大山寺の山門の手前を左に曲がると「大神山神社奥宮」の鳥居が見えます。
この石鳥居は、文政三年に建てられた「石造明神鳥居」で、国の重要文化財に指定されています。
「大神山神社奥宮」の参道です。
緑の参道に静寂さがただよい「歩いてみたい道」といった感じです。
案内板に「日本一長い自然石の道 ごゆっくりとどうぞ」と書かれていました。
参道の石畳は、500m位続いているようです。
「大山寺本堂」から出てきた道と合流し、さらに進んで行くと左手に「ほほえみ地蔵」が見えてきます。
三体の「ほほえみ地蔵」には赤い手編みの頭巾が掛けられ、参道を歩く人たちを慈悲深くほほえんで見守っているようです。
「ほほえみ地蔵」のすぐ奥に「本坊西楽院水車小屋跡」の標識があり、僧兵の力石があります。
「僧兵の力石」は、石の台に置かれた円柱形の石で、見た感じで50Kg以上はあるでしょうか。
僧兵達が、この石で力を競ったとされていますが、いったいどうやっていたのか興味のあるところです。
■案内板を転記します。
「僧兵の力石」
大山寺の僧兵は約五百年の昔その数三千人と言われ、勇猛無比その勢いは大山颪(おろし)と言われ山陰を風靡(ふうび)したが、平時この力石で力を競ったと伝えられる。
とても長い石畳の参道が続いています。
「ほほえみ地蔵」をさらに進むと大きな杉の木がありました。
「夫婦杉」です。
「夫婦杉」は、隣接して生えた2本の杉が、大きく生育する過程で合体した状態になったものと思われます。
参道沿いにはこの他にも少し合体した杉が散見されました。
余談ですが、島根県松江市の「八重垣神社」の「夫婦椿」を思い出しました。
神社の門前に推定樹齢約500年の椿があり、見事に木が1本になっていました。
「神秘夫婦椿 連理玉椿」の案内板があり、東京資生堂の花椿会はこの木を神聖視して発展されたと言われています。
■案内板を転記します。
「夫婦杉」
この杉は数百年の間、自然の摂理により根が交り、夫婦杉と呼ばれている。
「夫婦杉」を過ぎた参道脇に大きな岩に彫られた石仏がありました。
■説明板を転記します。
「吉持地蔵」
江戸中期の頃会見郡の長者吉持甚右衛門が悟院住職豪堅に仲を持ってもらい寄進したもので大山寺の数多い地蔵の中で自然石にきざまれた数少ない地蔵である。
やや上り坂の石畳の道に二つ目の鳥居が見えてきました。
一見、コンクリートの比較的新しい鳥居に見えますが、天明二年(1782)に建てられた「銅製明神鳥居」だそうです。
一番目の石鳥居と合せて国の重要文化財に指定されています。
「銅製明神鳥居」の柱を拡大した写真です。
鳥居を寄進した人たちの名が貼り付けられています。
よく見ると「米子市 後藤市右衛門」と書かれています。
天明二年(1782)に建てられたとされる鳥居に昭和二年(1927)に市制施行した「米子市」と書かれているのはいったいどう言うことでしょうか。
よく分りませんが、近年の修理費用に関わる記載かも知れませんね。
参道脇に「延命長寿 御神水」と書かれた水呑み場がありました。
とてもありがたい水のように書かれていると、その気になってしまいます。
最近、大山の湧水が商品化されているようですが、ここでは飲み放題です。
参道を進むと石段の上に大神山神社の神門「後向き門」が見えてきます。
写真の右下は上の石段から見下ろした「後向き門」です。
門の扉をロックする閂(かんぬき)の裏表が、逆に建ててあることから「後向き門」と呼ばれているようです。
1857年、大山寺本坊西楽院の表門をこの場所に移築した時、そのままの向きで移転したのが後向きとなった理由と言われています。
まさか、これだけの建物の移動を考えた人は、うっかり表裏を間違えるとはないと思われます。
むしろ、門の両側は自由に歩ける山で、扉を閉じてカギを掛ける必要がなかったのではないかと勝手な推測をしています。
■大神山神社奥宮の本殿にあった建物の説明板を転記します。
「大神山神社奥宮神門」
単層・桧皮茸・四脚の向唐門で、江戸時代末期の技法が豊かな門である。
神門右側の石柱にあるように、安政四年(1857)にいまの日野郡根雨の近藤氏が寄進したことがわかる。
2007-11-12このブログ 「近藤氏」は、出雲街道「根雨宿」の町並み で掲載した、たたら製鉄の「近藤家」と思われ、根雨の町並みで「備後屋」の看板があった建物です。
大神山神社奥宮の最後の石段の下にあった狛犬です。
とても変わった狛犬で、怪獣映画のゴジラを想像してしまいます。
石段を上がるといよいよ「大神山神社奥宮」です。