7/17 北海道旅行4日目 礼文島北部の最後のスポット「高山植物園」から香深港へ帰る途中、香深井集落にある「見内神社[みないじんじゃ]」へ立寄りました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/50/303d9080eb901afab392c13bd3a326a3.jpg)
海岸沿いの道路を走っていると、道路脇に赤い屋根と、鳥居の「見内神社」が目に飛び込んで来ます。
最初、神社の正面にカーブミラーがあるように思い、驚きましたが、よく見ると道路側は神社建物の裏側で、海側が建物正面になっていました。
鳥居と、それに続く参道が神殿の両脇にある珍しい神社です。
■道路脇に「見内神社」の白い案内板があり、不思議な伝説がありました。
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見ないカムイ(見内神社)伝
カフカイ岬角の先端の岩の上に「見ないカムイ」と言われる小祠が祭られている。
この島にアイヌが多く住んでいた頃、アイヌ達はこの岩を非常に恐れて、路を通るにもこの場所を避けて見ない振りをして通行していたので和人が「見ないカムイ」と名付けたものであつた。
この恐れて通る岩に対してアイヌ達はニシンが多く獲れたとき、またはトドが沢山獲れたときなどは、トド松の枝を切ってこの場所に捧げたので、この枯枝で森のようになっていた。
明治十四・五年頃の出来事であったが、その年のニシン漁が不漁で香深の山本久衛門の支配人某が腹を立てその枯枝に火をかけて焼いてしまった。
ところが、この焼け跡に高さ二メートル程の岩が削立しているのが発見された。この岩が「見ないカムイ」の神であった。
事件後に村には死産が多くなつたがアイヌ達はいかにも当然であるかのように話した。
「安産の神の罰があたったのだ」と・・・。
アイヌが、この岩を尊敬し信仰の対象としたのは昔、天塩のカフカという毒婦が悪事のために村人に憎まれ、トド松の木で作った檻の中に入れられて海に流されたが、この檻が波に流れ流れて漂着した所がカフカイの岩の下で妊娠していた彼女はこの場所で安産したことから、この岩がお産の神と祭られるようになり安産を祈る妊婦はトド松の枝を捧げて安産を祈ることになったと伝えられるようになった。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/cb/92ff08c6e34b7906984df6df7a38ebb9.jpg)
礼文島全体の地図と、左手下は「見内神社」のある「香深井」集落付近の詳細地図です。
礼文島の北東部にある「高山植物園」から東海岸を南下、カフカイ[香深井]の「見内神社」まで走って来ました。
「見内神社」の案内板に書かれた「カフカイ岬角の先端の岩」の場所は、地図で見る限り現在の「見内神社」辺りと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/69/244c3b2a258ebdf93a522db3793505d5.jpg)
道路脇の神社建物のそばに小さな石碑が立っていました。
石の上部には、円の中に半円形の様な模様が刻まれ、その下に2行の文字が並んでいるようです。
向かって右の行は、「■藤節」と読めますが、左の行は読み取れず、何が書かれているのかまったく分かりませんでした。
石碑の下部は、砂利に埋められた感じで、「二メートル程の岩が削立している」とする「見ないカムイ」の大岩の先端ではないようです。
石碑の不思議なマークや、読み取れない文字は、未だ謎です。
石の左下部分には皮がはがれるように石の風化が見られ、石碑の古さがうかがわれます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/58/d3eef0f56843f47b232a14d388deff95.jpg)
「見内神社」建物の南側を道路の向いから撮った写真です。
右手の海岸近くに小さな赤い付属建物があり、左手道路脇から「神殿」「拝殿」と建物が続いています。
参拝は、道路脇の左右いづれかの鳥居から赤い手摺のある参道を通り、右手の拝殿正面に回り込むようです。
案内板に書かれた「見ないカムイ」の大岩は、どこにあるのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/36/21f4726fd674c486522c1429e0cff915.jpg)
海を背にして見る「見内神社」拝殿建物の正面です。
防波堤が無かったらこの辺りまで荒波が押し寄せていたものと思われます。
最北の地の珍しい神社建物の形式と、不思議な大岩伝説に魅かれながら拝殿に進んで行きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/94/169b02f422fe80b4f54ad893afa96378.jpg)
「見内神社」拝殿の奥には一般的な神社の祭壇があり、参拝させて頂きました。
祭壇奥の神殿建物に通じる入口は、拝殿内や、外壁にも見当たりませんでした。
神殿建物の奥行きは、この拝殿の奥行きとほぼ同じようで、幅はだいぶ狭いようです。
■アイヌ伝説関係の本を調べた処、「見内神社」の案内板に無かった伝説がありました。*************************************************************************************
「アイヌ伝説集」より (1971年) 更科 源蔵著
昔、天塩アイヌと宗谷アイヌとの間に戦争が起こったとき、宗谷アイヌは主従関係にあった利尻と礼文に応援を求めた。そこで礼文香深の酋長オムシャイヌは、部下を集め宗谷へ応援に出陣させた。その中に一隊の長としてカルアンという勇猛なアイヌも遠征にのぼった。その時カルアンの妻は病気であって、俄[にわ]かな夫の出陣を悲しみ、海岸の岩にのぼって夫の乗った舟の行方を見まもっているうち、ついに岩になってしまったのであるという。
礼文島香深村のカフカイ地先に、現在見内神社が建っているが、その御神体の岩の上に人の形をしている部分がそれで、今は安産と流行病除け、鰊漁の神様になっていねが、昔は和人がここを通ってこの岩を見ると、何か不幸なことが起こるというので、囲いをめぐらしてかくし、往来するものは顔をそむけて通ったので、「見ないで通る」ということから、ミナイカムイというようになったのであるという。(奥野清介 輯「伝説と異談」)
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この本によると、「見ないカムイ」の岩は、勇士カルアンの妻が岩となったもので、「見内神社」の場所にあるとしています。
高さ2mの大岩は、今でも恐れられ、この祭壇奥の神殿の中に封印されているものと思われます。
道路脇の小さな神社に、このような伝説があろうとは思いもよりませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/3c/c226590942c3bdd2cd6cabe3c1e22321.jpg)
北海道の北端周辺の地図です。
前述の「アイヌ伝説集」に登場するアイヌ部族の場所を確認して下さい。
最北の地に住む「宗谷アイヌ」は間宮林蔵が樺太に出港する地として知られています。
「天塩アイヌ」は、宗谷から日本海沿いを南下した天塩川河口付近と思われ、天塩川は石狩川に次ぎ日本で4番目の長さで、水産資源にも恵まれた地域と思われます。
二つの部族の争いが、西に浮かぶ利尻島、礼文島のアイヌまでも巻き込んだことを考えると、対立はかなり激しかったものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/05/0aae4aed9a5a8e39978e46be68aa8c88.jpg)
神社の前から岩の多い北の海岸を見た風景です。
すぐ先は、香深井港の防波堤で、向こうの岬は「駒谷ノ崎」です。
石となった妻が夫カルアンを見送ったのは、この海の景色だったのでしょうか。
ところで、コンクリートの防波堤に何か立てかけられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/be/5821f457595a11853620649a06e7125d.jpg)
神社の北隣には、天日干された昆布が広がり、防波堤に木製の器具のようなものが立掛けられています。
おそらく一定の量の昆布を木枠に入れて束ねる器具のようですが、ずいぶん長いものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/60/d4c8d77a96add0dedacba259f1a78f1e.jpg)
北の海岸には天日干しの昆布が延々と続いていました。
ここで干す昆布は、向こうの港から陸揚げされるのでしょうか。
インターネット販売のサイトで、「礼文島産利尻昆布」の商品名も見られ、この昆布もお隣の島のブランド「利尻昆布」で販売されるものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/1f/c26018011b64ebeb5e307d56133cbec9.jpg)
北海道旅行2日目に見た稚内市抜海村にある奇岩「抜海岩[ばっかいいわ]」です。(北海道の北端周辺の地図に赤い字で記載)
前述の「アイヌ伝説集」にこの「抜海岩」の伝説が掲載され、しかも類似点があることから掲載しました。
道々106号を走っていた時、この異様な岩が目に入り、写真を撮りましたが、このような伝説があることは知りませんでした。
■「アイヌ伝説集」((1971年)更科 源蔵著)より「稚内の抜海岩」の一節です。
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稚内の抜海岩
最果ての町稚内から三里ほど離れた、利尻富士を目の前にした日本海岸に、抜海[ばっかい]というところがある。抜海は瀬棚の梅花都とおなじアイヌ語のパッカイで、子供を負うことを意味する語で、ここに子供を負うたようなパッカイシュマという岩がある。
昔、ここに非常に仲のよい若夫婦があったが、ふとしたことから夫婦喧嘩をし、夫は他の女と舟に乗って宗谷岬の方へ行こうとした。それを見ていた妻は、抜海岩に登って、天に向かって、海が荒れるよう嘆願した。
すると大暴風が起きて、二人の乗った船はたちまち波に呑まれて二人は死んでしまった。それ以来この岩に登ると宗谷海峡が荒れて犠牲者が出ると言われていた。(加藤彬 輯)
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災いをもたらす岩は、「見ないカムイ」の伝説と共通です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/17/69a9132459755da8b3ec606eb3daacd1.jpg)
「抜海岩」の北側と、その横にある赤い屋根の神社です。
「抜海岩」を検索で調べた処、「稚内サンホテル」さんのサイトに「抜海岩陰遺跡」の記事がありました。
■以下は、「稚内サンホテル」さんのサイトに紹介された伝説です。
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昔、天塩アイヌと宗谷アイヌの間に闘いがあり、劣勢となった天塩アイヌは、勇猛果敢な礼文アイヌに応援を求めたそうです。
その時、応援に来た礼文アイヌの男子ワカルパと天塩アイヌの少女モナシノウクとが恋に落ち、子供を授かりました。
その後、ワカルパは礼文が恋しくなり一人で礼文へ帰ってしまう。残された妻子は、ひたすら夫の帰りを待ちましたが、やがて悲しみのあまり大きな二つの重ね岩に化身したという伝説の舞台です。
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この伝説で、大岩の上に小岩が乗った「抜海岩」は、夫を待つ妻と、子が岩になったとされています。
又、天塩アイヌと宗谷アイヌとの戦いに礼文アイヌのワカルパは、天塩アイヌ側で戦ったとする点は「見ないカムイ」の伝説と逆ですが、非常に似ています。
女性が岩になった伝説は、沖縄の石垣島の北端、「平久保」にもありました。
このブログ<2007年05月24日 石垣島平久保の「アイナマ石伝説」>でも紹介していますが、花嫁が山の中で岩になった伝説です。
「アイナマ石伝説」では岩に災いは無いようですが、思いの通じない女性が岩になってしまった点では似ています。
岩の形と、印象的な事件が結び付き、このような伝説が各地にできたものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/50/303d9080eb901afab392c13bd3a326a3.jpg)
海岸沿いの道路を走っていると、道路脇に赤い屋根と、鳥居の「見内神社」が目に飛び込んで来ます。
最初、神社の正面にカーブミラーがあるように思い、驚きましたが、よく見ると道路側は神社建物の裏側で、海側が建物正面になっていました。
鳥居と、それに続く参道が神殿の両脇にある珍しい神社です。
■道路脇に「見内神社」の白い案内板があり、不思議な伝説がありました。
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見ないカムイ(見内神社)伝
カフカイ岬角の先端の岩の上に「見ないカムイ」と言われる小祠が祭られている。
この島にアイヌが多く住んでいた頃、アイヌ達はこの岩を非常に恐れて、路を通るにもこの場所を避けて見ない振りをして通行していたので和人が「見ないカムイ」と名付けたものであつた。
この恐れて通る岩に対してアイヌ達はニシンが多く獲れたとき、またはトドが沢山獲れたときなどは、トド松の枝を切ってこの場所に捧げたので、この枯枝で森のようになっていた。
明治十四・五年頃の出来事であったが、その年のニシン漁が不漁で香深の山本久衛門の支配人某が腹を立てその枯枝に火をかけて焼いてしまった。
ところが、この焼け跡に高さ二メートル程の岩が削立しているのが発見された。この岩が「見ないカムイ」の神であった。
事件後に村には死産が多くなつたがアイヌ達はいかにも当然であるかのように話した。
「安産の神の罰があたったのだ」と・・・。
アイヌが、この岩を尊敬し信仰の対象としたのは昔、天塩のカフカという毒婦が悪事のために村人に憎まれ、トド松の木で作った檻の中に入れられて海に流されたが、この檻が波に流れ流れて漂着した所がカフカイの岩の下で妊娠していた彼女はこの場所で安産したことから、この岩がお産の神と祭られるようになり安産を祈る妊婦はトド松の枝を捧げて安産を祈ることになったと伝えられるようになった。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/cb/92ff08c6e34b7906984df6df7a38ebb9.jpg)
礼文島全体の地図と、左手下は「見内神社」のある「香深井」集落付近の詳細地図です。
礼文島の北東部にある「高山植物園」から東海岸を南下、カフカイ[香深井]の「見内神社」まで走って来ました。
「見内神社」の案内板に書かれた「カフカイ岬角の先端の岩」の場所は、地図で見る限り現在の「見内神社」辺りと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/69/244c3b2a258ebdf93a522db3793505d5.jpg)
道路脇の神社建物のそばに小さな石碑が立っていました。
石の上部には、円の中に半円形の様な模様が刻まれ、その下に2行の文字が並んでいるようです。
向かって右の行は、「■藤節」と読めますが、左の行は読み取れず、何が書かれているのかまったく分かりませんでした。
石碑の下部は、砂利に埋められた感じで、「二メートル程の岩が削立している」とする「見ないカムイ」の大岩の先端ではないようです。
石碑の不思議なマークや、読み取れない文字は、未だ謎です。
石の左下部分には皮がはがれるように石の風化が見られ、石碑の古さがうかがわれます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/58/d3eef0f56843f47b232a14d388deff95.jpg)
「見内神社」建物の南側を道路の向いから撮った写真です。
右手の海岸近くに小さな赤い付属建物があり、左手道路脇から「神殿」「拝殿」と建物が続いています。
参拝は、道路脇の左右いづれかの鳥居から赤い手摺のある参道を通り、右手の拝殿正面に回り込むようです。
案内板に書かれた「見ないカムイ」の大岩は、どこにあるのでしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/36/21f4726fd674c486522c1429e0cff915.jpg)
海を背にして見る「見内神社」拝殿建物の正面です。
防波堤が無かったらこの辺りまで荒波が押し寄せていたものと思われます。
最北の地の珍しい神社建物の形式と、不思議な大岩伝説に魅かれながら拝殿に進んで行きました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/94/169b02f422fe80b4f54ad893afa96378.jpg)
「見内神社」拝殿の奥には一般的な神社の祭壇があり、参拝させて頂きました。
祭壇奥の神殿建物に通じる入口は、拝殿内や、外壁にも見当たりませんでした。
神殿建物の奥行きは、この拝殿の奥行きとほぼ同じようで、幅はだいぶ狭いようです。
■アイヌ伝説関係の本を調べた処、「見内神社」の案内板に無かった伝説がありました。*************************************************************************************
「アイヌ伝説集」より (1971年) 更科 源蔵著
昔、天塩アイヌと宗谷アイヌとの間に戦争が起こったとき、宗谷アイヌは主従関係にあった利尻と礼文に応援を求めた。そこで礼文香深の酋長オムシャイヌは、部下を集め宗谷へ応援に出陣させた。その中に一隊の長としてカルアンという勇猛なアイヌも遠征にのぼった。その時カルアンの妻は病気であって、俄[にわ]かな夫の出陣を悲しみ、海岸の岩にのぼって夫の乗った舟の行方を見まもっているうち、ついに岩になってしまったのであるという。
礼文島香深村のカフカイ地先に、現在見内神社が建っているが、その御神体の岩の上に人の形をしている部分がそれで、今は安産と流行病除け、鰊漁の神様になっていねが、昔は和人がここを通ってこの岩を見ると、何か不幸なことが起こるというので、囲いをめぐらしてかくし、往来するものは顔をそむけて通ったので、「見ないで通る」ということから、ミナイカムイというようになったのであるという。(奥野清介 輯「伝説と異談」)
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この本によると、「見ないカムイ」の岩は、勇士カルアンの妻が岩となったもので、「見内神社」の場所にあるとしています。
高さ2mの大岩は、今でも恐れられ、この祭壇奥の神殿の中に封印されているものと思われます。
道路脇の小さな神社に、このような伝説があろうとは思いもよりませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/3c/c226590942c3bdd2cd6cabe3c1e22321.jpg)
北海道の北端周辺の地図です。
前述の「アイヌ伝説集」に登場するアイヌ部族の場所を確認して下さい。
最北の地に住む「宗谷アイヌ」は間宮林蔵が樺太に出港する地として知られています。
「天塩アイヌ」は、宗谷から日本海沿いを南下した天塩川河口付近と思われ、天塩川は石狩川に次ぎ日本で4番目の長さで、水産資源にも恵まれた地域と思われます。
二つの部族の争いが、西に浮かぶ利尻島、礼文島のアイヌまでも巻き込んだことを考えると、対立はかなり激しかったものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/05/0aae4aed9a5a8e39978e46be68aa8c88.jpg)
神社の前から岩の多い北の海岸を見た風景です。
すぐ先は、香深井港の防波堤で、向こうの岬は「駒谷ノ崎」です。
石となった妻が夫カルアンを見送ったのは、この海の景色だったのでしょうか。
ところで、コンクリートの防波堤に何か立てかけられています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/be/5821f457595a11853620649a06e7125d.jpg)
神社の北隣には、天日干された昆布が広がり、防波堤に木製の器具のようなものが立掛けられています。
おそらく一定の量の昆布を木枠に入れて束ねる器具のようですが、ずいぶん長いものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/60/d4c8d77a96add0dedacba259f1a78f1e.jpg)
北の海岸には天日干しの昆布が延々と続いていました。
ここで干す昆布は、向こうの港から陸揚げされるのでしょうか。
インターネット販売のサイトで、「礼文島産利尻昆布」の商品名も見られ、この昆布もお隣の島のブランド「利尻昆布」で販売されるものと思われます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/1f/c26018011b64ebeb5e307d56133cbec9.jpg)
北海道旅行2日目に見た稚内市抜海村にある奇岩「抜海岩[ばっかいいわ]」です。(北海道の北端周辺の地図に赤い字で記載)
前述の「アイヌ伝説集」にこの「抜海岩」の伝説が掲載され、しかも類似点があることから掲載しました。
道々106号を走っていた時、この異様な岩が目に入り、写真を撮りましたが、このような伝説があることは知りませんでした。
■「アイヌ伝説集」((1971年)更科 源蔵著)より「稚内の抜海岩」の一節です。
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稚内の抜海岩
最果ての町稚内から三里ほど離れた、利尻富士を目の前にした日本海岸に、抜海[ばっかい]というところがある。抜海は瀬棚の梅花都とおなじアイヌ語のパッカイで、子供を負うことを意味する語で、ここに子供を負うたようなパッカイシュマという岩がある。
昔、ここに非常に仲のよい若夫婦があったが、ふとしたことから夫婦喧嘩をし、夫は他の女と舟に乗って宗谷岬の方へ行こうとした。それを見ていた妻は、抜海岩に登って、天に向かって、海が荒れるよう嘆願した。
すると大暴風が起きて、二人の乗った船はたちまち波に呑まれて二人は死んでしまった。それ以来この岩に登ると宗谷海峡が荒れて犠牲者が出ると言われていた。(加藤彬 輯)
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災いをもたらす岩は、「見ないカムイ」の伝説と共通です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/17/69a9132459755da8b3ec606eb3daacd1.jpg)
「抜海岩」の北側と、その横にある赤い屋根の神社です。
「抜海岩」を検索で調べた処、「稚内サンホテル」さんのサイトに「抜海岩陰遺跡」の記事がありました。
■以下は、「稚内サンホテル」さんのサイトに紹介された伝説です。
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昔、天塩アイヌと宗谷アイヌの間に闘いがあり、劣勢となった天塩アイヌは、勇猛果敢な礼文アイヌに応援を求めたそうです。
その時、応援に来た礼文アイヌの男子ワカルパと天塩アイヌの少女モナシノウクとが恋に落ち、子供を授かりました。
その後、ワカルパは礼文が恋しくなり一人で礼文へ帰ってしまう。残された妻子は、ひたすら夫の帰りを待ちましたが、やがて悲しみのあまり大きな二つの重ね岩に化身したという伝説の舞台です。
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この伝説で、大岩の上に小岩が乗った「抜海岩」は、夫を待つ妻と、子が岩になったとされています。
又、天塩アイヌと宗谷アイヌとの戦いに礼文アイヌのワカルパは、天塩アイヌ側で戦ったとする点は「見ないカムイ」の伝説と逆ですが、非常に似ています。
女性が岩になった伝説は、沖縄の石垣島の北端、「平久保」にもありました。
このブログ<2007年05月24日 石垣島平久保の「アイナマ石伝説」>でも紹介していますが、花嫁が山の中で岩になった伝説です。
「アイナマ石伝説」では岩に災いは無いようですが、思いの通じない女性が岩になってしまった点では似ています。
岩の形と、印象的な事件が結び付き、このような伝説が各地にできたものと思われます。
ご覧頂き、ありがとうございます。
アイヌの歴史に精通された方とお見受けしまし、頂いたコメントはありがたく公開させて頂きました。
わか勉強で書いていることも多い旅の記録で、認識違いのご指摘は、ありがたく拝聴させて頂きます。
私のブログでこの神社の写真をアップしたので、このエントリを紹介させていただきました。
どうぞよろしくお願いします。
こんにちは
記載部分は、確認しました。
書籍の引用ですので、私が特に申し上げることはありません。
それにしても素敵なサイトですね。
時々、訪問させて頂きます。
コメントありがとうございます。
アイヌの民話・伝説集を少し読みましたが、やはり戦いはあったようですね。
このブログの2011年10月01日にupした北海道旅行No.26 「英傑シャクシャイン像」と「シベチャリのチャシ跡」でもアイヌの戦いを書いています。
民族や、時代によって戦いの多い・少ないはあるかも知れませんが・・・。
生物である以上、食料の確保に始まり、様々なことで戦うのはしかたないことなのかも知れませんね。
今夏ついに、見内神社の前にボロ空き家を無料で
GETし、来夏は2、3ヶ月を礼文島で避暑します。
私も今年やっとブログを始めて【花わんこ よかよかブログ】と検索して下されば出ます。(^_^)❣️
見内神社の前を、何年も行ったり来たりしていたのに【変わった神社だなぁ…❓】と裏側ばかり
車内から眺めておりました…(;^_^A
お宅様のブログ内にあったアイヌ伝説集を早速
Amazonし、お勉強致します❣️
アイヌを敬愛してるワリには何も知らない
福岡市の花わんこより…(・Д・)ノ
コメントありがとうございます。
ご返事が遅くなり失礼しました。
6年前の北海道旅行をなつかしく思い出しました。
又、この記事が少し参考になったようで、幸いです。
福岡から最北の島、礼文島までのキャンピングカー旅行とは実にお元気ですね。
事故に気を付けて楽しい旅行をお続けになることをお祈りしています。
「花わんこ よかよかブログ」を訪問させて頂きます。