昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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福山城博物館の「箱田良助と榎本武揚展」

2009年11月25日 | 日記
先週日曜日、福山城博物館で開催されていた2009年秋季特別展「伊能忠敬の内弟子筆頭 箱田良助と榎本武揚」へ行って来ました。



福山城の天守閣の前では菊花展が開催されていました。

写真には写っていませんが、たくさんの菊の花が並び、賞を受けた花は素人の私が見ても立派に見えます。

菊花展も当日までのようで、夕方には花を片づけられていました。



天守閣の入口に上がる石段の横に特別展「伊能忠敬の内弟子筆頭 箱田良助と榎本武揚」の大きな看板がありました。

「箱田良助」は、福山市神辺町箱田の出身で、江戸にでて伊能忠敬の弟子となり、日本地図の製作に参画した人で、榎本武揚の父です。

榎本武揚は、ジョン万次郎の私塾で英語学び、幕末には4年半の間、オランダ留学をしています。

帰国後、海軍副総裁に任命され、大政奉還の後には旧幕府の軍艦を率いて函館の五稜郭にたてこもった函館戦争の中心人物です。

その後、明治新政府に罪を許され、政府の要職を歴任した旧幕臣の中では別格の扱いを受けた人物でした。



特別展「伊能忠敬の内弟子筆頭 箱田良助と榎本武揚」のパンフレットです。

展示の資料写真がなく、せめてこの写真でも参考にして下さい。



先週の土曜日、箱田良助の生家を訪ねました。

神辺町の要害山の西にある生家の横に、最近建立された石碑がありました。

最初よく分からず、管茶山記念館で道をたずねたら職員の方に現地まで車で案内して頂きました。



古い塀に囲まれた箱田良助の生家です。

道路の向こうが北、手前が南だったと記憶しています。

塀の右手には門があり、箱田良助の石碑は写真を撮っている道の右側にあります。

■福山市神辺町の「管茶山記念館」にあった箱田良助の説明文です。==========================================================================
箱田良助[はこだりょうすけ](1790~1860)
 箱田良助は、1790(寛政2)年、安那郡箱田村庄屋の細川園右衛門の次男に生まれました。名を良助、のちに左大夫、源三郎と改めました。細川家が一時期、地名である「箱田を名乗ったことから、良助もそれを苗字としました。
1807(文化4)年6月、17歳のとき、江戸に出て伊能忠敬に入門し、測量術(地図など作製するために土地の距離や面積、高さなど測る技術)を学びました。
 九州第一次測量、第二次測量に参加した後も、忠敬の一番弟子として、測量や地図作製に尽力しました。
1821(文政4)年の大日本沿海輿地全図の完成のために貢献しました。
1822(文政5)年、幕臣である榎本家の株を買って縁組みし、榎本園兵衛武規と改名しました。さらに、1844(弘化元)年には、御勘定万(幕府の会計係)となって旗本(将軍にお目通りできる武士)に加えられています。1860(万延元)年8月、71歳で亡くなりました。
 また、良助の息子には、1886(明治元)年の箱館戦争で政府方に対抗して五稜郭を占拠した榎本武揚(1836~1908)がいます。
 2001(平成13)年、旧細川邸前に、箱田良助の生誕地を示す記念碑が神辺町観光協会によって建てられました。
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管茶山記念館にある管茶山の銅像です。

菅茶山[かん ちゃざん](1748~1827年)は、地元備後地方では江戸後期の教育者として知られ、漢詩人・朱子学者として歴史に残る人です。

箱田良助は、茶山が開いた近くの廉塾[れんじゅく]に学んでいたものと思われ、茶山と、伊能忠敬との交友関係がきっかけで忠敬へ入門することになったと推察されます。

■管茶山記念館にあった管茶山の説明文です。
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管茶山
(1748~1827)
 名は晋帥[ときのり]、字は礼卿[れいきょう]、通称は太中[たちゅう]、号は茶山[ちゃざん]。
 管茶山は、酒造業で神辺東本陣主人も勤めた菅波樗平[すがなみちょへい]と半[はん]の長男として延享5(1748)年2月2日、備後の国安那郡川北村(現在の福山市神辺町川北)に生まれた。
 19歳のとき京都に遊学し、初め古文辞学[こぶんじがく]を市川某[いちかわなにがし]に、古医法[こいほう]を和田泰純[わだたいじゅん]に学んだ。しかし、古文辞学の非を悟り朱子学の那波魯堂[なばろどう]に入門した。しかし、古文辞学の非を悟り朱子学の那波魯堂[なばろどう]に入門した。那波門下の兄弟子には備中鴨方[びっちゅうかもがた]の西山拙斎[にしやませっさい]がいる。
遊学は6回に及び安永2(1773)年・安永9(1780)年には大坂で頼春水[らいしゅんすい]や「混沌社[こんとんしゃ]」社友と交わっている。
 天明元(1781)年頃、神辺に私塾「黄葉夕陽村舎[こうようせきようそんしゃ]」を開いた。塾は3室20畳の講堂、3棟の寮舎、菜園、茶山居宅からなる。寛政8(1796)年に福山藩の郷塾となり、「神辺学問所」「廉塾(れんじゅく)」と呼ばれる。塾では、菅茶山とともに藤井暮庵[ふじいぼあん]・頼山陽[らい・さんよう]・北條霞亭[ほうじょう・かてい]など都講(塾頭)による四書五経[ししょごはょう]を中心とした講釈がなされ、寺子屋などの初等教育を修了した10~20歳代の多くの階層にわたる塾生が2~3年にわたって学んでいる。
享和元(1801)年、福山藩の儒官[じゅかん]となり、藩校弘道館[こうどうかん]で講釈を始めた管茶山は、文化元(1804年)年・文化11(1814)年の2回江戸詰を命ぜられ、藩主阿部正精(あべまさきよ)直属の教授となり、文化6(1809)年には「福山志料[ふくやましりょう]」を、文政2(1812)年「福山藩風俗問状答書[ふくやまはんふうぞくといじょうこたえがき]」をまとめている。
 「宋詩に学べ」という文芸運動を西日本で大成した茶山は「当世随一の詩人」と評され、詩集「黄葉夕陽村舎詩[こうようせきようそんしゃし]」の発行は、多くの文人墨客[ぶんじんぼっきゃく]の来訪を促した。
 文政10(1827)年8月13日、管茶山は80歳で病歿し川北村(現在の神辺町川北)網付谷[あみつけたに]に葬られた。その墓碑は頼杏坪[らい・きょうへい]の撰文[せんぶん]である。
 「廉塾ならびに菅茶山居宅」は昭和28(1953)年に国の特別史跡に、「菅茶山の墓」は昭和15(1940)年に広島県史跡に指定されている。
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管茶山記念館に展示されていた伊能忠敬の肖像画です。

商家を隠居した50才から測量や天文観測を学び、56才の第一次測量(蝦夷地)から、74才に亡くなるまで日本地図の作成に情熱を燃やした生涯には感心します。

■管茶山記念館にあった管茶山と伊能忠敬の説明文です。
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管茶山と伊能忠敬
 1860(文化6)年、九州第一次測量(第8次測量)へ向った測量隊は、11月27日に神辺に到着しました。伊能忠敬が宿泊していた本陣(本荘屋菅波氏[ほんじようやすがなみし])に茶山が出向いて面会しました。「黄葉夕陽村舎詩」に「伊能先生奉命測量諸道行次見問賦贈」(伊能先生、命[めい]を奉[たてまつり]り諸道[しょどう]行きて測量、次いで見[まみ]え問い賦[ふ]して贈る)という詩があります。
 また、測量隊は1811(文化8)年の九州測量の帰路にも神辺を通り、箱田良助の生家(箱田村庄屋細川氏)に宿泊しました。茶山はそこへ使者を送っています。さらに、1812(文化9)年11月2日、神辺を訪れた伊能忠敬から銅版の万国図を贈られています。
1814(文化12)年、茶山の2度目の江戸滞在の際には互いに行き来して親交を深めました。
 第八次測量(九州第一次測量)から測量隊の一員として参加した箱田良助は、のちに茶山と伊能忠敬の交流を助けるなど重要な役割を担った人物でした。

「伊能先生奉命測量諸道行次見問賦贈」(伊能先生命[めい]を奉[たてまつり]り諸道[しょどう]測量し、行次いで見[まみ]え問い賦[ふ]して贈る)という詩に、茶山は幕府の命令によって日本全国の測量と地図作成に力を尽くした伊能忠敬を褒めたたえるとともに、忠敬の測量の経過を聞くことで自分の詩嚢[しのう](詩文を入れておく袋)に、中国の黄河や五岳(中国の霊山)をおさめたようだといい、忠敬のように諸国漫遊に生涯をささげられることをうらやましく思う、と詠んでいます。
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この資料も「管茶山記念館」に展示されていたものです。

箱田良助は、1807年に17歳で入門し、2年後の1809年の第7次測量に参加していることがわかります。

第7次測量の経路図が下に見えます。

経路=江戸→中山道→岐阜→大津→山陽道→小倉→九州東海岸→鹿児島→天草→熊本→大分→小倉→萩→中国地方内陸部→江戸



説明書きにナポレオン3世から将軍徳川慶喜に贈られ、榎本武揚に下賜されたとあった「フランス製軍服」と一緒に展示されていた「ディニェ モールス印字通信機」です。

武揚は、父良助の死去2年後の1862年から4年半の間、幕府の命でオランダに留学したようです。

オランダからは、幕府がオランダに発注した軍艦「開陽」に乗って帰ったようですが、その半年後の1867年11月に大政奉還があり、翌年の江戸城開場から函館戦争へ突き進んで行きます。



今年8月2日朝に訪れた函館の五稜郭の案内板にあった「榎本武揚」と、「土方歳三」の写真です。

あいにくの雨で、写真に水滴が見えます。

五稜郭で蝦夷共和国政府を樹立、武揚は選挙で総裁となったようですが、翌年の1869年(明治2)降伏しました。

函館では函館戦争で散った土方歳三が予想以上に高い人気でした。



「福山城美術館」のある天守閣の最上階から北東方向の景色で、中央に蔵王山が見えます。

天守閣では福山市の歴史が上階に登るほど古い時代の展示になり、最上階では全国の城の写真展示や、360度の美しい景色が楽しめます。