武産通信

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五味田聖二師範

2012年01月21日 | Weblog
 合気ニュース [会見] 五味田聖二 田辺道場長に聞く

昭和28年に合気道を始め、田辺道場長として後進の指導にあたる五味田聖二師範。
昭和20年代から度々田辺を訪れた開祖から指導を受けた五味田師範が合気道開祖 植芝盛平を語る。

取材/編集部  2002年8月3日 田辺道場にて


――初めて合気道をされたのが、昭和28年、12歳の頃ですね。

五味田  そうなんです。田辺生まれの、大先生の甥御さんの井上要一郎先生の甥御さんの廣田義隆先生(井上師の姉の子供)に習いました。当時はその廣田先生が田辺道場で教えておられました。

廣田先生は、東京の皇武館(本部道場の前身)時代に大先生の内弟子として入門された方で田辺に帰られてからは、大先生が和歌山と田辺を行き来するのに、ついて回られていました。当時、廣田先生は30代だったと思います。岩間の赤沢善三郎先生と一緒の頃に修行されていたと思います。

――五味田先生が合気道を始められたきっかけは?

五味田  昭和28年頃、親戚の警察官が、「変わった技をやる人がいるから、見に行こう」と夜に警察の道場に連れていってくれたのです。警察の道場には、一人の小柄な白髪の老人が体格のがっちりした柔道家を相手に組手をしていました。見ていると、何人かの柔道家が老人に向かっていきますが、誰一人として技が掛からないばかりかポンポンと投げられるばかりです。

そこで、今度はその中の一人が、一度投げさせて欲しいと頼んだら、その老人は「よしよし爺をほって(投げて)くれるか」と言うと、その人の背中に乗ったんです。しかし、いくら背負い投げを掛けようとしても、老人の体が浮かないんですよ。しまいには、その人は息が上がってしまったんです。

それから、正座をした老人の体を、二人がかりで押し続けましたがピクリとも動かなかった。ところが老人が「いいか」と言って立ち上がると、二人は吹っ飛んでしまったんです。その老人が大先生だったんです。あまりの凄さに驚嘆してしまったことを昨日のように思い出します。

その時が小学校6年の頃だったと思いますが、その後何日かして「いつも見に来てるなら習ったらどうだ」と先輩が言ってくれたので、驚きと印象が強烈だったことと、当時私は体が弱かったので健康のためもあり親と親戚の警察の人の紹介で大先生に入門しました。

それから、年に何度か大先生が田辺に来られたのですが、警察の道場が使えない時は酒造会社の倉庫を借りたり、農家の広間を借りたりしていました。

高山寺は大先生の菩提寺ですが、旧本堂を本堂として使っていた時に大先生がよく稽古なさって、「三日も畳がもたん」と、檀家から苦情がよく出たんですよ(笑)。戦前からその旧本堂で稽古していたようです。

昭和33年に、その高山寺にバラック建てで24畳の道場ができたんです。亡くなった高山寺の和尚の曽我部玄雄さんが柔道6段だったのですが、自分も柔道をしたいということで造った道場で、そこを借りて月水金に稽古をやっていました。それが田辺道場の始まりです。その曽我部和尚に田辺道場の支部長をやっていただきました。それから、昭和43年頃まで廣田先生が教えていました。


<五味田聖二(ごみた せいじ)師範 プロフィール>

昭和15年11月、和歌山県田辺市に生まれる。
昭和28年、合気道を始める。
昭和44年、5段になってから高山寺にあった田辺道場で指導を開始。
昭和56年4月、合気道田辺道場開設。鉄骨造り二階建、百畳敷きの大道場がある。(写真)
田辺道場は稲成本部道場以外に、高山寺道場、目良道場、南部道場、白浜道場、富田道場、日高武道館道場がある。
合気会八段。田辺道場道場長、和歌山県合気道連盟副理事、植芝盛平翁顕彰会理事を兼任。

                                          (どう出版案内より転載させていただきました)
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