昔に出会う旅

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「樺山遺跡」の「配石遺構」(ストーンサークル)を見学

2008年04月27日 | 東北地方の旅

岩手県北上市稲瀬町の「樺山遺跡」の配石遺構を見学に行きました。
北上川を見下ろす台地に遺跡は広がっていました。

樺山遺跡は、4000年から5000年前の縄文時代の竪穴住居跡群のすぐそばで、配石遺構群が発掘され、復元されています。



頂いたパンフレットに樺山遺跡の案内図がありました。

■遺跡の端に樺山遺跡の案内板の説明文があり、転記します。
「国指定史跡 樺山遺跡」
  指定 昭和52年7月14日
  管理者 北上市
この遺跡は、縄文時代中期の配石遺構群を伴う、縄文時代末から後期にかけて(約四、五千年前)の集落跡である。
特に、配石遺構とよばれる石組み群が、兵陵西側の緩い斜面部から平坦部にかけての一帯に不規則に分布し、発掘調査によって二十数箇所が確認されている。
個々の石組みの石の並べ方にいくつかの型が認められるが、花崗岩の細長い川原石一個を立てた周りに、数個の山石を放射線状に並べたものを典型とする。
石組みの下は少しくぼんではいるが、土こう(あな)といえるものではない。
石組みに伴って出土した土器や石器から縄文時代中期のものと考えられる。
配石遺跡は、縄文時代前期から知られているが、樺山遺跡の時期以降の代表的なものとして、秋田県鹿角市の大湯環状列石がある。
これは縄文時代後期のもので、石組み群の中の日時計とよばれているものが、樺山遺跡の石組みに似ており、樺山遺跡のものをその祖源とみることができる。
このような配石遺跡は何のために造られたかについては以前から墓地とみる説と、祭り場とみる説とがあるが、北海道地方では墓地がほとんどであり、そのほかの地方では両者があって一様ではない。
樺山遺跡では、墓であるかをみるため、石組みの下の土の分析をしたが、墓としての確かな証拠が得られなかったとされている。
しかし、他の遺跡例と比較しながら、今後なお検討する必要があろう。
なお、この旧両上は、配石遺構を造った人々が生活した場所と考えられ、縄文時代中期の竪穴住居跡群がある。
  昭和62年3月
  北上市教育委員会



向こうに見える少し高い場所に縄文時代の住居跡が発掘され、住居が復元されていました。
写真の向って左側が車道で、向こうが東南東方向です。
初めて見る配石遺構です。


上の写真の逆方向の景色です。
向こうに駐車場や、遺跡の説明展示のある「縄文館」などがあり、緩やかに下っています。



丸っこい石が中央に立ち、ごつごつした石が不規則に円く並べられています。
スタンダードな形の他、色々な形の配石遺構がありましたので以下に紹介します。



立っている石がずんぐりとして、置かれている位置も、中央から外れています。



二つの丸い配石遺構がくっついています。



大きめの配石遺構のずいぶん端に石が立っています。



中央に立つ石が三角錐の形です。
この形の石は、「依り石」として祭祀場所などで見かけたことがあります。



立っている石に白い部分があります。
顔に見立てているのでしょうか。



12号配石遺構と紹介されているもので、とにかく変わっています。
立っている石が、自然石と違い、かなり手の込んだ石器のようです。
石は、平たく加工され、縄文館にも模型を再現されていました。


12号配石の位置が紹介されている地図が展示されていました。
約30の配石遺構の配置が描かれています。

この遺跡では約1000年間、人々が生活したおり、この配石遺構は、代々の祖霊を祀ったものではないかと推察しています。
色々な形の配石遺構も代々の祖先の個性に合わせた石を選んだのかも知れません。


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