この「道」とは、もともと人間が踏み行った跡であり、それが一切を貫通する普遍的な倫理にまで昇華されている。道を得るためには行(ぎょう)による絶えざる自己錬磨がなされなくてはならない。道とは、行によって体得する実践知といってもよく、しかも、身体の行によって人格形成を図るものであった。
行とは体の行によって意識、心を陶冶する営みなのである。従って、身体の正しい形すなわち「型」に入っての修行が要請される。道は規矩として履み守るべき道統であるから規範性を有するのであり、型に入り、型に習熟することによって型の真精神が自己の心に乗り移ってくる。型に投入し、恣意的な自己は否定されなくてはならない。私意を去って対象そりものになり切る型の修行によって陶冶を図るのである。世阿弥においても、稽古すなわち古を稽えることとは「たう道の先祖」の踏み行った道をたずね、遵守することであった。(『申楽談儀』)
因みに、ふつう世阿弥というが、正しくは世阿弥陀仏、略号は世阿である。
「学ぶ」ということはもともと「まねぶ」こと、模倣することであったのである。秩序のなかでしか人間性は磨けない。
「格に入りて格を出ざる時は狭く、格に入らざる時は邪路に走る。格に入り、格を出でて、初めて自在得べし」(『祖翁口訣』)
なる芭蕉の言葉はこれをいみじくも物語っている。「格」という「型」の基礎があってこそ、破格は高次の格となり、新たな格の創造を生む。ピカソの自由奔放ないわゆるキュービズムの画法の前提に写実への真摯な修練があったことは周知のところである。ここのところを、茶道江戸千家の川上不白は端的に
「守ハマモル、破ハヤブル、離ハはなると申候。弟子ニ教ルハ此守と申所計也。弟子守ヲ習尽し能成候ヘバ自然と自身よりヤブル」(『不白筆記』)
といい、「守、破、離」なる稽古の基本原理を示している。
もとより自由は放縦ではない。ルールなき自由はないのである。型に入ることによってこそ、その型の規定をも超えた自在な境地が生ずるのであって、そこに、自覚的に自由な自律的生活が実現されることになる。そして、価値観が多様化した今日の自由社会にあっても、色々な状況に振り回されることなく、借り物でない自分自身の価値観をもって、主体的に生活することができるわけである。
善き生き方を陶冶理想とする教育の真意もまた「守、破、離」になくてはならない。
資料:竹内明講義録「道と人間形成」
写真:大森曹玄「剣と禅」春秋社
行とは体の行によって意識、心を陶冶する営みなのである。従って、身体の正しい形すなわち「型」に入っての修行が要請される。道は規矩として履み守るべき道統であるから規範性を有するのであり、型に入り、型に習熟することによって型の真精神が自己の心に乗り移ってくる。型に投入し、恣意的な自己は否定されなくてはならない。私意を去って対象そりものになり切る型の修行によって陶冶を図るのである。世阿弥においても、稽古すなわち古を稽えることとは「たう道の先祖」の踏み行った道をたずね、遵守することであった。(『申楽談儀』)
因みに、ふつう世阿弥というが、正しくは世阿弥陀仏、略号は世阿である。
「学ぶ」ということはもともと「まねぶ」こと、模倣することであったのである。秩序のなかでしか人間性は磨けない。
「格に入りて格を出ざる時は狭く、格に入らざる時は邪路に走る。格に入り、格を出でて、初めて自在得べし」(『祖翁口訣』)
なる芭蕉の言葉はこれをいみじくも物語っている。「格」という「型」の基礎があってこそ、破格は高次の格となり、新たな格の創造を生む。ピカソの自由奔放ないわゆるキュービズムの画法の前提に写実への真摯な修練があったことは周知のところである。ここのところを、茶道江戸千家の川上不白は端的に
「守ハマモル、破ハヤブル、離ハはなると申候。弟子ニ教ルハ此守と申所計也。弟子守ヲ習尽し能成候ヘバ自然と自身よりヤブル」(『不白筆記』)
といい、「守、破、離」なる稽古の基本原理を示している。
もとより自由は放縦ではない。ルールなき自由はないのである。型に入ることによってこそ、その型の規定をも超えた自在な境地が生ずるのであって、そこに、自覚的に自由な自律的生活が実現されることになる。そして、価値観が多様化した今日の自由社会にあっても、色々な状況に振り回されることなく、借り物でない自分自身の価値観をもって、主体的に生活することができるわけである。
善き生き方を陶冶理想とする教育の真意もまた「守、破、離」になくてはならない。
資料:竹内明講義録「道と人間形成」
写真:大森曹玄「剣と禅」春秋社