の両側の手摺りに童謡の歌詞を白い板に手書きしたものがたくさん掛けられていました。
宮司さんが、歌聖人麿を祀る神社をもっと親しまれるように考えてのことでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/cf/170a31bedd2f84cdb29255beba3123b7.jpg)
「高津柿本神社」は、益田市市街の西を流れる高津川の西岸にあります。(赤い鳥居)
今はありませんが、高津川の河口付近には柿本人麿終焉の地と言われる鴨島(後述しています)があったそうです。
万葉公園に隣接し、近くに「蟠竜湖」も見えます。
地図で見るとトナカイのツノのように枝分れしたような「蟠竜湖」は、谷がせき止められて出来た形だそうです。
海岸の砂が風で飛んで来て、谷が自然に堰き止められたと知り、驚きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/cc/71d6cbbe1dadbc1eb97cf3fc746cb98f.jpg)
長い石段の途中に堂々たる楼門がありました。
■楼門の由緒書があり、転記します。
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柿本神社楼門由緒
歌聖柿本人麿朝臣は、天武天皇、持統天皇、文武天皇朝に宮廷歌人として仕えられ、大宝年中に石見国府の役人として石見に下り秀逸な石見相聞歌を残し、神亀元年(724)、石見高津の鴨島で逝去された。
聖武天皇は甚く嘆かれ、勅命により鴨島に人丸社を創建された。万寿三年(1026)五月、石見未曾有の地震のために鴨島は陥没した。人丸社の尊像は松崎の地に漂着し、地区民は人丸社を再建した。石見大森銀山奉行大久保石見守長安は社殿の造営を行った。
現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝九年(1681)、高角山に本殿、拝殿楼門を建立したことから始まる。楼門は神聖な神社への出入り口で、殊に入念に建造されている。これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。
この楼門は初層と上層からなり、二層とも桁行3間、梁間1.5間の三間楼門で屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け、勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。
前回の大改修は明治二十四年(1891)に行われ、今回の平成十七年(2005)の改修は、百十四年ぶりの大改修となる。長い年月にわたる風雨等により劣化が進んだため、屋根の葺き替えと木部の取り替え等の大改修が行われた。築後三百二十四年を経て、二十一世紀の現代に再生された。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/05/ea93081f4305d337bb9b596f9d4eb50b.jpg)
石段を登った山の中腹に大きな拝殿がありました。
拝殿は、切妻が三重になった立派な建物で、初めて見る形式です。
写真左手に見えるのは柿本人麿の銅像、右手には社務所がありました。
■社殿の一段下の境内に神社本殿の案内板がありました。
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柿本神社本殿
(指定 昭和五十七年六月十八日)
柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。
鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。その後、近世に入り慶長十三年(1608年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文十一年(1671年)には津和野藩主亀井茲政[これまさ]によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。
そして、延宝九年(1681年)に茲政は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。
本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入、桧皮葺で、唐破風造の向拝を有し、津和野の方向を向いています。殿内は亀井家の四ツ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ、内陣の中央後方に須弥壇があり、向唐破風造屋根を戴く厨子が置かれています。
また、柿本神社は享保八年(1723年)の人麿千年祭にあたり正一位柿本大明神の宣下を受け、社宝として重要美術品に認定された御法楽御短冊が奉納されています。
平成八年三月 益田市教育委員会
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/08/0050f91734e9e1e0fe076484b3ff784a.jpg)
柿本人麿の銅像です。
万葉歌人を代表する人麿の銅像は、絵で見るより実に風格ある姿です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/0b/c308e751bed15909239f4019af3bcd05.jpg)
拝殿の横から更に坂道を登ると、急斜面に建てられた「宝物殿」がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/18/df0d0e9d0532a4c245fa5cb441cd36ca.jpg)
「宝物殿」の前から拝殿奥の神殿を見ることが出来ます。
拝殿の銅版葺きとは違い、桧皮葺の立派な神殿です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/df/066f974da36179b6313f8fcde7845a36.jpg)
拝殿前の広場の端に人麿の歌が書かれた立て札があり、その横に高津川の上流方向が見えます。
石見のや 高角山の木の際より 我が振る袖を 妹見つらむか
(石見の 高角山の木の間から 私が振る袖を 妻は見てくれたろうか)
ここから見渡す景色で、何となく情景が浮かんでくるようです。
人麿の石見の妻とされる人は、島根県江津市の依羅娘子[よさみのいらつめ]で、高角山も江津市の山とされる説が有力のようです。
浜田市東部にある石見国府から国司の人麿が、江津市まで約13Kmを妻のもとに通っていたことになります。(参考-石見国府から益田市まで約47Km)
地元有力者の娘を現地妻としたのは政治的な配慮や、身分を考慮したものと思われますが、歩いて3時間の道のりは現代の感覚では気が遠くなるようです。
この他にも、人麿が石見で詠んだと思われる歌が書かれた立て札が3~4立っていました。
人麿を祀る宮司さんの気持ちが伝わってくるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/09/3adf26e3ff0c4d9b0a0040f4b721be0f.jpg)
社務所で道を教えて頂き、拝殿前の境内から坂道を登り「和風休憩所」の裏にある「梅原猛記念碑」を見に行きました。
石碑には「柿本人麿 終焉之地鴨島 遠望台 梅原猛」と書かれています。
柿本人麿 終焉之地鴨島 遠望台 梅原猛
梅原猛氏は、著書「水底の歌 柿本人麿論」で発表した自説(柿本人麿が益田市沖の鴨島で水死刑となった説)を証明するため、地震で沈んだ鴨島の調査を行ったそうです。
この石碑は、その調査を記念するものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/c1/6b7d177216f6e834713858b74769dd54.jpg)
拝殿の一段下の境内に梅原猛氏の海底に沈んだ「鴨島」調査の案内板があり、高津川河口にあったかっての「鴨島」の地図が描かれていました。
■案内板の説明文を転記します。
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鴨島(鴨山)遺跡海底調査状況
昭和五十二年七月、梅原猛先生、考古学、地質学の先生等は、人麿公終焉の地である鴨島を科学的に立証するため、十日間の海底遺跡調査を試みられた。
海底調査資料より抜粋
●浅い所の水深は四米で、五~六米の所がかなり広がっている。
陸側で八米、沖へ向う側十二米、東西五百米、南北四百米位で面積は大体二十万平方米。
以下、省略しますが、石段に使われていたと考えられる石が引き上げられたと書かれていました。
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案内板の横に大きな歌碑があり、海底から引き揚げられた石が、台石になっています。
益田市戸田町の「戸田柿本神社」を後にして、益田市の市街地に近い「高津柿本神社」を参拝しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/61/c5afc174740617fbcc2347f93b901a7b.jpg)
「高津柿本神社」の参道は、長い石段で、上には大きな楼門が建っています。
赤い欄干の橋の下の両側には鯉がおよぐ小さな池がありました。
石段の両側の手摺りに童謡の歌詞を白い板に手書きしたものがたくさん掛けられていました。
宮司さんが、歌聖人麿を祀る神社をもっと親しまれるように考えてのことでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/cf/170a31bedd2f84cdb29255beba3123b7.jpg)
「高津柿本神社」は、益田市市街の西を流れる高津川の西岸にあります。(赤い鳥居)
今はありませんが、高津川の河口付近には柿本人麿終焉の地と言われる鴨島(後述しています)があったそうです。
万葉公園に隣接し、近くに「蟠竜湖」も見えます。
地図で見るとトナカイのツノのように枝分れしたような「蟠竜湖」は、谷がせき止められて出来た形だそうです。
海岸の砂が風で飛んで来て、谷が自然に堰き止められたと知り、驚きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/cc/71d6cbbe1dadbc1eb97cf3fc746cb98f.jpg)
長い石段の途中に堂々たる楼門がありました。
■楼門の由緒書があり、転記します。
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柿本神社楼門由緒
歌聖柿本人麿朝臣は、天武天皇、持統天皇、文武天皇朝に宮廷歌人として仕えられ、大宝年中に石見国府の役人として石見に下り秀逸な石見相聞歌を残し、神亀元年(724)、石見高津の鴨島で逝去された。
聖武天皇は甚く嘆かれ、勅命により鴨島に人丸社を創建された。万寿三年(1026)五月、石見未曾有の地震のために鴨島は陥没した。人丸社の尊像は松崎の地に漂着し、地区民は人丸社を再建した。石見大森銀山奉行大久保石見守長安は社殿の造営を行った。
現在の柿本神社は、津和野藩主亀井茲政が、延宝九年(1681)、高角山に本殿、拝殿楼門を建立したことから始まる。楼門は神聖な神社への出入り口で、殊に入念に建造されている。これは偏に津和野藩主亀井茲政の崇敬が、篤かったことが伺える。
この楼門は初層と上層からなり、二層とも桁行3間、梁間1.5間の三間楼門で屋根は瓦葺きの入母屋造りである。上層には四方に切り目縁の床を張った廻縁を付け、勾欄を組み、組物は出組で、蝦尾を思わせるこぶし鼻と、柱頭の装飾的な木鼻が特徴的な折衷様式の門である。
前回の大改修は明治二十四年(1891)に行われ、今回の平成十七年(2005)の改修は、百十四年ぶりの大改修となる。長い年月にわたる風雨等により劣化が進んだため、屋根の葺き替えと木部の取り替え等の大改修が行われた。築後三百二十四年を経て、二十一世紀の現代に再生された。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/05/ea93081f4305d337bb9b596f9d4eb50b.jpg)
石段を登った山の中腹に大きな拝殿がありました。
拝殿は、切妻が三重になった立派な建物で、初めて見る形式です。
写真左手に見えるのは柿本人麿の銅像、右手には社務所がありました。
■社殿の一段下の境内に神社本殿の案内板がありました。
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柿本神社本殿
(指定 昭和五十七年六月十八日)
柿本神社の祭神は柿本人麿で、その起源は人麿の終焉地鴨島に勅命により建立された社殿といわれています。
鴨島は万寿三年(1026年)の大地震により海中に没しましたが、その時に人麿尊像が松崎に漂着したので、現在地より北の松崎の地に社殿が再建されました。その後、近世に入り慶長十三年(1608年)に徳川秀忠の命により、石見銀山奉行大久保長安によって造営され、寛文十一年(1671年)には津和野藩主亀井茲政[これまさ]によって宝殿、拝殿、楼門が修理されました。
そして、延宝九年(1681年)に茲政は風波を避けて神社を現在地の高津城跡に移転しました。複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と独特の建築様式を持った当神社は津和野藩が残した重要な遺産となっています。
本殿は正面三間、側面三間の入母屋造妻入、桧皮葺で、唐破風造の向拝を有し、津和野の方向を向いています。殿内は亀井家の四ツ目結び紋を配した板扉によって外陣と内陣に区切られ、内陣の中央後方に須弥壇があり、向唐破風造屋根を戴く厨子が置かれています。
また、柿本神社は享保八年(1723年)の人麿千年祭にあたり正一位柿本大明神の宣下を受け、社宝として重要美術品に認定された御法楽御短冊が奉納されています。
平成八年三月 益田市教育委員会
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柿本人麿の銅像です。
万葉歌人を代表する人麿の銅像は、絵で見るより実に風格ある姿です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/0b/c308e751bed15909239f4019af3bcd05.jpg)
拝殿の横から更に坂道を登ると、急斜面に建てられた「宝物殿」がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/18/df0d0e9d0532a4c245fa5cb441cd36ca.jpg)
「宝物殿」の前から拝殿奥の神殿を見ることが出来ます。
拝殿の銅版葺きとは違い、桧皮葺の立派な神殿です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/df/066f974da36179b6313f8fcde7845a36.jpg)
拝殿前の広場の端に人麿の歌が書かれた立て札があり、その横に高津川の上流方向が見えます。
石見のや 高角山の木の際より 我が振る袖を 妹見つらむか
(石見の 高角山の木の間から 私が振る袖を 妻は見てくれたろうか)
ここから見渡す景色で、何となく情景が浮かんでくるようです。
人麿の石見の妻とされる人は、島根県江津市の依羅娘子[よさみのいらつめ]で、高角山も江津市の山とされる説が有力のようです。
浜田市東部にある石見国府から国司の人麿が、江津市まで約13Kmを妻のもとに通っていたことになります。(参考-石見国府から益田市まで約47Km)
地元有力者の娘を現地妻としたのは政治的な配慮や、身分を考慮したものと思われますが、歩いて3時間の道のりは現代の感覚では気が遠くなるようです。
この他にも、人麿が石見で詠んだと思われる歌が書かれた立て札が3~4立っていました。
人麿を祀る宮司さんの気持ちが伝わってくるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/09/3adf26e3ff0c4d9b0a0040f4b721be0f.jpg)
社務所で道を教えて頂き、拝殿前の境内から坂道を登り「和風休憩所」の裏にある「梅原猛記念碑」を見に行きました。
石碑には「柿本人麿 終焉之地鴨島 遠望台 梅原猛」と書かれています。
柿本人麿 終焉之地鴨島 遠望台 梅原猛
梅原猛氏は、著書「水底の歌 柿本人麿論」で発表した自説(柿本人麿が益田市沖の鴨島で水死刑となった説)を証明するため、地震で沈んだ鴨島の調査を行ったそうです。
この石碑は、その調査を記念するものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/c1/6b7d177216f6e834713858b74769dd54.jpg)
拝殿の一段下の境内に梅原猛氏の海底に沈んだ「鴨島」調査の案内板があり、高津川河口にあったかっての「鴨島」の地図が描かれていました。
■案内板の説明文を転記します。
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鴨島(鴨山)遺跡海底調査状況
昭和五十二年七月、梅原猛先生、考古学、地質学の先生等は、人麿公終焉の地である鴨島を科学的に立証するため、十日間の海底遺跡調査を試みられた。
海底調査資料より抜粋
●浅い所の水深は四米で、五~六米の所がかなり広がっている。
陸側で八米、沖へ向う側十二米、東西五百米、南北四百米位で面積は大体二十万平方米。
以下、省略しますが、石段に使われていたと考えられる石が引き上げられたと書かれていました。
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案内板の横に大きな歌碑があり、海底から引き揚げられた石が、台石になっています。