昔に出会う旅

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花を飾り、歌と踊りで祭る伊弉冉尊の「花の窟神社」

2009年05月27日 | 近畿地方の旅
「獅子岩」の次に「花の窟神社」[はなのいわやじんじゃ]へ行きました。

「日本書紀」神代の巻では、「伊弉冉尊」が亡くなられて紀伊国熊野の有馬村で葬られたとし、土地の人々は、花を飾り、幡旗を立て、笛太鼓を鳴らし、歌い舞って伊弉冉尊を祭っているとされています。

何と、今でも熊野市有馬町の「花の窟神社」では季節の花を飾り、歌と踊りで、伊弉冉尊を祭り続けていると聞き、かねてから参拝したいと思っていました。

今回の「熊野・伊勢・志摩旅行」の一番の目的が、ここ「花の窟神社」の参拝でした。

今回は、掲示板の説明文が多く、適当に飛ばしてご覧下さい。



国道を曲がると右手に「花の窟神社」の参道入口、その向いに駐車場があります。

大きな石柱に「日本最古 花の窟神社」とあります。

日本最古は、神社をどう定義するかで変わってきますが、素性の分った神様を祭る場所としては確かに日本最古と思われます。

■境内入口の脇にあった神社の案内板に神社の概要がありました
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花の窟神社
祭神  伊弉冉尊[いざなみのみこと] 軻遇突智神[かぐつちのかみ]
例大祭 春祭 二月二日 秋祭 十月二日

神代の昔より花を供えて祭るので花の窟と言う。
窟の頂上よりかけ渡すお綱は神と人とをつなぎ神の恵みを授けてくださるお綱なり。
平成九年五月二十三日
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■参道の脇にあった案内板の説明文です。
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花の窟神社 (熊野市指定文化財 史跡)
熊野市は、神話や伝説が豊富なところで、その代表的なものがここ「花の窟」である。
「日本書紀」によると、皇室の祖先とされる女神天照大神の母神である伊弉冉尊[いざなみのみこと]は、火の神・軻遇突智神[かぐつちのかみ]を産んだとき、火傷を負って死に、この地に葬られた。尊の魂を祀るため、土地の人々は花が咲く季節に花を飾り、のぼりや幡旗[はた]を立て、笛太鼓を鳴らし、歌い踊って祭を行うとされている。このことから「花の窟」という名前がついた。
熊野三山の中心である本宮大社は、主神が伊弉冉尊の子家津御子[けつみこ]神であるため、今も花を飾って祭が始まる。このことからもわかるように「花の窟」は熊野三山の根源ともされ、わが国の古代信仰の重要な意味を持った場所なのである。

お綱掛け神事 (三重県指定無形民俗文化財)
「日本書紀」に記されていることが今に引き継がれ、2月2日と10月2日には多くの人が集まり「お綱掛け神事」が行われる。綱は藁縄[わらなわ]7本を束ねた物で、花をつけた3つの縄旗が吊るされている。
この縄旗は朝廷から毎年奉納された錦の旗であったが、洪水で旗を積んだ舟が難破したため、縄でその形を模したのが始まりとされている。

 黒潮回廊と神々の故郷 熊野市
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突き当りの建物が、「参籠殿」で、その向こうに「花の窟」が見えて来ます。

左手に手水舎があり、そのすぐ横に大きな岩がありました。



手水舎の横にある大きな丸い岩です。

直径は1mを少し超える感じで、苔むしています。

神社入り口前の建物「花の窟縄ない処」に掲示された丸い岩の写真には「丸石さま」と書かれてありました。

古代祭祀で神聖な石として使われたものではないかと思われます。



「参籠殿」を通り、門の右手前方に「花の窟」が見えて来ました。

「花の窟」は、低い石垣で囲まれ、社殿のなかった古代祭祀場の形にも似ているようです。

■神社入り口の向かいにあった文化庁・三重県・熊野市の合同の案内板です。
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国史跡 熊野参詣道伊勢路
 花の窟
この花の窟には社殿はなく、高さ約45mの巨巌そのものを御神体としている。自然崇拝の太古からの遺風を残すとともに、熊野の神様としてあがめられてきた。御神体の巨巌の真下に立つと身の引き締まる思いがする。
伊弉冉尊[いざなみのみこと]、軻遇突智神[かぐつちのかみ]である。毎年2月2日と10月2日には、祭典の主要神事である「お綱かけ神事」が行われる。お綱かけは、わら縄で編んだ110尋(約180m)の大綱に季節の花、扇をくくりつけ巌の上から引き延ばして松の大樹の梢に引き渡し、境内南隅の松の根元に結びつける。
日本書紀神代の巻一書に「いざなみのみこと、火神[ひのかみ]を産むときに、灼[や]かれて神退去[かむさり]ましぬ、故[かれ]、紀伊国[きのくに]の熊野の有馬村に葬[はぶ]りまつる。土俗[くにひと]、此の神の魂[みたま]を祭るには、花の時には亦[また]花を以[も]て祭る、又鼓吹幡旗[つづみふえはた]を用[も]て、歌い舞いて祭る。」と記されている。
「花の窟」の名を初めて世に紹介したのは、平安中期の有名な修行僧である増基法師である。その紀行文「いほぬし」には
・・・見れば、やがて岩屋の山なる中をうがちて、経を籠め奉りたるなりけり。「これは弥勒仏の出給はん世に、取り出で奉らんとする経なり。天人常に降りて供養し奉る」といふ。げに見奉れば、この世に似たる所にもあらず。・・・傍らに王子の岩屋といふあり。・・・
と花の窟を述べている。
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遂に「花の窟」を目の前にし、数年前から来たかった場所だけに感慨ひとしおでした。

正面の岩壁の下に伊弉冉尊が祀られ、はす向かいに軻遇突智神が祀られています。

暗い林の中から最後の門をくぐり、「花の窟」の前は、石垣と、木々に囲まれた広場になっていました。



岩の窪みの前に伊弉冉尊が祀られ、色とりどりの花がたくさんお供えされていました。

語り継がれた伝承もあり、この土地の人々は、花が好きだった伊弉冉尊を偲び、お供えされているものと思われます。

窟の下に金の御幣が、立てられていますが、伊弉冉尊の御神体と考えられているのでしょうか。



同じように岩の前を囲い、「軻遇突智尊」が祀られていました。

下の説明文にあるように背後の岩は、「王子の窟」と言われ、高さが約12mあるそうです。

祭壇の横には屋根のあるコンクリート製のローソク立て、その前には屋根付きのお賽銭箱が置かれています。

この前に座って拝む姿を想像すると、どことなく沖縄の礼拝の姿と重なってしまいます。

奈良時代までの神社は、社殿が無かったと考えられており、最も古い伝統を受け継いでいるのはこの様な形かも知れません。

■神社入り口向かいの「花の窟縄ない処」に掲示されていた案内文です。
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花の窟
日本書紀神代の巻に「一書に曰はく、伊弉冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去[かむさりましぬ。故[かれ]紀伊国の熊野の有馬村に葬[はぶ]りまつる。土俗[くにびと]、此の神の魂[みたま]を祭るには、花の時には亦[また]花を以て祭る。又鼓吹幡旗[つづみふえはた]を用[も]て、歌い舞いて祭る。」と記されている日本最古の神社です。社殿はなく、高さ約45mの窟をそのまま御神体としており、熊野三山や伊勢神宮成立前の太古の自然崇拝の遺風を漂わせています。花の窟の名は、季節の花々で神をお祀りしたことに由来すると言われており、古くから花祭りという珍しい祭礼を行っていたことがうかがえます。2004年(平成16年)7月に「紀伊山地の霊場と参拝道」として世界遺産に登録されました。対面に鎮座している火神・軻遇突智神[カグツチノミコト]を祀った12mほどの「王子の窟」(「聖の窟」とも)は、王子信仰(大神の御子神を祀る)の原形だと言われています。
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石垣で囲われた広場の隅から撮った写真です。

高さ約45mの窟を、何とか上から下まで収めました。

伊弉冉尊が葬られたのはこの岸壁に深い洞窟があるのではないかと想像していましたが、見当たりませんでした。

数千年前からの風化を考えると、今の姿から想像するのは無理かも知れません。

ここも「鬼ヶ城」「獅子岩」と同じ地質のようです。



伊弉冉尊の祭壇の前から見上げた窟の様子です。

山上から綱が2本張られ、それぞれに3つの縄旗が吊るされています。

1年に2回(2/2・10/2)新しい綱が張られるそうで、前回の綱が残って2本になっていることは、豊作が期待できるそうです。



神社入り口向いの「花の窟縄ない処」に掲示されていた写真で、「花の窟」の頂上付近を離れた場所から撮った様子です。

太い綱が、岩の上から張られ、縄旗の様子もよく分かります。

縄旗の下部には季節の花々が結び付けられるようです。

写真は、「神代から続くお綱かけ」の題で、撮影 濱中貞義氏と記されていました。

■神社入り口向かいの「花の窟縄ない処」に掲示されていた案内文です。
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「お縄かけ神事」① ~三流れの幡[みながれのはた]~
大綱に吊るされた御神体正面の3つの縄旗は、その昔に朝廷から奉献されていた錦の旗の名残で、伊弉冉尊が産んだ3貴神(天照大神、月読尊、素戔嗚尊)を象徴しています。「紀伊続風土記」にも”ある時に熊野川の氾濫によって錦の旗が届かなかったため、土地の人びとが縄旗を作って、旗の下に様々な季節の花を結びつけて行う”との記述があります。
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七里御浜から「お綱引き神事」を撮った写真で、実に大勢の人が参加され、「花の窟」の遠景も分ります。

「花の窟」前の「参籠殿」に掲示され、「お綱引き神事に全国各地から」の題で、大江眞一氏撮影と記されていました。

■神社入り口向かいの「花の窟縄ない処」に掲示されていた案内文です。
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「お縄かけ神事」② ~御子神が宿る大綱~
大祭に用いられる大綱は、古代米の稲藁で作られた7本の綱を1尋ごと(1.6m)に結束したものです。7本の綱もそれぞれ伊弉冉尊[イザナミノミコト]が産んだ自然神7柱を表しています。この日本一長いとも言われている大綱は、神々が宿るものであるため、またぐことは禁忌とされています。ちなみにお綱掛け神事は”かけ替え”ではなく、前回かけたお綱が残っている場合はそのままにして新たにお綱をかけます。したがって、お綱が2本ある光景が見られる場合もあります。全大祭のお綱が残っていることは豊作を約束するものとして喜ばれると言われます。
 ①風の神・・・級長戸辺命[シナトベノミコト]
 ②海の神・・・少童命[ワタツミノミコト]
 ③木の神・・・句句廼馳[ククノチ]
 ④草の神・・・草野姫[カヤノヒメ]
 ⑤火の神・・・軻遇突智命[カグツチノミコト]
 ⑥土の神・・・埴安神[ハニヤスノカミ]
 ⑦水の神・・・罔象女[ミツハノメ]
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花の窟神社の秋季大祭、春季大祭に奉納される少女たちの美しい踊りの様子です。

「花の窟縄ない処」や、「参籠殿」に掲示されていた写真をよせ集めたものです。

向って右上の写真は、「花の窟縄ない処」に掲示され、「安浦の舞、乙女の舞の舞姫さま」の題で、撮影 濱中貞義氏と記されていました。

向って左下の写真は、「参籠殿」に掲示され、「豊栄(乙女)の舞」の題で、撮影 松岡功氏と記されていました。

■神社入り口向かいの「花の窟縄ない処」に掲示されていた案内文です。
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神々の故郷の原始祭典
花の窟神社 秋季大祭・春季大祭
場所 花の窟神社  主催 花の窟神社 お白州引き実行委員会(お白州引き行事)

日本書紀にも記されている日本最古の神社「花の窟」は、日本の神々の母・伊弉冉尊の御陵であり、熊野三山の根源地として我が国の古代信仰にとって非常に重要な神域です。
百尋(166m)の御神体の窟頂上から「七里御浜」へ引き出して境内へ渡す「お縄かけ神事」(三重県指定無形民俗文化財)は、五穀豊穣を祈願するとともに、神と結びつながり、神の恵みをいただく太古から受け継がれる神事です。秋季大祭の際には、神聖な白石を載せた花車を引く「お白州引き」や道中踊りなどが行われます。

タイムスケジュール 秋季大祭(春季大祭)(※例年のおおよその時間です)
10月1日(2月1日) 16:30~ 宵宮(花車の煉りともちまき)
10月2日(2月2日) 9:30~ 「お白州引き」※

10:00 修祓(山上へ登る氏子の御祓い)
10:30 「お縄かけ神事」 安浦の舞・乙女の舞
11:30 神事終了、もちまき
 ※「お白州引き」は秋季のみ行われます。
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