熊野市「鬼ヶ城」の見物を終え、駐車場までの帰り道での話です。

鬼ヶ城からの道から国道42号へ上がる急なコンクリートの階段の途中に「鯨魚供養塔」がありました。
台座に「水難供養」と書かれた背の高いお地蔵さんを中心に石塔が並んでいましたが、「鯨魚供養塔」がどれかよく分かりません。
■「鯨魚供養塔」の前にあった立札の説明文です。
==========================================================================
熊野市指定準文化財
有形民俗文化財 鯨魚供養塔
「鯨魚供養塔、明治十三(1880)年庚辰十二月七日当浦漁夫中」とあり、早朝、鯱に追われた一頭の巨鯨が、脇ノ浜の波打際に跳ね上り、岩屋で野宿をしていた一人の武士がこれを発見、親井戸の漁夫たちに急報ついに捕獲して代金千五百円の収益をあげ、この収益を生かして、木造二階建の木本小学校を新築落成した。
鯨を発見した浪士は、岡山の藩士で、その功を賞讃され、時の木本浦戸長から、脇浜の姓をいただき、ながく木本住民として暮した。
指定 昭和五十四年四月一日
熊野市教育委員会
==========================================================================
捕獲した鯨を売って、小学校の校舎が新築できたとは驚きです。
この供養塔から見下ろす脇ノ浜で、賑やかに鯨の解体が行われたものと思われます。
数日前、同じ紀伊半島の和歌山県田辺市で、浅瀬に迷い込んだ鯨のニュースがありました。
昔からたまにこんなことがあったのですね。
幸運にも鯨を発見した岡山の浪士が、岩屋で野宿していたいきさつも気になるところです。

鬼ヶ城の西入口の案内板にあった案内地図です。
「くまの特産品館」横の駐車場まで帰ろうと、「鯨魚供養塔」のある階段を上り、国道42号のトンネルまで行ってみましたが、歩道がなく危なくて通れそうにありませんでした。
しかたなく引き返していると、家族づれの方に出会い、「木本隧道」を通る道があると聞き、一緒させて頂きました。
案内地図には「木本隧道」付近から熊野古道「松本峠」へ行く道も見えます。

「木本隧道」の入り口です。
トンネルの入口には「鬼ヶ城歩道トンネル」と書かれてあり、ずいぶん古いトンネルのようです。
この「木本隧道」は、山の中腹にあり、標識を見ると普通車以下なら通行可能のようです。
トンネルの歩道は、照明もあり、ゆったりと歩けました。
「木本隧道」を出ると国道42号へ突当り、「鬼ヶ城」の入口へたどり着きました。

再び「鬼ヶ城」の入口付近にあったモニュメントで、鬼が口をあけている姿とのことです。
私にはとても鬼に見えませんでした。

国道42号から「鬼ヶ城」へ入った道端に石碑がありました。
自然石の石碑には「日本写真界の先駆者 田本研造之碑」と刻まれていました。
■隣の石板にも写真家田本研造氏の説明文がありました。
==========================================================================
田本研造翁小伝
翁は天保二年(1831)現熊野市神川町の山深き農家に生まる
二十二歳長崎に行き蘭医に仕えかたわらオランダ写真術に心寄すが志を得ず
二十八歳函館に渡るも病みて右脚切断の悲運に遇う
ときに執刀医たりし縁をもってロシア領事館医より写真術を習得す
明治四年(1871)北海道開拓使命により開拓記録写真撮影に専心すること十有余年その厖大なる作品は迫真の記録性に優れ■■写真師の声名これより大いに挙がる
風景と人物主流の写真史初期秀抜のドキュメントは高く評価され
下岡蓮杖 上野彦馬と並び■■■写真界の先駆者と称せらる
大正元年(1912)八十一歳函館に没す
==========================================================================
こんな人がいたとは知りませんでした。
しかし、この石碑の前は、ほとんど歩く人がいないし、何気なく通り過ぎてしまうのではないかと思います。
熊野市神川町の「田本研造」の生家跡は、住所から地図を見ると七色ダムの少し南の山間部のようです。
片脚を失った田本研造が写真家として再起し、北海道の開拓の記録写真を多く残したことが高く評価され、函館市の図書館のサイトに田本研造の生前の写真と、「田本アルバム」の写真が公開されています。
↑こちらでゆっくりと写真をみせて頂きました。
又、明治維新の頃、五稜郭を占拠し、数か月間箱館政権を樹立した「榎本武揚」や、「土方歳三」(新撰組)の写真を撮ったことでも知られているようです。
鬼ヶ城の見物を終え、次はすぐ近くの海岸にある獅子岩です。

鬼ヶ城からの道から国道42号へ上がる急なコンクリートの階段の途中に「鯨魚供養塔」がありました。
台座に「水難供養」と書かれた背の高いお地蔵さんを中心に石塔が並んでいましたが、「鯨魚供養塔」がどれかよく分かりません。
■「鯨魚供養塔」の前にあった立札の説明文です。
==========================================================================
熊野市指定準文化財
有形民俗文化財 鯨魚供養塔
「鯨魚供養塔、明治十三(1880)年庚辰十二月七日当浦漁夫中」とあり、早朝、鯱に追われた一頭の巨鯨が、脇ノ浜の波打際に跳ね上り、岩屋で野宿をしていた一人の武士がこれを発見、親井戸の漁夫たちに急報ついに捕獲して代金千五百円の収益をあげ、この収益を生かして、木造二階建の木本小学校を新築落成した。
鯨を発見した浪士は、岡山の藩士で、その功を賞讃され、時の木本浦戸長から、脇浜の姓をいただき、ながく木本住民として暮した。
指定 昭和五十四年四月一日
熊野市教育委員会
==========================================================================
捕獲した鯨を売って、小学校の校舎が新築できたとは驚きです。
この供養塔から見下ろす脇ノ浜で、賑やかに鯨の解体が行われたものと思われます。
数日前、同じ紀伊半島の和歌山県田辺市で、浅瀬に迷い込んだ鯨のニュースがありました。
昔からたまにこんなことがあったのですね。
幸運にも鯨を発見した岡山の浪士が、岩屋で野宿していたいきさつも気になるところです。

鬼ヶ城の西入口の案内板にあった案内地図です。
「くまの特産品館」横の駐車場まで帰ろうと、「鯨魚供養塔」のある階段を上り、国道42号のトンネルまで行ってみましたが、歩道がなく危なくて通れそうにありませんでした。
しかたなく引き返していると、家族づれの方に出会い、「木本隧道」を通る道があると聞き、一緒させて頂きました。
案内地図には「木本隧道」付近から熊野古道「松本峠」へ行く道も見えます。

「木本隧道」の入り口です。
トンネルの入口には「鬼ヶ城歩道トンネル」と書かれてあり、ずいぶん古いトンネルのようです。
この「木本隧道」は、山の中腹にあり、標識を見ると普通車以下なら通行可能のようです。
トンネルの歩道は、照明もあり、ゆったりと歩けました。
「木本隧道」を出ると国道42号へ突当り、「鬼ヶ城」の入口へたどり着きました。

再び「鬼ヶ城」の入口付近にあったモニュメントで、鬼が口をあけている姿とのことです。
私にはとても鬼に見えませんでした。

国道42号から「鬼ヶ城」へ入った道端に石碑がありました。
自然石の石碑には「日本写真界の先駆者 田本研造之碑」と刻まれていました。
■隣の石板にも写真家田本研造氏の説明文がありました。
==========================================================================
田本研造翁小伝
翁は天保二年(1831)現熊野市神川町の山深き農家に生まる
二十二歳長崎に行き蘭医に仕えかたわらオランダ写真術に心寄すが志を得ず
二十八歳函館に渡るも病みて右脚切断の悲運に遇う
ときに執刀医たりし縁をもってロシア領事館医より写真術を習得す
明治四年(1871)北海道開拓使命により開拓記録写真撮影に専心すること十有余年その厖大なる作品は迫真の記録性に優れ■■写真師の声名これより大いに挙がる
風景と人物主流の写真史初期秀抜のドキュメントは高く評価され
下岡蓮杖 上野彦馬と並び■■■写真界の先駆者と称せらる
大正元年(1912)八十一歳函館に没す
==========================================================================
こんな人がいたとは知りませんでした。
しかし、この石碑の前は、ほとんど歩く人がいないし、何気なく通り過ぎてしまうのではないかと思います。
熊野市神川町の「田本研造」の生家跡は、住所から地図を見ると七色ダムの少し南の山間部のようです。
片脚を失った田本研造が写真家として再起し、北海道の開拓の記録写真を多く残したことが高く評価され、函館市の図書館のサイトに田本研造の生前の写真と、「田本アルバム」の写真が公開されています。
↑こちらでゆっくりと写真をみせて頂きました。
又、明治維新の頃、五稜郭を占拠し、数か月間箱館政権を樹立した「榎本武揚」や、「土方歳三」(新撰組)の写真を撮ったことでも知られているようです。
鬼ヶ城の見物を終え、次はすぐ近くの海岸にある獅子岩です。