武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

合気道技法(127)

2013年10月29日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書
 
座取

第ニ十九条  対坐ノ敵ノ打面右手甲ヲ両手ニテ折リ倒ス事

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合気道技法(126)

2013年10月15日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書
 
座取

第ニ十八条  両手首ヲ摑ム事

第ニ十八条  右手首ヲ取リ転身関節ヲ小脇ニ押込ム事


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続々 それからの武田惣角

2013年10月08日 | Weblog
★ブログ拝見『植芝盛平と白滝』

 本日は、北海道の風景や歴史、趣味で育てている高山植物や山野草を、写真と言葉で届けられていますdaydreamさんの「植芝盛平と白滝」です。いわゆるおカネの問題です。それでは最後までじっくりとお読みください。

さて、大正4年は植芝盛平(あえて翁とは書きません)の人生の中でも大きなターニングポイントの年と言えるでしょう。大東流柔術の武田惣角との出会いがありました。惣角は安政6年10月10日(1859年11月4日)の生まれですから、56歳で31歳の盛平と出会ったということになります。

この武田惣角という人物も様々な逸話が残されていますが、これまた真実なのかつくられたイメージなのか謎が多い人物です。

1915年(大正4年)31歳の盛平は、2月に遠軽で武田惣角に出会いその場で入門を許され弟子入りします。冬期間とはいえ久田旅館で1ヶ月の稽古。この思い入れ方は尋常ではありません。よほど惹かれたものがあったのでしょう。その後も何度か惣角を白滝に招いて講習会も行います。

しかし、この講習会が盛平にとっては金食い虫といいますか、惣角にとっては生きる糧となる関係が続きます。当時、惣角の講習は1週間から10日ほどで、講習料が10円から15円だったそうです。現代の貨幣価値だと既出の「大正5年の指数として698.4(平成18年の指数)÷0.756(大正5年の指数)=923.8倍」では約1万円から1.5万円になりますが、北海道の内陸部としてはもっと高額なイメージだったことでしょう。

しかも、講習料の他に盛平は、師匠である惣角の世話のために、個人的に月300円程度を負担していたそうです。ということは現代では月に約30万円にもなります。かなり裕福な商家ならまだしも、この金銭的負担が後に白滝を去る大きな要因になったようです。

やがて惣角は盛平の家に転がり込み、技の一手何円としつこく金の要求をしたともいわれています。
大火事もどれほどの被害があったのかは謎ですが、その後盛平は上湧別村村会議員に当選するものの、一年足らずで辞めてしまいます。当時を述懐した自声のテープがあるそうです。

「公務の仕事がいっさいできなくなってしまった、自分は。邪魔ばっかりするんです。先々先々自分の行くとこ邪魔ばっかりするもんやから、それでしまいに自分のうちのようになって入りこんできて、私の権利書から私の印鑑を全部とられてしもうた。」事の真偽は判りませんが、本人が語っているのは事実のようです。

盛平が議員を辞職した翌月、惣角は大正8年5月2日、家族共々下湧別から白滝二股市街に転居してきます。その後は白滝を本拠地とし、道内・本州各地に出向き指導にあたったそうです。
盛平はその年の年末に「チチキトク」の電報を受け帰郷したとされています。その際に盛平所有の二股市街の土地と平屋の建物を惣角に譲ったそうです。

ここら辺の経緯も謎だらけです。
もし「権利書から印鑑を全部とられて…」が土地建物の事なら譲ったのではなく、横領あるいは詐欺…立派な犯罪になってしまいます。
盛平は惣角と出会ってから約5年で白滝を去り、生涯二度と白滝の地を踏むことはなかったのです

ではこれで盛平と惣角の関係が途切れたかというと、そうではないところにまた謎が…。白滝を去った後は、故郷から京都の綾部へ一家で移住し大本教に入信。出口王仁三郎聖師の元で専用の道場を構え、柳生流の武器技と大東流の体術を独自に稽古していたそうです。

1922年(大正11年)39歳。当時の大本には陸海軍の軍人も多く出入りし盛平の門人となっていたが、春に惣角が妻子と共に訪れます。盛平は門下の軍人たちと共に指導を受け、9月に「合気柔術秘伝奥儀之事」及び「大東流合気柔術教授代理」の資格を授けられます。これも盛平が呼び寄せたのか、お金がかかったのかどうかは謎です。

元々大東流の「合気」ですが、王仁三郎の提案もあり盛平オリジナルの武術として歩みだし、「植芝流合気柔術」「植芝流合気武道」と呼ばれるようになります。

1948年(昭和23年)65歳。「財団法人合気会」は茨城県岩間の合気苑を本部とし文部省の認可を受ける。正式に「合気道」とし盛平は初代合気道「道主」となる。
1950年(昭和25年)67歳。全国各地の道場を盛平が訪れ指導を行うようになる。
1954年(昭和29年)71歳。合気会本部を岩間から東京道場に移し、本格的な合気道の普及に乗り出す。

戦後は順風満帆とも言える「合気道」の歴史。その発展には盛平の道主としての尽力はもちろん欠かせなかったでしょう。しかし、そんな時にでも盛平にとって白滝はどんな場所だったのかを想ってしまいます。

惣角は、1943年(昭和18年)に青森県で客死。享年84。

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合気道技法(125)

2013年10月01日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書
 
座取

第ニ十七条  両手首ヲ摑ム事

第ニ十七条  右手ヲ切リ放シ右手甲ヲ摑ミ打面両手ニテ折リ返シ倒ス事

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