昔に出会う旅

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西表島 祖納の豪族「慶来慶田城用緒」

2007年06月14日 | 沖縄の旅
昨日掲載の西表中学学校の生徒達が作った「ゆったり歩こう祖納マップ」に祖納の上村(うえむら)は聖地なので・・・とあり、1500年頃の西表島祖納の豪族「慶来慶田城用緒」(けらいけだぐすくようちょう)に関係する場所ではと思い調べてみました。



祖納の上村は、祖納半島の先にある高台にあり、半島の根元にある集落は下村と言われているそうです。
やはり上村には「慶来慶田城翁屋敷跡」と言う遺跡があるようです。


平家の末裔と言われる「慶来慶田城用緒」は、西暦1500年前後の西表島祖納の豪族です。
世界では大航海時代が始まり、琉球王朝も明国への朝貢貿易で国力を強めていました。
琉球王朝は、第2尚氏王朝第3代の尚真王(1477年~1526年)の時代になり、奄美・久米島・宮古・八重山などの諸島を制圧、王国の版図を大きく拡大しました。
又、シャム・マラッカとの交易も盛んに行い、まさに王朝の黄金時代を迎えていました。

沖縄本島の南にある宮古島も琉球三山時代の14世紀頃から大陸との交易を始め、15世紀末頃には「仲宗根豊見親玄雅」(なかそねとういみやあげんが)の時代には宮古島の統一を果たしていたようです。
又、「仲宗根豊見親」は、琉球王朝へ朝貢、その支配下になっていたようです。

八重山地方では、宮古島を統一したの豊見親一族の影響が強まる中、ようやく群雄割拠の時代を迎える頃になっていました。


上の地図は、1500年頃の八重山地方の推定勢力図です。
八重山諸島は、地図の通り群雄割拠となり、先進地域宮古島の豊見親一族の影響も強まっていたようです。
石垣島北部の「平久保加那按司」、石垣島西部の「仲間満慶山英極」(なかまみつけーまえいきょく)、同島南部の「長田大主」(なーだふーず)、石垣島東部の「オヤケアカハチ」(遠弥計赤蜂)、西表島の「慶来慶田城用緒」」(けらいけだぐすくようちょう)、波照間島の「明宇底獅子嘉殿(みうすくししかどぅん)」、与那国島の女傑「サンアイイソバ」が地域の豪族として伝えられています。

この情勢の中、西表島祖納の「慶来慶田城用緒」は、石垣島北部の「平久保加那按司」を攻め、滅ぼしたそうです。
戦いは、平久保の「下女」を味方にひき入れ、その手引きで勝ったもので、勇ましい決戦による勝利ではなかったようです。
戦いの直後、「慶来慶田城用緒」は、「仲宗根豊見親」の子とされる石垣村の「長田大主」に会い、兄弟の契りを結んだそうです。

八重山の中心地であった祖納の豪族「慶来慶田城用緒」は、八重山で影響を強める宮古島勢力と結ぶことにより交易権、交易路の確保を図ったものと推察されます。
又、海外との交易を行なう宮古島にとって祖納の「慶来慶田城用緒」を傘下にすることは、造船などの木材資源の主要供給地八重山を確保する重要な意味があったものと考えられます。

滅ぼされた「平久保加那按司」は、平久保辺の小村の者どもを従わせて使用人とし、稲、粟を作り、4~5百石も貯え、牛馬は300~400頭も飼って権勢を誇っていたと言われています。
その屋敷跡「伝平久保加那按司館址」は、平久保半島の県道の終点「平野」にあります。

「慶来慶田城用緒」が、「平久保加那按司」を攻めた訳は定かではありませんが、宮古島への航路にあたること、宮古島により近い木材の供給地としての競合、地域の産業を盛んにして勢力を強めていたことで、相対的に力関係が弱まっていることへの危機感から行動に出たものと推察しています。


祖納集落の北にある「北泊の浜」から「上村」の高台方向を見た景色です。

1771年に造られた「慶来慶田城由来記」と言う資料によると、「慶来慶田城用緒」は、オヤケアカハチの乱の後、琉球王朝から「西表首里大屋子」の官職を与えられたそうです。


祖納集落の南にある「前泊の浜」から「上村」の高台方向を見た景色です。

高台には茂みに囲まれた「慶来慶田城翁屋敷跡」があり、地元の人たちは、祖納の英雄を偲ぶ史跡として大切に守られているようです。

参考資料「沖縄の歴史と文化」外間守善著


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