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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

「道」と人間形成(2)

2008年12月25日 | Weblog
 この「道」とは、もともと人間が踏み行った跡であり、それが一切を貫通する普遍的な倫理にまで昇華されている。道を得るためには行(ぎょう)による絶えざる自己錬磨がなされなくてはならない。道とは、行によって体得する実践知といってもよく、しかも、身体の行によって人格形成を図るものであった。
 行とは体の行によって意識、心を陶冶する営みなのである。従って、身体の正しい形すなわち「型」に入っての修行が要請される。道は規矩として履み守るべき道統であるから規範性を有するのであり、型に入り、型に習熟することによって型の真精神が自己の心に乗り移ってくる。型に投入し、恣意的な自己は否定されなくてはならない。私意を去って対象そりものになり切る型の修行によって陶冶を図るのである。世阿弥においても、稽古すなわち古を稽えることとは「たう道の先祖」の踏み行った道をたずね、遵守することであった。(『申楽談儀』)
 因みに、ふつう世阿弥というが、正しくは世阿弥陀仏、略号は世阿である。

 「学ぶ」ということはもともと「まねぶ」こと、模倣することであったのである。秩序のなかでしか人間性は磨けない。

 「格に入りて格を出ざる時は狭く、格に入らざる時は邪路に走る。格に入り、格を出でて、初めて自在得べし」(『祖翁口訣』)

なる芭蕉の言葉はこれをいみじくも物語っている。「格」という「型」の基礎があってこそ、破格は高次の格となり、新たな格の創造を生む。ピカソの自由奔放ないわゆるキュービズムの画法の前提に写実への真摯な修練があったことは周知のところである。ここのところを、茶道江戸千家の川上不白は端的に

 「守ハマモル、破ハヤブル、離ハはなると申候。弟子ニ教ルハ此守と申所計也。弟子守ヲ習尽し能成候ヘバ自然と自身よりヤブル」(『不白筆記』)

といい、「守、破、離」なる稽古の基本原理を示している。
 もとより自由は放縦ではない。ルールなき自由はないのである。型に入ることによってこそ、その型の規定をも超えた自在な境地が生ずるのであって、そこに、自覚的に自由な自律的生活が実現されることになる。そして、価値観が多様化した今日の自由社会にあっても、色々な状況に振り回されることなく、借り物でない自分自身の価値観をもって、主体的に生活することができるわけである。
 善き生き方を陶冶理想とする教育の真意もまた「守、破、離」になくてはならない。

資料:竹内明講義録「道と人間形成」
写真:大森曹玄「剣と禅」春秋社

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「道」と人間形成(1)

2008年12月18日 | Weblog
 佛教大学教育学部教授の竹内明「道と人間形成」の講義をうけた。
 日本古来の武道や芸道など「道」の文化と称されるものは、単に技術的習練を志すのみならず、人格を磨き「人間」に成ること、すなわち人間形成を目指すものであった。この「道」と人間形成の問題を考える。

 わが国は「道義の国」また「礼節の国」と称されていた。神道や仏教、儒教の融合の上に醸成された武士道はそれを実践する武士階級がなくなってしまった後も日本人のあるべき生き方、道徳として残っていた。そこには「型」があり、その型によって人間関係や食事の作法、躾(しつけ)など生活の中に自ずからにして陶冶がなされていたのである。
 しかし、戦後、価値観の転換に伴って自信を喪失した大人たちに強い影響を与えたのが米国直輸入の自由と平等の思想であって、伝統文化の否定が日本人のコア・パーソナリティを崩壊させ、その倫理観を麻痺させてきた。「日本国憲法」はGHQ(連合国最高司令官総司令部)の絶対的権力のもと、わが国の文化や価値観を否定し、民族の誇りを失わせ更地化して、その国民のアイデンティティを忘却させようとした米国の国家戦略たる「日本弱体化計画」により制定されたのである。

 日本文明は、一つの国で一つの文明をなしている稀有の文明である。仏教、儒教など外来の様々の思想を次々と受容しつも、逆にそれらを固有の枠組みのなかに取り入れて改変し重層化させつつ土着化させてきた。それは唯一絶対の原理を持たぬ神道的汎神論ともいうべく民族のDNAとして仏教など多様な文化を寛容に取り入れつつ日本化する包容力ともなってきて、後世、武士道や芸道などの「道」の文化が醸成されたのである。
 ここに、わが国の価値観や規範、「型」は如上の神道的汎神論を根底とする日本文化の基軸に即して今一度構築し直さなくてはならないのである。

 俊才兄弟としてその名の高い貝塚茂樹、湯川秀樹ら5兄弟は、幼稚園の頃より夕食後、祖父から分厚い漢文の書物の素読を徹底してやらされ、何千字という漢文を暗誦し、一流の漢学者が読むような漢籍を幼児期にすでに覚えてしまい、それぞれの学問の基盤を築いたという。
 従前の日本人は、こうした訓練によって、学才、技能のみならず、その心性をも陶冶してきた。感性と直感を磨いたのである。それは、人格に繋がる真知は身体性を媒介としてはじめて獲得しうるものなのであった。
 因みに、芸道における型の修行は単なる技術の修錬のみではなくして心の修行を意味し、心を澄まし深めることなのであり、この伝統的精神に一貫する人間形成理念を「道の教育思想」と名付け、その歴史的展開相において、人間学的に究明することを課題とする。

 ここにいう「道」とは、人生の軌跡として人間がその方向において修錬されることを求める、人間の生き方として倫理的に昇華し、内面化された規範を意味する。道の思想は、その時代を形成する理念に高められており、近世以降をも含めて、「日本文化のエートス」とまで称されるに至っている。エートスとは慣習的な規範をいう。芭蕉がその『笈の小文』の冒頭において

 「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道するものは一なり」

といったが、その貫道するものとはこの道の思想であった。

資料:竹内明講義録「道と人間形成」
写真:鎌田茂雄・清水健二「禅と合気道」人文書院

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