武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

さくら餅と武道専門学校小男鹿俳句会

2008年03月23日 | Weblog
 今朝の「天声人語」である。あんを薄皮で巻く関東流と、つぶつぶの道明寺粉でくるむ関西風。どちらの桜餅にも欠かせない塩漬けの桜葉は、ほとんどが伊豆の大島桜だという。国内産と聞いてホッとするご時世である。葉の移り香、生地の舌ざわり、あんの甘み。それぞれ、こちらに味わうという心構えがなければ、五感をすり抜けそうな淡さだ。それでいて、開花宣言にも負けない鮮烈な季節感がみなぎる。(朝日新聞 2008年3月23日)

     花の日に先んじてこそさくら餅   丸山海道

     風薫る左文右武の学舎跡     鈴鹿野風呂

 丸山海道先生(京鹿子主宰)は鈴鹿野風呂先生の御子息である。
 かつて武徳殿(写真)の正門とされていた門のかたわらに、ひっそりと立っている句碑がある。自然石の句碑には「野風呂」と刻まれている。武道専門学校最後の第十代校長を務めた鈴鹿登である。
 武道月刊誌「剣道日本」によると、この句碑は鈴鹿登の喜寿を祝って昭和38年にこの場所に建てられた。鈴鹿は京都大学文学部を卒業したあと、鹿児島県内でいっとき教鞭をとり、大正9年4月から武専(武道専門学校)の教壇に立ち、文科主任教授として長くあった。鈴鹿は和歌・俳諧・俳文について講義したが、みずからもまた句作を良くし、ホトトギス派の俳人として有名だった。
 武専という無骨なイメージの学校には一見似つかわしくなく、つねに和服に懐手というスタイルで教壇に立ったが、いつしかこれが武専の風景にしっくりとなじんで独特の雰囲気をかもしだした。鈴鹿は武専の中に「小男鹿俳句会」をこしらえて、月一回、放課後に句会を開いた。小男鹿は「さおしか」と読む。武専の猛者どもがなぜ俳句づくりに魅せられたのか、この句会には参加するものが多かった。鈴鹿登という人物にひきつけられるなにかがあったのはたしかである。
 鈴鹿登は俳人野風呂として生涯に三十万余句を残したという。鈴鹿が武専につくった句会「小男鹿俳句会」は、武専がなくなったいまも卒業生たちによって続けられている。世話役は京都在住の木戸高保(第26回生、昭和15年卒)で、木戸も野風呂に最も強く影響を受けた武専生徒の一人である。
 武道専門学校なきあとの小男鹿俳句会は鈴鹿野風呂先生から丸山海道先生へと受け継がれ、裏寺町の光明寺で平成に至るまで句会が開かれた。そして、かつての校舎のあとに武道センター本館があり、武徳殿の北側に「大日本武徳会武道専門学校碑」が建つ。 
 嵐山を訪れると渡月橋のそばのお茶屋さんで桜餅を買い求める。いわゆる関西風の桜餅で、葉の風味は絶妙である。機会があれば大江戸の花見と洒落こんで、関東流の桜餅を味わいたいものである。

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