武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

J・エドガー・フーバー

2012年01月29日 | Weblog
 クリント・イーストウッド監督作品 『J・エドガー』

 米国連邦捜査局(FBI)初代長官、J・エドガー・フーバーの物語。たった一人の男が48年間、アメリカ中の秘密を掌握し、大統領さえ及ばない強大な権力を手にしていた。48年間に入れ替わった8人の大統領の誰もが彼を恐れた。ルーズベルトは彼に逆らえず、J・F・ケネディは彼の監視下に置かれ、ニクソンにとって彼はこの世でいちばん邪魔な存在となった。

 J・エドガー・フーバーは20代にしてFBI前身組織の長となり、以後、死ぬまで長官であり続けた男。今日では当たり前とされる科学捜査の基礎を確立し、犯罪者の指紋管理システムを作ったのも彼、FBIを子供の憧れの的にしたのも彼だった。しかし、彼にはつねに黒い疑惑や、スキャンダラスな噂がつきまとっていた。

 物語は冒頭、1919年の司法長官宅の爆破事件を映し出す。自転車で現場へ駆けつけた若き司法省職員のフーバー(レオナルド・ディカプリオ)は、現場保存の不十分さなどを目の当たりにし、その後のFBI長官としての鑑識捜査やアカ狩りの強化へとつながってゆく。

 フーバーは言う。「人類は過去から多くを学ばない。だが、歴史に注意を払わなければ、繰り返すことになる」。だからこそFBIを強化、大統領ら要人への盗聴なども重ねて弱みを握り、膨大な秘密ファイルを作った。だが、フーバーは結局、敵意より愛情の方が大事だと気づく。

 映画は右腕のクライド・トルソン(アーミー・ハマー)との愛を描き出す。恐怖支配の代償としての孤独を埋めるかのように、生涯独身のフーバーが公私にわたり行動をともにした様子から人間としての弱さを見せ、フーバーの私生活や性格が描写される。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五味田聖二師範(2)

2012年01月28日 | Weblog
 合気ニュース [会見] 五味田聖二 田辺道場長に聞く

昭和28年に合気道を始め、田辺道場長として後進の指導にあたる五味田聖二師範。
昭和20年代から度々田辺を訪れた開祖から指導を受けた五味田師範が合気道開祖 植芝盛平を語る。

取材/編集部  2002年8月3日 田辺道場にて


―― 開祖の初めての印象といいますと。

五味田  ものすごくほがらかな人なんですよ。見た感じは、当時70代だったでしょ。怖いという感じではなかったですね。当時、鈴木新五郎さんという相撲をしている人がいて年は大先生より若くてごつい大きな人だったんですが開祖に掛かっていったと思ったらタンタンと投げ飛ばされたと聞いています。開祖は、晩年田辺に来ると、よくその人たちの所に行ってましたね。

――当時はどんな稽古でしたか。

五味田  力を目一杯入れた稽古をしましたね。流す稽古はほとんどしませんでした。廣田先生は戦前のお弟子さんですからきつかったですね。当時は道場等も少なく神社の境内等でもやりましたよ。剣杖をやる時は野外でいいんですけど受けの時の砂利の上は、それは痛かったですよ。夜は真っ暗になるまで稽古をしましたから、つらかったですよ。

それから、廣田先生は内弟子ではいっていましたから、大先生の動きで今何がしたいかまで敏感に悟っておられたと思います。大先生が立ち上がると、何処へ行くか先によんで、障子を開けたりとかそのくらいのことをやっておられました。

―― 廣田先生が剣杖を教えてられたのですか。

五味田  そうです。廣田先生は内弟子時代、大先生の剣や杖の受けをよくされていましたからね。大先生が田辺へ来られたときは、廣田先生が受けをされていました。大先生が来られると、みんなの前で技をされるでしょ、それで、今度はみんなでする。

質問したいのですが、聞きに行くと、「わからんか?そうか!」と言われて、別の技をされるんですよ。ほんまに聞きにくうて(笑)。逆に聞きに行かないと、座り技の一教だったら一教ばっかりやらされるんです(笑)。四方投げだったら四方投げばっかりとか(笑)。もう、そんなことばかりだったのです。

それで、これを覚えておきなさいと言われて、大先生は田辺を去られる。3、4ヶ月くらい経って大先生が来られたとき、その技をやっていると「爺は、そんなことを教えていない」と言われるんですよ(笑)。

――ぜんぜん技が違うんですか。

五味田  違うんです。四方投げでも全部同じなんですけど今日やった技と、明日やるのは技が変わってなかったら進歩がないと、よく大先生に言われたんですよ。だから先輩たちは大先生の言葉を理解するのに苦しんでいました。


<五味田聖二(ごみた せいじ)師範 プロフィール>

昭和15年11月、和歌山県田辺市に生まれる。
昭和28年、合気道を始める。
昭和44年、5段になってから高山寺にあった田辺道場で指導を開始。
昭和56年4月、合気道田辺道場開設。鉄骨造り二階建、百畳敷きの大道場がある。(写真)
田辺道場は稲成本部道場以外に、高山寺道場、目良道場、南部道場、白浜道場、富田道場、日高武道館道場がある。
合気会八段。田辺道場道場長、和歌山県合気道連盟副理事、植芝盛平翁顕彰会理事を兼任。

                                          (どう出版案内より転載させていただきました)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書 道 拳

2012年01月26日 | Weblog
『書道拳』 Kouen作

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合気道技法(87)

2012年01月24日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

八十七、 後業  手頸

受  両手で相手の両手頸を後から掴む

仕  左手前下へ誘導し右足後へ引く
    右手相手の右後へまわし体を傾け右後方に倒す

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五味田聖二師範

2012年01月21日 | Weblog
 合気ニュース [会見] 五味田聖二 田辺道場長に聞く

昭和28年に合気道を始め、田辺道場長として後進の指導にあたる五味田聖二師範。
昭和20年代から度々田辺を訪れた開祖から指導を受けた五味田師範が合気道開祖 植芝盛平を語る。

取材/編集部  2002年8月3日 田辺道場にて


――初めて合気道をされたのが、昭和28年、12歳の頃ですね。

五味田  そうなんです。田辺生まれの、大先生の甥御さんの井上要一郎先生の甥御さんの廣田義隆先生(井上師の姉の子供)に習いました。当時はその廣田先生が田辺道場で教えておられました。

廣田先生は、東京の皇武館(本部道場の前身)時代に大先生の内弟子として入門された方で田辺に帰られてからは、大先生が和歌山と田辺を行き来するのに、ついて回られていました。当時、廣田先生は30代だったと思います。岩間の赤沢善三郎先生と一緒の頃に修行されていたと思います。

――五味田先生が合気道を始められたきっかけは?

五味田  昭和28年頃、親戚の警察官が、「変わった技をやる人がいるから、見に行こう」と夜に警察の道場に連れていってくれたのです。警察の道場には、一人の小柄な白髪の老人が体格のがっちりした柔道家を相手に組手をしていました。見ていると、何人かの柔道家が老人に向かっていきますが、誰一人として技が掛からないばかりかポンポンと投げられるばかりです。

そこで、今度はその中の一人が、一度投げさせて欲しいと頼んだら、その老人は「よしよし爺をほって(投げて)くれるか」と言うと、その人の背中に乗ったんです。しかし、いくら背負い投げを掛けようとしても、老人の体が浮かないんですよ。しまいには、その人は息が上がってしまったんです。

それから、正座をした老人の体を、二人がかりで押し続けましたがピクリとも動かなかった。ところが老人が「いいか」と言って立ち上がると、二人は吹っ飛んでしまったんです。その老人が大先生だったんです。あまりの凄さに驚嘆してしまったことを昨日のように思い出します。

その時が小学校6年の頃だったと思いますが、その後何日かして「いつも見に来てるなら習ったらどうだ」と先輩が言ってくれたので、驚きと印象が強烈だったことと、当時私は体が弱かったので健康のためもあり親と親戚の警察の人の紹介で大先生に入門しました。

それから、年に何度か大先生が田辺に来られたのですが、警察の道場が使えない時は酒造会社の倉庫を借りたり、農家の広間を借りたりしていました。

高山寺は大先生の菩提寺ですが、旧本堂を本堂として使っていた時に大先生がよく稽古なさって、「三日も畳がもたん」と、檀家から苦情がよく出たんですよ(笑)。戦前からその旧本堂で稽古していたようです。

昭和33年に、その高山寺にバラック建てで24畳の道場ができたんです。亡くなった高山寺の和尚の曽我部玄雄さんが柔道6段だったのですが、自分も柔道をしたいということで造った道場で、そこを借りて月水金に稽古をやっていました。それが田辺道場の始まりです。その曽我部和尚に田辺道場の支部長をやっていただきました。それから、昭和43年頃まで廣田先生が教えていました。


<五味田聖二(ごみた せいじ)師範 プロフィール>

昭和15年11月、和歌山県田辺市に生まれる。
昭和28年、合気道を始める。
昭和44年、5段になってから高山寺にあった田辺道場で指導を開始。
昭和56年4月、合気道田辺道場開設。鉄骨造り二階建、百畳敷きの大道場がある。(写真)
田辺道場は稲成本部道場以外に、高山寺道場、目良道場、南部道場、白浜道場、富田道場、日高武道館道場がある。
合気会八段。田辺道場道場長、和歌山県合気道連盟副理事、植芝盛平翁顕彰会理事を兼任。

                                          (どう出版案内より転載させていただきました)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合気道技法(86)

2012年01月19日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

八十六、 後業  手頸

受  両手で相手の両手頸を後から掴む

仕  右足前から左にまわし同時に右手を上げて左にまわる
    右足相手の後までまわり両手を伸ばして相手を反り返らせ
    仰向に倒す

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古文書にみる京都の城

2012年01月14日 | Weblog
 戦国時代の公家、山科言継の日記『言継卿記』は大永7年(1527)から天正4年(1576)までの約50年間にわたって記されたものである。また、織田信長の家臣、太田牛一が織田信長の事跡をまとめた『信長公記』は信長の幼少期から天正10年(1582)にわたって記されたものである。両者とも戦国期の京都とその近郊にあった城郭が詳しく記され、近年の発掘調査や現地調査により遺跡が明らかになってきている。
 両文献に現れる城郭のうち、現在の京都御所の西側にあった「旧二条城跡」と、東山三十六峯の大文字山にあった「如意ヶ嶽城跡」をみてみよう。


★旧二条城跡

 『言継卿記』  足利義輝期に「武家御所」、足利義昭期には「御城」と記される。
           建物については、慶壽院殿御殿として御対面所、御小座敷、御風呂、御蔵、雑舎などがある。

 『信長公記』  足利義昭期に「公方様御構え」と記される。
           堀・石垣については、二条の古き御構え堀をひろげ、方に石垣両面に高く築き上げとある。
 
 ルイス・フロイスの『日本史』には、僅か70日で完成したこと。城の面積は三街を占め、石材の不足を補うために石仏や石塔をも利用したこと。建設作業には1万5千人~2万5千人が従事したこと。吊り上げ橋のある濠をもつこと。この濠には3箇所の入口が設けられていたことなどが記されている。

 旧二条城は、『信長公記』には13代将軍足利義輝の二条御所の濠を拡げさせて造っていると書かれ、『言継卿記』でも先勘解由小路室町真如堂光源院御古城と記述されており、それを証明するように断面の形がV字をした戦国時代の濠跡が見つかっている。

 京都市文化財保護課によると、現在までの調査により旧二条城は内部と外部の二重構造になっており、発見された4箇所の濠はそれぞれ北外濠、北内濠、南外濠、南内濠に相当することがわかっているという。

 旧二条城があった京都市上京区烏丸下立売のあたりは、永禄12年(1569)に織田信長が室町幕府15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、約390m四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や、三層の天主を備えた堅固な城を築いた。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣をが高く築き、内装は金銀を散りばめ、庭は泉水や築山が構えられた豪華な城郭であったと推測される。
 その後、織田信長は旧二条城から足利義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された。
 尚、現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の将軍の居館として慶長7年(1602)に築かれた。 (石碑「旧二條城跡」説明版)


★如意ヶ嶽城跡

 如意ヶ嶽城は、「如意之嵩之城」「如意寺之嵩」と記されている。

 南北朝動乱のはじめの建武3年(1336)、兵火によって山上の如意寺は焼失し、再建されることはなかった。
 応仁の乱ののち下剋上の世となり将軍は無力化、幕政は形骸化していった。管領細川政元の暗殺をきっかけに細川氏の内訌が起こると、将軍も京に安閑と座していられなくなった。細川澄元と細川高国の抗争、細川高国と細川晴元の抗争、足利義晴と細川晴元の抗争、さらに足利義輝と三好長慶の抗争と戦い絶え間なく繰り返され、京と近江に通じる要衝を押さえる如意ヶ嶽城は軍馬が往来し破壊と修築が続いた。
 如意ヶ嶽城跡は如意越えの道を取り込み、三角点のある頂上に本丸をおき、遺構は山上の尾根一帯に散在している。東方の緩尾根には三条の堀切が穿たれ、土塁を伴った木戸跡、尾根北方の斜面一帯に設けられたひな壇状の帯曲輪群跡、それを取り巻くように築かれた長い横堀跡などが残っている。西方尾根にも曲輪が連なり、要所に土橋・堀切が穿たれた壮大な山城である。
 尾根を西山麓に下っていくと大文字の送り火の火床に降り立ち、眼下に京都市街から西方の愛宕山までが一望できる。火床から続く急坂は銀閣寺へと下りていく。
 また、尾根まで引返せば将軍足利義輝が三好長慶と対峙した中尾城址へと行くことができる。中尾城は銀閣寺後方の山上にあり、鉄砲を意識して築かれた最初の城であったという。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Basho Haiku 奥の細道

2012年01月12日 | Weblog
                           古池や蛙飛込む水の音
 
                   The ancient pond A frog leaps in The sound of the water





          Oku no Hosomichi

          Basho Matsuo (1644~1694)

          Translated by Donald Lawrence Keene



1689.3.27     行春や鳥啼魚の目ハ泪

          Spring departing - the birds cry out and the eyes of the fish are full of tears



1689.4.1      あらたふと青葉若葉の日の光

          How awe-inspiring! On the green leaves, the young leaves - The light of the sun



1689.4.20     田一枚植えて立去る柳かな

          They sowed a whole field, And only then did I leave Saigyo's willow tree



1689.5.13     夏艸や兵共が夢の跡

          The summer grasses - Of brave soldiers' dreams - The aftermath



1689.5.17     蚤虱馬の尿する枕もと

          Plagued by fleas and lice, I hear the horses stalling Right by my pillow



1689.5.27     閑さや岩にしみ入蝉の声

          How still it is here Stinging into the stones, The locust's trill



1689.7.4      荒海や佐渡によこたふ天河

          Turbulent the sea - across to Sado stretches the Milky Way



1689.7.13     一家に遊女も寐たり萩と月

          Under the same roof Prostitutes were sleeping - The moon and clover

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合気道技法(85)

2012年01月10日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

八十五、 後業  手頸

受  両手で相手の両手頸を後から掴む

仕  右足後に引き右手頸を越して前へまわし左足相手の後へ引く
    左手で相手の右肘掴み左足更に前へ進み押し倒す

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平安道場 将軍塚に移築

2012年01月07日 | Weblog
 青蓮院は東山山頂の青蓮院飛び地境内の将軍塚に北野の平安道場を移築すると発表した。3年前に京都府所有の平安道場が老朽化して廃棄処分となっていたものを、青蓮院が引き取って移築再建し価値ある木造大建築を保存するという。

 平安道場は大正天皇の御大典記念に大正2年、府民の浄財を集めて大日本武徳会京都支部道場として建てられた貴重な木造大建築であり、今では入手不可能な巨大なヒノキ材を使い、最高水準の木造建築技術により建造されている。

 戦後、大日本武徳会の組織はマッカーサーが解体し、建物は国から京都府へ移管され、京都府警の柔剣道の道場として使われていたが老朽化して修復の維持管理が困難となり、京都府が廃棄処分を決定していた。

 平成22年12月、青蓮院は京都府から無償譲渡を受け、東山山頂へ新たに建築する京都市の許可を得て23年1月28日に譲渡された。京都府の承認、そして京都市の外部の審議会に計って建築の承認を得られるまで3年かかったが、すでに解体を終えた。

 新聞記事によると、完成予定は平成26年の夏。完成後は、法要に加え武道や音楽の催事などにも使いたいと話している。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする