昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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平泉町「無量光院」、北の地にあった極楽浄土の世界

2008年05月21日 | 東北地方の旅
昨年10月8日の旅行で行った岩手県奥州市「えさし藤原の郷」のつづきです。



「えさし藤原の郷」の「伽羅御所」の前に庭園と、池があり、その向こうに「無量光院」を再現したセットが見えています。

「無量光院」は、奥州藤原氏三代秀衡が、宇治の平等院鳳凰堂をまねて造った寺院だそうで、平泉にあった秀衡の屋敷「伽羅御所」に隣接して造られた寺院だったようです。



正面から撮った「無量光院」の景色です。
建物の前の木は、小さなものを選んで植えてあるようですが、後ろの山の木が大きく見えます。
よく見ると実際の建物より小さく造られているようです。
テレビや映画の制作では、建物の背景となるこの山は、画像処理技術でカットするのでしょうか。



「えさし藤原の郷」の後、平泉町の「無量光院跡」へ行ってみました。
この写真は、「無量光院跡」の案内板にあった建物の再現図です。

下の説明文にもあるように寺院の背後に富士山の形に似た金鶏山(高さ98.6m)があり、秀衡が造らせた山とも言われているようです。(上の絵にはありません)

■現地の説明書きを転記します。
特別史跡無量光院跡
無量光院は三代秀衡が建立しました。モデルは宇治の平等院鳳凰堂。鳳凰堂は、「極楽を疑うならば宇治のお寺をお参りしなさい」と子供まで唄われました。無量光院もまた仮想の極楽浄土です。両寺院とも本尊は阿弥陀如来像。西方に極楽あり、その主は阿弥陀如来なのです。春秋彼岸の頃、無量光院の正面に立つと、西方にある金鶏山の真上に日が沈みます。入日の中に阿弥陀如来が浮かび上がる様子は、まさしく秀衡が思い描いたこの世の極楽浄土だったのです。



無量光院跡にある「中島の跡」とされる場所です。
上の絵にあるように池に浮かぶ島だったようです。

現在、平泉の中尊寺、毛越寺(もうつうじ)を中心とした地域が世界遺産登録に申請されているようです。
この平泉が、浄土思想を基調とし、浄土の世界を具現化した史跡であることが、ユネスコ世界遺産登録を申請した趣旨だそうです。



発掘ではこの辺りに建物の礎石や、池の跡などが確認され、極楽浄土を感じさせる美しい建物があったようです。

「無量光院」の「無量」は、各地にある「無量寺」でなじみがあります。
「阿弥陀如来」の光が無限に十方世界を照らすということから「無量光如来」とも言われることに由来しているようです。

「阿弥陀如来」にちなむ「無量」と言う言葉が、日本の数字の桁の名で最も大きいのが10の68乗「無量大数(むりょうたいすう)」にも使われています。
インドから中国を経て伝わった仏教ですが、「阿弥陀如来」にちなむ名称が科学で使う最高の数字の桁名に使われることはいかにも東洋的だと感じます。



この辺りは発掘中と思われる場所です。
これまでの発掘調査では、東西約240m、南北約270mの規模で、京都の平等院を凌ぐ大きな寺院だったようです。



平泉町「中尊寺」のかっての覆堂が別の場所に移設され、その中に「無量光院」の絵が展示されていました。
背後に富士山に似た「金鶏山」が描かれていました。

「金鶏山」の麓には高館で亡くなった源義経の妻子の墓があるそうです。
最期まで義経に連れ添った妻は武蔵の国の武士の娘だったそうです。
生まれ故郷の武蔵の国から見た富士山の話を義経の妻から聞いていた人が、死を憐れみ、富士山に似た「金鶏山」の麓に葬ったのかも知れません。

■説明書きを転記します。
無量光院 及川文吾作
新御堂とも云い、藤原秀衡将軍の建立で、金容丈六阿弥陀如来が安置されました。院の結構地形に至るまで宇治の平等院をかたどったみのでしたが、天正年間に焼亡し、今は田圃に変り、残礎断石離々として其のいにしえを語るのみであります。
又、遥かに見える金鶏山の社は平泉の鎮守総社で熊野権現の遠景です。


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