「そ、それは同じだ。どこも違わない」
「悟り得ると謂わば日頃なかりつるかと覚ゆ。悟り来れりと謂わば日頃いずこありけるぞと覚ゆ。悟りとなれりと謂わば悟りに始めありきと覚ゆ。片腹痛し。不立文字教外別伝と嘯けども、それは凡ては言葉の上のことである。心身脱落とは片腹痛し。天童如浄が宣いしは、心塵脱落なり。所詮道元禅は法華経禅。臨済の如きは、或は殴り、或は鴉の声を聞きて豁然大悟致すなど笑止千万ーと思うたこともありましたがな、何、世の中に幾筋道があろうとも、人の歩く道は似たり寄ったり。険しいか緩いか、遠いか近いか、精精そのくらいの差であろうて」
「そうですかー」
「○○さん。人の心や意識と云うのは連続したものではないです。連続しているように錯覚しているだけで、朝と夕、さっきと今ではまるで違っていたりする。脳と云うのはその辻褄を合わせようとします。頓悟とか。大悟とか云うのは、だからほんの一瞬のこと。それ以降ずっと人格が変わるものではない。だからこそ悟後の修行が大切なのです。ならばあなたは何故ー」
○○は呵呵と笑った。
「百年経って、拙僧にはその一瞬がないのである。だから、瞬時にしてそれの訪れたる者が妬ましかったのである。悔やしかったのである。何と修行の足りないことよ。徳の足りない僧であることよ。だからその、もし己が悟ることあらば、悟っておる状態のまま死んでしまえば一番幸せと、そう思ってもいたのである。浅ましい。浅ましい。浅ましいことよ。正に○○様の仰せの通り、拙僧は檻の中の鼠である」 (京極夏彦「鉄鼠の檻」講談社文庫)
源氏物語の蛍の巻のなかで光源氏は語る。「日本紀などは、ただかたそばぞかし(わずかのことしか書かれていない)。これら(物語)にこそ道々しくくはしきことはあらめ。」
紫式部のいうように、事実を書いた歴史書よりも虚構の物語にこそ真実が書かれているという。これは歴史と文学においての論であるが、禅理と小説において、この「鉄鼠の檻」もまた然りである。だが事実は坐禅して悟るより外に握まえようはないのである。
写真:十牛図「亡牛存人」相国寺蔵。 男は家に帰ってくつろいでいる。男は牛のことはすっかり忘れている。
「悟り得ると謂わば日頃なかりつるかと覚ゆ。悟り来れりと謂わば日頃いずこありけるぞと覚ゆ。悟りとなれりと謂わば悟りに始めありきと覚ゆ。片腹痛し。不立文字教外別伝と嘯けども、それは凡ては言葉の上のことである。心身脱落とは片腹痛し。天童如浄が宣いしは、心塵脱落なり。所詮道元禅は法華経禅。臨済の如きは、或は殴り、或は鴉の声を聞きて豁然大悟致すなど笑止千万ーと思うたこともありましたがな、何、世の中に幾筋道があろうとも、人の歩く道は似たり寄ったり。険しいか緩いか、遠いか近いか、精精そのくらいの差であろうて」
「そうですかー」
「○○さん。人の心や意識と云うのは連続したものではないです。連続しているように錯覚しているだけで、朝と夕、さっきと今ではまるで違っていたりする。脳と云うのはその辻褄を合わせようとします。頓悟とか。大悟とか云うのは、だからほんの一瞬のこと。それ以降ずっと人格が変わるものではない。だからこそ悟後の修行が大切なのです。ならばあなたは何故ー」
○○は呵呵と笑った。
「百年経って、拙僧にはその一瞬がないのである。だから、瞬時にしてそれの訪れたる者が妬ましかったのである。悔やしかったのである。何と修行の足りないことよ。徳の足りない僧であることよ。だからその、もし己が悟ることあらば、悟っておる状態のまま死んでしまえば一番幸せと、そう思ってもいたのである。浅ましい。浅ましい。浅ましいことよ。正に○○様の仰せの通り、拙僧は檻の中の鼠である」 (京極夏彦「鉄鼠の檻」講談社文庫)
源氏物語の蛍の巻のなかで光源氏は語る。「日本紀などは、ただかたそばぞかし(わずかのことしか書かれていない)。これら(物語)にこそ道々しくくはしきことはあらめ。」
紫式部のいうように、事実を書いた歴史書よりも虚構の物語にこそ真実が書かれているという。これは歴史と文学においての論であるが、禅理と小説において、この「鉄鼠の檻」もまた然りである。だが事実は坐禅して悟るより外に握まえようはないのである。
写真:十牛図「亡牛存人」相国寺蔵。 男は家に帰ってくつろいでいる。男は牛のことはすっかり忘れている。