先日入線した「鉄道ホビートレイン」をきっかけにふと思ったことから。
酔っぱらいのたわごとみたいなものですがご勘弁を。
これまで何度となく運転会に参加しているのですが、一般客も多いイベントだけにそれらの嗜好を反映した編成がよく運転されます。
一番人気は新幹線ですが次いで多いのは地元の特急列車と並んでイベント列車や観光列車の類です。
OE88なんかはその最右翼ですがサロンエクスプレス東京、リゾート21、サロンカーみやびやばんえつ物語号なんかがこれに該当します。
(イベント車に駆り出されやすい12系客車なんかもこの部類でしょう)
運転会と言う物がおまつりの性格が強いものだけにこれらの車両が行き交う様はレイアウトを一層華やかに見せる意味で貢献しています。
これらの編成はあるいみ「ハレの列車」とでも言いましょうかイベントの主役、或いはアイドル的存在として中々有用です。
うちのレイアウトで最も運用頻度が高いミニSLレイアウトの棚幡線ですがレイアウトのコンセプト上風景は地味の一語ですし旅客運用と言ってもDCかECの単行編成が主体。
それでも寝る前のひと時なんかにクモニ12とか走らせると鎮静効果は高い(笑)ですし和まされます。
ですが通常運用に供している限り華やかさには欠けるのは間違いありません。
先日「鉄道ホビートレイン」が入線したのは正にそんな事を考えていたタイミングでした。
前述したようにこの車両の魅力は「理屈を抜けた春のおもしろさ」そのものであり、どこに持って行ってもたちどころにそこをお祭り状態にしてしまうオーラを持っています。
実際これがレイアウトのエンドレスを走り始めた途端、辺りはいきなりお祭り騒ぎ。
独特な華やかさに酔っ払ったのは確かです。
こういう理屈を抜けた編成がひとつくらいいても良いなと思う瞬間でした。
これまでの自宅での運転で「普通の車両の普通の編成」ばかりやっていてあまり意識しませんでしたが地味ながらも味のある(と感じる)列車を走らせているとこういう突き抜けた瞬間と言う物がいかに刺激的なものか。
(運転会では確かに面白い編成がレイアウト上を疾走しますがこれはレイアウト自体がイベントなので刺激があって当たり前みたいな感覚だったのもかもしれません)
ですがこの華やかさは「普段の地味さ」があって初めて引き立つ物でもあります。
普段着のそれこそ「空気の様にいつでも走っている編成」がいてこそこうした編成も引きたつのではないでしょうか。
どれほど刺激的なイベント車がいてもそれが毎日、毎回だったら飽きるを通り越して気が変になりそうな気もします。
同じ事はそれこそイベント用のもっと大仰な編成にも言える事ですが。
そんな事を考えていてふと思い出す事。
基本的に田舎暮らしとはいえ、研修会だったり買い物だったりで年に何度か東京を訪れますが、連休とかお祭り時とかよりも「何もない普通の平日」に出かける事が多いです。
ですから秋葉原やら新宿と言っても「ハレ」の時よりも「ケ」の時節の事が多いのですが、その目で見ても東京みたいな大都会は年がら年中お祭りでもあるかのような感じに見えます。
なるほど、年中この喧騒に身をおいていたら静かな自然に触れたくなる気にもなろうというものでしょう。
逆に現住地なんかではそうした賑わいに触れる事はあまりありません(県庁所在地の駅前ですら日曜日の昼間でも人通りは本当にまばらです)
そんな中にいるとたまには賑やかな世界に息をつきに行きたくなるものかもしれません。
そういえば寺田寅彦の随筆にこういうのがありました。
(前略)「今日いわゆるギンブラをする人々の心はさまざまであろうが、そういう人々の中の多くの人の心持ちには、やはり三十年前の自分のそれに似たものがあるかもしれない。
みんな心の中に何かしらある名状し難い空虚を感じている。銀座の舗道を歩いたらその空虚が満たされそうな気がして出かける。
ちょっとした買い物でもしたり、一杯の熱いコーヒーでも飲めば、一時だけでもそれが満たされたような気がする。
しかしそんなことでなかなか満たされるはずの空虚ではないので、帰るが早いか、またすぐに光の町が恋しくなるであろう。
いったいに心のさびしい暗い人間は、人を恐れながら人を恋しがり、光を恐れながら光を慕う虫に似ている。
自分の知った範囲内でも、人からは仙人せんにんのように思われる学者で思いがけない銀座の漫歩を楽しむ人が少なくないらしい。
考えてみるとこのほうがあたりまえのような気がする。
日常人事の交渉にくたびれ果てた人は、暇があったら、むしろ一刻でも人寰(じんかん)を離れて、アルプスの尾根でも縦走するか、それとも山の湯に浸って少時の閑寂を味わいたくなるのが自然であろう。
心がにぎやかでいっぱいに充実している人には、せせこましくごみごみとした人いきれの銀座を歩くほどばからしくも不愉快なことはなく、広大な山川の風景を前に腹いっぱいの深呼吸をして自由に手足を伸ばしたくなるのがあたりまえである。
F屋喫茶店にいた文学青年給仕のM君はよく、銀座なんか歩く人の気が知れないと言っていたが、考えてみれば誠にもっとも至極なことである」(後略)
(寺田寅彦「銀座アルプス」より引用)
どちらにも良い所があり逆の面もあります。
問題はその環境の中でいつまでもどちらかだけではいられないという所にあるのかもしれません。
お祭り騒ぎはいつかは飽きる、かと言って地味なだけでは気が塞ぐ。
詰まる所、その釣り合いが取れているのが一番いい気もします。