武産通信

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島原『角屋』と与謝蕪村

2016年11月15日 | Weblog
 島原『角屋』

 与謝蕪村生誕300年記念「蕪村と島原俳壇展」

             春の海終日のたりのたりかな   蕪村
 
 蕪村の故郷丹後の海を詠んだ句。時間がゆったりと流れる。終日は「ひねもす」と読む。

 角屋は、島原開設当初から連綿と建物、家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年に国の重要文化財に指定される。
 揚屋とは、江戸時代の書物の中で、客を「饗すを業とする也」と定義され、現在の料理屋、料亭にあたるものと考えられる。饗宴のための施設ということから、大座敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、庫裏と同規模の台所を備えていることを特徴としている。
 広重や国貞などの浮世絵にも描かれた臥龍松の庭。座敷ごとに壁の色や天井を変えるなど贅をつくした趣向の、網代の間、緞子の間、扇の間。青貝の間は、壁や建具などいたるところに青貝をちりばめた異国趣味の座敷。新選組隊士が暴れてつけた柱の刀の傷跡。客の刀を預かり置いておく刀箪笥など、往時の繁盛ぶりを偲ばせる。因みに、ここでの飲食代は後日、お一人様二両ほどの請求書が届いたという。

 与謝蕪村(1716~1783)は、明和7年に二世夜半亭を襲名する。蕪村と島原俳壇とのかかわりは、江戸以来の親友炭太祇による。蕪村は花街島原で習字を教えながら、俳諧の興隆をめざし、島原俳壇ともいうべき一大勢力を主宰する不夜庵の宗匠をつとめる。その太祇に揚屋の角屋を始めとする亭主連中がこぞって師事し、さらには、蕪村と太祇との交流から双方の句会に出座するなどの機会を得た。
 一方、画業の面では安永7年ごろから画号「謝寅(しゃいん)」を用いるようになる。これ以後、晩年の画作を「謝寅書」と称し、蕪村最高の画境をしめすものとなる。また絵画と俳諧の融合した俳画や、芭蕉の肖像画、「奥の細道」の全文に蕪村流の挿絵を添えた絵巻物なども手掛ける。
 天明元年、一門あげて取り組んだ金福寺の芭蕉庵を完成させる。天明3年には、名古屋の俳人暁台の芭蕉百回忌事業に協賛、同年12月25日未明、眠るがごとく往生をとげたという。享年67歳。

 辞世の句      しら梅に明る夜ばかりとなりにけり   蕪村

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