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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

軍師 黒田官兵衛(5)

2014年05月25日 | Weblog
 黒田家伝来 国宝『日光一文字』

 黒田官兵衛(如水)が、豊臣秀吉の命で小田原城に籠城中の北条氏を降伏させるために単身小田原城に乗り込み城主北条氏直、父氏政を説得する。官兵衛は世の流れを滔々と説き見事開城させた。北条氏は秘蔵の名刀「日光一文字」を官兵衛に贈りその労をねぎらったという。

姿  長さ67・8 反り2・4 元巾3・2 先巾2・3 
時代  鎌倉時代
造込  鎬造り、庵棟、身巾広く重ねややうすめにして、猪首切先
鍛  板目、木目まじり、よくつまる、映り立つ
刃文  大丁字乱れ、重花丁字交じり、蛙子丁字
帽子  乱込、先小丸
中心  生ぶ、雉子股形、先は浅い栗尻、鑢目は筋違、目釘穴三
銘  無銘

【由来】
 『黒田家御重宝故実』に、「日光一文字御刀 弐尺弐寸四歩 白貝、東艦と一同に北条氏直より来りシ也 、北条家伝来之名物也 其時入来し葡萄蒔絵之箱、今に被用也」とあり、別本『御当家御重宝故実』には、「但し御袋も于今添黒繻子ニ大き成舞鶴一ツ金ニ而縫在銘も縫なり」とある。
 黒田家伝来『名物三作』に、「松平筑前守 日光一文字 無銘長サ弐尺弐寸四分 無代 日光権現ニ納リテ有シヲ小田原北条早雲長氏申落シテ所持ス 氏綱氏康迄伝ル 小田原陣黒田如水老曖和タンニナリ依之為礼此刀並東艦之正本白貝ヲ遣ス 氏政より五代メハ氏直也 是ヲ小田原北条五代ト申也 関八州ヲ領ス」とある。
 黒田家伝来の古文書に、「北条氏照備崩 抽軍功之働 神妙之至ニ候  依之一文字之太刀送之候 猶追而可加恩録之(祿の誤記)者也 三月十一日 (秀吉朱印) 黒田勘解由とのへ」とある。

 豊臣秀吉に天下を取らせた男、黒田官兵衛の辞世の句

          おもひおく 言の葉なくて ついに行く 道はまよはじ なるにまかせて

写真:黒田家伝来『日光一文字』/福岡市博物館蔵

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将棋と俳句

2014年05月22日 | Weblog
 将棋と俳句 

                          幾万の木の芽しづかに駒動く

                          投了や駒ことごとく花の塵

                          花びらの一枚の棋譜残しけり     櫂

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軍師 黒田官兵衛(4)

2014年05月20日 | Weblog
 名槍『日本号』

               酒はのめのめ のむならば
               日の本いちの この槍を
               のみとるほどに のむならば
               これぞまことの 黒田武士

 黒田官兵衛(如水)、黒田長政の二代に仕えた母里太兵衛友信が福島正則から呑み取った名槍。日本号は、もともと正親町(おおぎまち)天皇が所有し、室町幕府15代将軍の足利義昭に下賜され、ついで織田信長、豊臣秀吉へと渡り、秀吉から福島正則が拝領したものである。

 母里太兵衛友信の名槍呑み取りの逸話。正月、母里太兵衛は主君黒田長政の名代として、京都伏見の福島正則邸へ年賀の挨拶に行った。主君である長政は福島正則の酒癖が悪いと聞き、母里太兵衛に「福島正則から酒を勧められても絶対飲むな」と命じていたが、年賀の挨拶を交わすと、正則は予想通り母里太兵衛に酒を勧めてきた。

 母里太兵衛は「君命にて今日は飲めないのです」と断るが、酔った福島正則はしつこく酒を飲めと絡んでくる。「この大杯の酒を飲み干せば、望みの品を取らせてやる」と言うので、黒田武士の誇りを守るため、仕方なく母里太兵衛は大杯になみなみとつがれた酒を一気に飲み干し、福島正則所有の名槍日本号を手にして帰った。翌日、酔いから醒めた福島正則は槍が無いのに気が付き慌てて取り戻しに行ったが、母里太兵衛は「武士に二言はあるまい」と返さなかったという。

 その後、母里太兵衛と同じ黒田二十四騎の一人である後藤又兵衛などの手に渡ったのちに黒田家に献上され、名槍日本号は黒田家に代々受け継がれる。

写真:黒田家伝来『日本号』/福岡市博物館蔵

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剣の法

2014年05月17日 | Weblog
 『剣の法(のり)』 前田英樹著

 著者は新陰流を学ぶ人。新陰流の流祖は上泉伊勢守。

 太刀筋は、中心線を相手の移動軸と同じ線上に一致させ、自分の人中路に合わせて真直ぐ刀を斬り下ろす。切り筋を切り筋で塞ぐ、移動軸を切り崩すことにより、偶然ではなく必然の勝ちを生じさせる法である。

 足親指を軽く反らせ足裏全体で軽く歩く。人は前に出る時、後ろ足で地面を後ろに押し出す。前に出るために、後ろ方向に力を入れる。蹴る、これが行動する時の自然な反発の原理である。だが、剣を振るう兵法の理想とする剣心一如の境地に達すると、身体の動きから反発が消えるという。

 剣の振りにおいて、剣が前に振り出されれば、身体はそれと反対方向、後方に引かれるのが普通である。だが、この反発から抜け出す意思を持ち、腕の振りの方向に身体も移動させる。剣の重みを全身に感じて、それに引っ張られるように身体を動かす。そうやって鍛錬していくと、腕と胴体、身体と剣の反発は消え、人は剣身一如への第一歩を踏み出すことができる。

 剣を究めることが剣身一如を完成させることだとすれば、その鍛錬には長い時間が必要となる。年齢とともに段位の階梯を昇っていくのは、むしろ自然なことであろう。また、剣を以って対峙する相手への反発から抜け出した時、単に相手を斬るのではなく、相手を活かす、という概念が生まれてくる。これが著者の求める活人剣といわれる剣の法であろうか。

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葵祭り

2014年05月10日 | Weblog
 葵祭り

 京都三大祭のひとつ。下鴨神社と上賀茂神社のお祭で、6世紀半ばに起こった飢饉をきっかけに欽明天皇によって始められた。源氏物語や枕草子にも登場し、優雅で古趣に富んだ祭として知られている。祭の名は、内裏神殿の御簾をはじめ、御所車から牛馬にいたるまで、すべてを葵の葉で飾ったことに由来する。京都御所を、勅使をはじめ検非違使、内蔵使、山城使、牛車、風流傘、斎王代など、平安貴族そのままの姿で列をつくり出発、総勢500余名、長さは1キロ、馬36頭、牛4頭、牛車2基、輿1台の風雅な王朝行列が、遠く東山や北山の峰々を眺望しながら下鴨神社へ、さらに上賀茂神社へと、その道のりは約8キロに及ぶ。

日程:5月15日(木)10時30分~ (雨天順延)
行程:京都御所(10時30分)→下鴨神社(11時40分頃)→上賀茂神社(15時30分頃)

写真:斎王代御禊の儀

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円通寺借景

2014年05月05日 | Weblog
                                    円通寺借景

 地面から僅かにあたまを出した庭石と、水平に刈りとられた生垣、木立の向こうに霊峰比叡山を望む。

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甦る 平安道場

2014年05月01日 | Weblog
 甦る 平安道場

 青蓮院門跡は、京都市街を一望できる青蓮院の飛び地境内の将軍塚に青龍殿を建設中。

 青龍殿は京都府警の武道場として使われていた北野の平安道場(大正時代の木造建築)を移築したもの。

 10月4日に落慶式を開き、10月7日~12月23日に国宝・不動明王二童子像「青不動」の御開帳が行なわれる。

 不動明王ニ童子像は「青不動」と通称される平安時代後期の仏画。三井寺の「黄不動」、高野山明王院の「赤不動」とともに三不動と言われている。

 平安道場は、明治28年(1895年)に設立された大日本武徳会の京都支部道場。戦前は現在の都道府県立の武道館に相当する機能を果たしていた。現存する古い道場建築が少なくなっているため文化財としての価値が高いものがある。

写真:旧平安道場

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