昔に出会う旅

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「えさし藤原の郷」の「義経持仏堂」と、平泉町「高館」

2008年05月18日 | 東北地方の旅
岩手県奥州市「えさし藤原の郷」のつづきです。


平泉町の高館にあるお堂を模した「義経持仏堂」のセットがありました。
高欄の付いた廻り縁にナギナタをもった弁慶像が立ち、中に義経の座像があります。

源義経は、「持仏堂」で、最期を迎えたそうです。
たくさんの弓矢を撃たれた弁慶が仁王立ちを続けていた「弁慶の立ち往生」と言われる場面もこの「持仏堂」を守るとしたらすぐ近くだったと思われます。



翌日、平泉町「高館(たかだち)義経堂」へ行ってみました。
最後の石段から「高館義経堂」を見上げたところです。



「高館義経堂」は、1683年(天和3年)、仙台藩主伊達綱村(第4代)が義経を偲んで建立したものだそうです。
伊達綱村は、正宗の曾孫に当ります。
父の3代藩主綱宗が、遊興放蕩三昧で強制的に隠居させられ、綱村が2歳で藩主となった事件は「伊達騒動」として知られています。



お堂は、想像以上に小さなものでした。

■案内板にあった説明文を転記します。
「高館 義経堂」
ここ高館(たかだち)は、義経最後の地として伝えられてきた。
藤原秀衡は、兄頼朝に追われて逃れてきた義経を平泉にかくまう。
しかし、秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺言に背いて義経を襲った。
文治五年(1189年)閏四月三十日、壱台の英雄義経はここに妻子を道連れに自害した。
時に義経31歳。
吾妻鏡によると、義経は「衣河館(ころもかわのたち)」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館」とも呼ばれるこの地は、「衣河館」だったのだろうか。
ここには、天和三年(1683年)伊達綱村の建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られている。
頂上からの眺望は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてた東に束稲の山なみが眺められる。
束稲山は往時、桜山と呼ばれ、西行が山家集で「ききもせず 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」と詠じた。
また、元禄二年、俳聖松尾芭蕉が、「おくのほそ道」で詠んだ「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、この場所といわれている。
平成六年四月 平泉観光協会



すぐ下の道のそばから北上川が見下ろせ、「高館展望説明図」という案内板がありました。

江戸時代、伊達綱村が義経終焉の地としたこの山は、標高66mで、平泉では風光明媚な場所のようです。


「高館」から北上川をみた景色です。
川の向こうの正面に「駒形峯」右手に「観音山」などが見えます。



北上川の上流方向(北)を見た景色です。
少し上流には、衣川の支流があります。



北上川を見下ろす平泉町の小高い丘に「高館義経堂」があります。
奥州藤原氏三代秀衡・四代泰衡が本拠としていた「柳之御所遺跡」もその南にあります。

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると義経が、奥州藤原氏四代泰衡(やすひら)に攻められ、最期を迎えた場所が「衣河舘」とあります。

現在、地図の上部分に衣川の北岸に衣川遺跡群があります。
義経最期の場所「衣河舘」は、衣川遺跡群の発掘調査により、衣川の北岸と考える説が有力となりつつあるようです。

衣川の北岸は、かっての奥六郡の覇者、安倍氏、清原氏の拠点であり、奥州藤原氏の政治顧問的な藤原基成の拠点でもあったようです。
義経が身を寄せていた「衣河舘」は、その藤原基成の館だったと思われます。

義経が奥州藤原氏を頼った経緯や、再び落ち延びてかくまったことも朝廷に政治的つながりを持つ元中央貴族の藤原基成の画策であった可能性もあるようです。
「朝廷」対「鎌倉幕府」の対立する政治情勢の中で、藤原基成は、奥州藤原氏、義経の政治的価値を最大限利用しようとしていたものと思われます。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-05-20 18:37:35
今日は散歩によって見ました(*^_^*)
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