岩手県奥州市江刺区岩谷堂にある「奥州市 えさし郷土文化館」に行きました。
「成島毘沙門堂」と「兜跋毘沙門天立像」に続いて仏像の拝観です。
「えさし郷土文化館」で頂いたパンフレットの表紙です。
この仏像は、江刺市藤里にある「藤里毘沙門堂」の「兜跋毘沙門天立像」です。
以前、掲載した「成島毘沙門堂」の「兜跋毘沙門天立像」と同様に地天女(地母神)の手のひらに載っている毘沙門天立像です。
トチの木の一木造で、「ナタ彫り」と言われる丸ノミで粗く彫られた横縞に特色があるそうです。
この「えさし郷土文化館」には「藤里毘沙門堂」の他、この地域の「黒石寺」「極楽寺」「正法寺」等の仏像のレプリカが多く展示されています。
こちらでのレプリカ拝観で、スケジュールの時間節約になりました。
しかし、「黒石寺」の「四天王像」、本堂正面の鉄製の狛犬などは現地で見たかったのですが、平泉までの予定のため、時間がなく次の機会としました。
2006年10月、JR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事「東北新幹線・岩手古寺巡礼」にあったページです。
この仏像は、事前のイメージと比較して、意外に小さく見えました。
やはり成島の巨大な「兜跋毘沙門天立像」を見た後だったのかも知れません。
毘沙門天は、さすが「戦いの神」で、とても厳しい目をしています。
右上に見える金色の仏像の写真は、岩手県奥州市水沢区にある「黒石寺」の本尊「薬師如来坐像」(国指定重要文化財)です。
その下には、奥州市「黒石寺」のご住職(女性)や、四天王像の写真が見えます。
この写真も2006年10月、JR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事「東北新幹線・岩手古寺巡礼」に掲載されていたページです。
「黒石寺」の本尊「薬師如来坐像」が1ページ全体にアップで描かれ、当時の黄金文化と、長い歴史の隔たりを感じます。
「黒石寺」をご存じない方でも東北地方で、今年の初めにJR東日本に駅での掲示を拒否された祭りのポスターで、ヒゲのある全裸の男性が「わいせつ」かどうかでニュース報道されたことには記憶があると思います。
その祭りが黒石寺の「蘇民祭」で、日本三大奇祭のひとつと言われいるようです。
今年の祭りは、ポスターのニュースのおかげで参拝者が殺到すると予想したマスコミ関係者だけが賑わっていたそうです。
「えさし郷土文化館」で頂いたパンフレットにあった「薬師如来坐像」の全体像です。
館内では、台座の上に安置され、ガラスケース越に見ました。
この仏像は、桂の木の一木造りだそうです。
桂の木は古代から神聖な木とされ、たしか製鉄の神様が降臨する木としても知られているようです。
雑誌の写真と、記事で少し期待を膨らませていたせいか、あまり感動がなかったのが残念です。
レブレカの仏像で、ガラス越に見たせいでしょうか。
これもJR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事のページです。
中央の「銅龍頭」は、「金銅製で、北上市の「極楽寺」に残されているそうです。
「極楽寺」は、今から約1,200年前頃に造られたようです。
朝廷軍を率いる坂上田村麻呂は、蝦夷の首領アテルイを破り、アテルイの拠点だった北上川東岸に大伽藍を建てたそうです。
「極楽寺」「は、大伽藍だった「国見山廃寺」と強い係わりがあったものと思われます。
「えさし郷土文化館」の「銅龍頭」は予想と違い、ずいぶんちいさなものでした。
龍頭(りゅうとう)は、仏教の儀式の「幡(ばん)」という飾りものを吊るすために使われたそうです。
「極楽寺」は、国見山の近くで、北上川に近い場所にあります。
この地方の蝦夷を制圧した朝廷が、蝦夷の拠点であった土地に逆襲に備え、「柵」を作り厳重に防衛していたようすが伺えます。
自分たちを守ってくれる多くの仏閣を造り、「兜跋毘沙門天」の像を造り、平安を祈ったのでしょうか。
「兜跋毘沙門天」は、唐の時代に西域の町が外敵に襲われた時、「値母神=地天女」が土の中から「兜跋毘沙門天」を掌にのせて現れ、外敵を追い散らした伝説があるようです。
「成島毘沙門堂」と「兜跋毘沙門天立像」に続いて仏像の拝観です。
「えさし郷土文化館」で頂いたパンフレットの表紙です。
この仏像は、江刺市藤里にある「藤里毘沙門堂」の「兜跋毘沙門天立像」です。
以前、掲載した「成島毘沙門堂」の「兜跋毘沙門天立像」と同様に地天女(地母神)の手のひらに載っている毘沙門天立像です。
トチの木の一木造で、「ナタ彫り」と言われる丸ノミで粗く彫られた横縞に特色があるそうです。
この「えさし郷土文化館」には「藤里毘沙門堂」の他、この地域の「黒石寺」「極楽寺」「正法寺」等の仏像のレプリカが多く展示されています。
こちらでのレプリカ拝観で、スケジュールの時間節約になりました。
しかし、「黒石寺」の「四天王像」、本堂正面の鉄製の狛犬などは現地で見たかったのですが、平泉までの予定のため、時間がなく次の機会としました。
2006年10月、JR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事「東北新幹線・岩手古寺巡礼」にあったページです。
この仏像は、事前のイメージと比較して、意外に小さく見えました。
やはり成島の巨大な「兜跋毘沙門天立像」を見た後だったのかも知れません。
毘沙門天は、さすが「戦いの神」で、とても厳しい目をしています。
右上に見える金色の仏像の写真は、岩手県奥州市水沢区にある「黒石寺」の本尊「薬師如来坐像」(国指定重要文化財)です。
その下には、奥州市「黒石寺」のご住職(女性)や、四天王像の写真が見えます。
この写真も2006年10月、JR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事「東北新幹線・岩手古寺巡礼」に掲載されていたページです。
「黒石寺」の本尊「薬師如来坐像」が1ページ全体にアップで描かれ、当時の黄金文化と、長い歴史の隔たりを感じます。
「黒石寺」をご存じない方でも東北地方で、今年の初めにJR東日本に駅での掲示を拒否された祭りのポスターで、ヒゲのある全裸の男性が「わいせつ」かどうかでニュース報道されたことには記憶があると思います。
その祭りが黒石寺の「蘇民祭」で、日本三大奇祭のひとつと言われいるようです。
今年の祭りは、ポスターのニュースのおかげで参拝者が殺到すると予想したマスコミ関係者だけが賑わっていたそうです。
「えさし郷土文化館」で頂いたパンフレットにあった「薬師如来坐像」の全体像です。
館内では、台座の上に安置され、ガラスケース越に見ました。
この仏像は、桂の木の一木造りだそうです。
桂の木は古代から神聖な木とされ、たしか製鉄の神様が降臨する木としても知られているようです。
雑誌の写真と、記事で少し期待を膨らませていたせいか、あまり感動がなかったのが残念です。
レブレカの仏像で、ガラス越に見たせいでしょうか。
これもJR東日本の雑誌「トランヴェール」の特集記事のページです。
中央の「銅龍頭」は、「金銅製で、北上市の「極楽寺」に残されているそうです。
「極楽寺」は、今から約1,200年前頃に造られたようです。
朝廷軍を率いる坂上田村麻呂は、蝦夷の首領アテルイを破り、アテルイの拠点だった北上川東岸に大伽藍を建てたそうです。
「極楽寺」「は、大伽藍だった「国見山廃寺」と強い係わりがあったものと思われます。
「えさし郷土文化館」の「銅龍頭」は予想と違い、ずいぶんちいさなものでした。
龍頭(りゅうとう)は、仏教の儀式の「幡(ばん)」という飾りものを吊るすために使われたそうです。
「極楽寺」は、国見山の近くで、北上川に近い場所にあります。
この地方の蝦夷を制圧した朝廷が、蝦夷の拠点であった土地に逆襲に備え、「柵」を作り厳重に防衛していたようすが伺えます。
自分たちを守ってくれる多くの仏閣を造り、「兜跋毘沙門天」の像を造り、平安を祈ったのでしょうか。
「兜跋毘沙門天」は、唐の時代に西域の町が外敵に襲われた時、「値母神=地天女」が土の中から「兜跋毘沙門天」を掌にのせて現れ、外敵を追い散らした伝説があるようです。