昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

坂上田村麻呂の熊野海賊征伐、「鬼ヶ城」の戦い

2009年05月23日 | 近畿地方の旅
話が前後しますが、「鬼ヶ城」「大馬神社」にまつわる鬼退治にもう一つ付け加えなれけばならない伝説がありました。



もう一つの伝説を知ったのは、ここ「道の駅 熊野きのくに」でした。

5/2 昼時、熊野市の観光を終え、国道42号を尾鷲市へ向かう道に「道の駅 熊野きのくに」があり、立寄りました。

この二つの建物では、木工製品や、野菜、加工食品などを売っています。

他に食堂や、観光案内場の建物が並び、駐車場も満車状態でした。

昼飯は、名物の「さんま寿司」「めはり寿司」で、初めての「さんま寿司」も、おいしく頂きました。



「道の駅 熊野きのくに」の観光案内場で見つけたパンフレットの表紙です。

熊野古道と、旅人の絵と思われます。

かわいいデザインで、手にとって見ると「泊観音と鬼退治」とあり、ゆっくり見たいと頂いて持ち帰りました。



三つ折りのパンフレットを開いてみました。

何と、ここでも平安時代の征夷大将軍「坂上田村麻呂」が「鬼ヶ城」で戦う話に加えて観音様の話も加わっているようです。

■内容を転記します。
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 ふるさとの民話が息づく東紀州へ その十一
泊観音と鬼退治 熊野市
 平城天皇の頃、諸国に鬼神魔王と呼ばれる鬼たちが騒ぎ立てて人々を苦しめていた。
坂上田村麻呂将軍は鬼退治を命じられたが、鬼たちは逃げ隠れ、行方知れずになってしまった。
高い山に登り観音さまの名を一心に唱えて祈っていると、烏帽子をかぶった天人が現れた。
「東方の海辺に岩屋あり、多蛾丸という悪鬼立てこもれり。大悲の弓にて討つべし。我は大馬権現なる
ぞ」 と言うと、白馬にまたがり西天に飛び去った。
 このお告げで勇気が出た将軍は、すぐに兵船で海に出た。岩屋を望む沖までは来たが、守りが固くて近来可れない。
途方に暮れていると、沖の島に一人の童子が現れ、手足をあげて歌い舞う。岩屋を守っていた兵もつられ、大舞踏会になってしまった。
あまりのにぎやかさに身の丈七尺(約二メートル)もある多蛾丸も気を奪われ、思わず岩屋の戸を開いてしまった。そこを逃さず、将官早は大悲の弓で射貫いた。
 童子は鬼が退治されたのを見届けると、光を放ち飛び去った。
将軍があとを追うと、深山の頂上の洞くつに姿を消した。将軍は感ずるところがあり、その頂上に幼少の頃から肌身離さず持っていた一寸八分(約五センチメートル)の千手観音を納める寺を建立して治国平和の霊場とした。これが泊の千手観音様である。今、この観音様は大泊の清泰寺に安置されている。
 麓大泊の清泰寺から、将軍が建立した船出臥山際水上寸lの跡には、いくつもの観音石像がやさしい表情で立っている。
民話出血ハ『みえ東紀州の民訴』
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坂上田村麻の鬼退治伝説に関連する熊野の地図です。

坂上田村麻呂将軍へ多蛾丸を「大悲の弓にて討つべし」※と言ったのは大馬権現で、多蛾丸の首を埋めたのが、大馬神社だったようです。

次に、鬼ヶ城の戦で、童子が現れ、にぎやかに歌い舞うたとある沖ノ島が地図にある「魔見ヶ島」のようです。

又、鬼の退治を見届けた童子が、姿を消した場所に坂上田村麻呂の所持していた千手観音を納めたのが泊観音(比音山清水寺)とのことです。

これだけの伝説の場所があったことを熊野に来て初めて知りました。

※「大馬権現」と、「大馬神社」の神様は同じと思われますが、「大悲の弓」を辞書で見ると「仏・菩薩が慈悲の心で衆生の煩悩の悪魔を降伏させるのを、弓にたとえていう語」とありますが、話では実際に弓で射たとあり、よく分かりません。



パンフレットの表紙にあった題字と、イラストを拡大してみました。

ちょっと素敵な天女が空を飛ぶ絵です。



パンフレットの表紙側のコピーです。

旅行で頂いたパンフレットや、入場券等は、スキャナーで撮り、スナップ写真と同じグメーピングでファイルに整理しています。

かさばる現物のほとんどは、処分しています。