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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

禅  悟り(2)

2008年10月07日 | Weblog
「そ、それは同じだ。どこも違わない」

「悟り得ると謂わば日頃なかりつるかと覚ゆ。悟り来れりと謂わば日頃いずこありけるぞと覚ゆ。悟りとなれりと謂わば悟りに始めありきと覚ゆ。片腹痛し。不立文字教外別伝と嘯けども、それは凡ては言葉の上のことである。心身脱落とは片腹痛し。天童如浄が宣いしは、心塵脱落なり。所詮道元禅は法華経禅。臨済の如きは、或は殴り、或は鴉の声を聞きて豁然大悟致すなど笑止千万ーと思うたこともありましたがな、何、世の中に幾筋道があろうとも、人の歩く道は似たり寄ったり。険しいか緩いか、遠いか近いか、精精そのくらいの差であろうて」

「そうですかー」

「○○さん。人の心や意識と云うのは連続したものではないです。連続しているように錯覚しているだけで、朝と夕、さっきと今ではまるで違っていたりする。脳と云うのはその辻褄を合わせようとします。頓悟とか。大悟とか云うのは、だからほんの一瞬のこと。それ以降ずっと人格が変わるものではない。だからこそ悟後の修行が大切なのです。ならばあなたは何故ー」

○○は呵呵と笑った。

「百年経って、拙僧にはその一瞬がないのである。だから、瞬時にしてそれの訪れたる者が妬ましかったのである。悔やしかったのである。何と修行の足りないことよ。徳の足りない僧であることよ。だからその、もし己が悟ることあらば、悟っておる状態のまま死んでしまえば一番幸せと、そう思ってもいたのである。浅ましい。浅ましい。浅ましいことよ。正に○○様の仰せの通り、拙僧は檻の中の鼠である」  (京極夏彦「鉄鼠の檻」講談社文庫)

 源氏物語の蛍の巻のなかで光源氏は語る。「日本紀などは、ただかたそばぞかし(わずかのことしか書かれていない)。これら(物語)にこそ道々しくくはしきことはあらめ。」
 紫式部のいうように、事実を書いた歴史書よりも虚構の物語にこそ真実が書かれているという。これは歴史と文学においての論であるが、禅理と小説において、この「鉄鼠の檻」もまた然りである。だが事実は坐禅して悟るより外に握まえようはないのである。


写真:十牛図「亡牛存人」相国寺蔵。 男は家に帰ってくつろいでいる。男は牛のことはすっかり忘れている。

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禅  悟り

2008年10月05日 | Weblog
「ー僧侶は、所詮、漸修で悟入は難しいと云ったと」

「ほう。それが如何に?」

「如何にも何もありません。漸修で悟るー漸悟禅と云うなら、それは北宗禅です。北宗禅は奈良時代に唐僧によって伝えられはしましたが全く根づかなかった。日本の現在の禅は凡て南宗禅の流れを汲むもの。つまり全部頓悟禅なんです。と、云うことは、犯人は臨済僧でも曹洞僧でもあり得ないと云うことになる。況や僧でもないものが口にする言葉ではない。そうすると残る可能性は幾つもない。北宗が衰微する前に漸悟禅を本朝に伝えることができたのは、時期的には最澄空海がぎりぎりでしょう。しかし、最澄は違う。ならば空海が持ち帰った禅こそが北宗禅だったのではないかー明慧寺が空海に関係した禅寺であるのなら、そこを護る者は北宗の漸悟禅を伝えているのではないかーならばそれは北宗の祖、六祖○○と同じ読みの名を持つあなたー」

「見事。見事な領解である!」

「多くの宗教はその、禅で云うところの悟りの境地を最終目的として捉えている場合が多いようです。だから死ねば仏になる。何故死ねば仏になるかと云えば、最終目的はその辺に設定しておかないと、生きているうちに達成して仏になっちゃもう精進しなくなるからです。密教は即身成仏、死んだ後ならず生身でそのまま仏になると云う。しかし即身成仏は、結果的に修行の末の自殺と、行為としては同義になっているのが現状です。しかし禅は目的と云う概念をとっ払うことでその辺を難なくクリアしているー○○さん。ひとつだけ聞かせてください。あなたが学ばれた禅、否、修行されている禅は、悟りを最終目標としているようなー例えば最終解脱や即身成仏的な発想があるーそう云う教義に則ったー禅なのですか?」

「とんでもない」

「修証一等。悟りと修行は同じものです。であれば、悟りには始まりなく終わりなく、悟りは常にここにありと心得てはおる。如何に嗣法が違えどもそれは同じである」

「そ、それは同じだ。どこも違わない」  つづく  (京極夏彦「鉄鼠の檻」講談社文庫)


写真:十牛図「騎牛帰家」相国寺蔵。 男は牛を飼いならして、背中に乗って笛を吹き、家に帰る。

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碧巌録(4)  達磨は殺された

2008年10月04日 | Weblog
 『碧巌録』 第四十七則  雲門不収

[頌] 一二三四五六。碧眼胡僧数不足。小林謾道付神光。巻衣又説帰天竺。天竺茫々無処尋。夜来却対乳峰宿。

 和訳 : 頌(じゅ)に云く。一二三四五六。碧眼(へきがん)の胡僧も数へ足らず。小林謾(まん)に道(い)ふ神光に付すと、衣を巻いて又説く天竺に帰ると。天竺茫々として尋ぬるに処なし。夜来却って乳峰に対して宿す。

 碧眼の胡僧とは達磨大師のことです。達磨大師はいまでいえば白人ですね。アーリア人です。インドに入ってきたアーリア人です。だからインド人というと黒人のように思うけどやはり白人です。だから目が碧い。東洋人とは違う。我々の目は茶目か黒目です。そこで達磨大師のことを碧眼という。
 達磨大師はそれからお弟子に法を伝えてからとうとう毒を呑まされてお隠れになる。これは、この当時中国に光統律師、菩提流支三蔵、どちらも仏教学者ですがこの二人が達磨大師を妬んで、達磨大師の名声が余りに高くなって自分達の影が薄くなってしまうもんだからこいつはたまらないと。あの達磨という奴はインドから来て馬鹿に偉い評判になって自分達の偉さがさっぱり分らなくなってしまった。いまいましい奴だ。あの達磨さえいなけれゃ我々が一番偉いんだがと。何とか達磨大師をない者にしようじゃないかと二人が毒殺を図った。
 達磨大師のようなお方になるとね、毒を盛ってきたりするとすぐ分るそうだね。どうして分るのか知らんけれども一寸口にやっただけで毒だということが感じられるという。それで食べなかった。大事な体だから。法を伝えんならんから。それでも性懲りもなく又二度三度と機を窺っては分らないようにして毒をすすめた。五度までは召しあがらなかった。
 六度目にはもう弟子も出来たしこんなに俺を邪魔にするんだから一つ向うさんの注文通り毒を食べて死んであげようと。そしたら向うさんも気が済むだろう。どうしても死なないでいくと自分の弟子にまで又たたるかも知れない。そういう深いお考えであったと見える。毒と承知のうえで召しあがったという。だからお隠れになった。 (安谷白雲老師「碧巌録提唱」)

 明日、10月5日は達磨忌です。
 

写真:宮本武蔵筆「正面達磨図」

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侘び茶と懐石

2008年10月01日 | Weblog
 今日庵文庫長・茶道資料館副館長で京都学園大学教授の筒井紘一「侘び茶の食礼ー懐石」の講演を聞いた。
 茶湯の懐石ー利休懐石を中心に。一汁三菜を徹底した利休の主張する懐石とは「家ハもらぬほど、食事ハ飢ぬほどにてたる事也」(『南方録』)というものであり、それは禅院の温石にもとづいている。
 参禅のたびごとに食したであろう薬石としての精進料理が、利休の茶の精神と結びついて、それまでの茶事懐石を一変させ、侘びを強調する新しい懐石を生み出すに至ったのである。
 利休が最初に持ち出した折敷の手前には飯椀と汁椀が載り、向う側に麩の入った椀と、独活の入った椀の二椀が載って、都合四つの椀が膳の上に載せられていることがわかる。これが利休時代の膳の出し方の基本である。
 こうして始まった利休の茶人としての出発は、その後の徹底した侘び茶の趣向をうかがわせるに充分の仕立であった。
 利休が二十三歳で松屋久政を招いた会から、六十九歳で博多の豪商神谷宗湛を招いた会の中で、料理が書かれているのは十六会数えられ、二汁の会は五会みられるが、四菜まで出した会は一度だけであり、あとは三菜で通している。
 利休の師武野紹鷗が没する天文年間から弘治年間までの会膳折敷は、茶匠が好みの膳椀を作製するという意識は全くなく、禅宗寺院をはじめ、浄土宗や法華宗や南都の宗派、天台や真言などの寺院が使用したであろう根来や朱塗の膳椀をそのまま転用していたものと考えられる。
 それに対し、利休が黒塗の膳と椀を考案した時の茶人達の驚きは、長次郎の黒と同様のものであったといえるのではなかろうか。利休の侘びの茶法は、点前や茶道具にばかりあらわれるものではなく、こうした会膳の隅々にまで及んでいることを認識しておかなければならない。 (「虎屋文化講演会」 於、金剛能楽堂)

 利休の孤高な茶風を慕う者、また民衆に広く茶の湯を広めようと考える者によって今日まで茶道が受け継がれてきた。いま一度、利休の精神に戻って茶懐石の献立など見直す時が来たのではないかと思う。


写真:十牛図「牧牛」相国寺蔵。 男はついに牛を捕まえて、連れて歩く。

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