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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

国宝 茶室『待庵』

2012年02月28日 | Weblog
 千利休 二畳隅炉の茶室『待庵』

 JR山崎駅の前に妙喜庵はある。妙喜庵は室町時代の創建で臨済宗東福寺派に属し、国宝の茶室『待庵』がある。

 「天下分け目の天王山」といわれる山崎の合戦のとき、羽柴秀吉は姫路より軍をすすめて山崎の地に陣をしき、千利休を招いて二畳隅炉の茶室をつくらせた。

 山崎の地は桂川、宇治川、木津川が合流し、平野と盆地に挟まれた独特の地形と湿潤な気候により「離宮の水」と呼ばれる清らかな水が今もこんこんとと湧き、利休もこの水で秀吉に茶をたてたという。

 露地には秀吉の衣の袖が触れたということから「袖摺松」と名付けられた一株の老松があり、茶室の前には秀吉の命名といわれる「芝山」と称する手水鉢がある。

 待庵は千利休独特の構想で建てられ、掛け込み天井と棹縁天井の組み合わせ、床の間の隅や天井を塗り回した室床の構造、連子窓、下地窓の配置、すさを出した壁の塗り方、やや広い躙口(にじりぐち)、隅炉などの工夫に侘びの趣きがあり、二畳敷のわりには広く感じた。

 尚、拝観は一ヶ月前の予約が必要で、時間の指定はできない。 

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合気道技法(101)

2012年02月21日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

座取
 
第一条  面ヲ打チ敵ノ手首ヲ両手ニテ絞込ム事


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合気道技法(88)

2012年02月14日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

八十八、 後業  手頸

受  両手で相手の両手頸を下から持上げる

仕  右手相手の左後へ下り左手腰につけ
    右手のばして相手の胸元へ切り下す

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五味田聖二師範(4)

2012年02月11日 | Weblog
 合気ニュース [会見] 五味田聖二 田辺道場長に聞く

昭和28年に合気道を始め、田辺道場長として後進の指導にあたる五味田聖二師範。
昭和20年代から度々田辺を訪れた開祖から指導を受けた五味田師範が合気道開祖 植芝盛平を語る。

取材/編集部  2002年8月3日 田辺道場にて


――廣田先生はいつまで教えていらっしゃったのですか。

五味田  大先生が亡くなる前、昭和43年くらいまでですね。その頃は私もだいぶ補佐をしていました。5段をもらってから廣田先生と切り替わる形で、昭和44年から私が指導を始めました。しかし灯台下暗しで、当時田辺で合気道を知ってる人というのは本当に少なかったんです。合気道を市民に広めてくれたのは、昭和63年に田辺で合気道国際大会が開催されてから発足した、植芝盛平翁顕彰会なんです。それまでに入門した現在の事務局長の柏山指導員が、九州の大学の合気道部へはいったところが、田辺が発祥の地だったというのを初めて知ったという具合(笑)。 よその人が知ってて、地元の人が知らなかったんです(笑)。

――斉藤守弘先生と田辺のつながりは何時頃からなのでしょうか。

五味田  大先生が亡くなってから斉藤先生が年に3、4回、お墓参りに来られるようになってからですね。そのうちに斉藤先生のお弟子さんたちもお墓参りに来られるようになってまた講習会を開催するようになり、全国からたくさんの方が来られるようになりました。そして、大先生のお墓参りをされる人も増えました。  

―― 先生が指導をされていて一番強調される点というのは何でしょうか。

五味田  やはり基本の大切さでしょうね。この前もあるところで基本を指導してきたのですが基本に応じた技が死んでしまっていますね。ふんわりとした技になってしまっているんです。それでは実際に掴まれたら、技を掛けることができないと思うんです。道場によって基本の考え方が違うように思いますが、田辺道場では、実際に堅く掴まれても技が掛けられるように稽古しています。

――やはり基本をしっかり身につけてから、気の流れにいかねばならないと。

五味田  そうです。最初から気の流れからはいると、思いっきり持たれたら動けないんですよ。大先生には初めから基本基本って教えられました。その教えを守って指導しています。

――最後に、これからの田辺道場について、どのように考えておられますか。

五味田  子供の場合は、体の面では反射神経等の基本的な能力を身につけること。また精神面では技のみに偏ることなく、人間としての礼儀作法を身につけさせバランスの取れた人間形成を目標とした指導に努めています。一方、一般の通常の稽古は、まず力一杯持たせた呼吸法から始め、体術へと移行して最後に呼吸法で終わりますが、日を変えて武器技の杖や剣の稽古日を設けています。素振りから始め、みっちりと基本をした後、杖対杖、剣対剣杖取り、剣取り等、さまざまな稽古をしております。昔は少々きつくてもついて来てくれたけど、今はちょっときつかったら来ない場合もあるので、むずかしいですね。今は、体のために何かプラスになればという人が多いです。今後も指導者を増やしたいと思っています。また、開祖生誕の地でもありどこへ行ってもどこから来られても、恥ずかしくない道場生を育成したいと思います。

――ぜひ指導者を育てる道場にしていっていただきたいです。本日はありがとうございました。


<五味田聖二(ごみた せいじ)師範 プロフィール>

昭和15年11月、和歌山県田辺市に生まれる。
昭和28年、合気道を始める。
昭和44年、5段になってから高山寺にあった田辺道場で指導を開始。
昭和56年4月、合気道田辺道場開設。鉄骨造り二階建、百畳敷きの大道場がある。(写真)
田辺道場は稲成本部道場以外に、高山寺道場、目良道場、南部道場、白浜道場、富田道場、日高武道館道場がある。
合気会八段。田辺道場道場長、和歌山県合気道連盟副理事、植芝盛平翁顕彰会理事を兼任。

                                          (どう出版案内より転載させていただきました)

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清盛 平安京の変容

2012年02月07日 | Weblog
 清盛の時代 平安京の変容


★古文書にみる平安京

 慶滋保胤(よししげの やすたね) 『池亭記(ちていき)』 982年

予 二十余年ヨリ以来 東西二京ヲ歴見ルニ 西京人家漸ク稀ニシテ殆ト幽墟ニ幾シ 人ハ去ルコト有テ来ルコト無シ 屋ハ壊ルコト有リ造ルコト無シ (中略) 東京四条以北 乾艮二方 人人貴賎ト無ク 多ク群聚スル所ナリ 高家門ヲ比ベ堂ヲ連ネ 少家壁ヲ隔テ簷ヲ接フ 東隣ニ火災有レバ西隣ハ余災ヲ免レズ 南宅ニ盗賊有レバ 北宅ハ流矢ヲ避リ難シ

われ、二十余年よりこのかた、東西の二京をあまねく見るに、西の京は人家ようやく稀にして、殆ど幽墟に近し。人は去ること有りて来ること無し。屋はやぶること有り造ること無し。 (中略) 東の京四条以北、乾・艮の二方は、人々貴賎と無く、多く群集する所なり。高家は門を並べ堂を連ね、小さき家は壁を隔て軒をまじうる。東隣に火災有れば西隣は余災を免れず。南宅に盗賊有れば、北宅は流矢を避け難し。


★平安宮の記録

  980年  羅城門が崩壊
 1063年  豊楽院が焼失
 1177年  朝堂院が太郎焼亡により焼失
 1227年  内裏が再建中に焼亡
 1242年  朱雀門の記録が最後。鎌倉時代まで存続した。
  
 京都市考古資料館によると、大極殿、朝堂院、内裏などの主要施設は平安時代後期まで造営、修造により維持、管理された。官衛は全体的には衰退、機能停止した。そして、鎌倉時代には一部を除くほとんどの施設が徐々に衰微し廃絶にいたるが、門、築地などの外郭施設は整備、維持された。また太政官、神祇官、真言院などの一部の官衛は室町時代まで存続、機能し、完全な荒地になったわけではない。


★平安京の変容

 ・都市機能の変化が左京区域に集中し、ほぼ全域で整地による嵩上げが行われる。
 ・左京城南部(平安京南東部)で街区が形成される。
 ・条坊制を放棄。側溝が街路中心に付け替えられ、道幅が狭くなる。
 ・町家が出現。小規模で、街路に面する入り口をもち、軒を連ねる。

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五味田聖二師範(3)

2012年02月04日 | Weblog
 合気ニュース [会見] 五味田聖二 田辺道場長に聞く

昭和28年に合気道を始め、田辺道場長として後進の指導にあたる五味田聖二師範。
昭和20年代から度々田辺を訪れた開祖から指導を受けた五味田師範が合気道開祖 植芝盛平を語る。

取材/編集部  2002年8月3日 田辺道場にて


―― 「変わっていなければ」と言っても、技そのものが変わっているわけではなく技を施す、その気持ちとか、そういうことですか。

五味田  そうです。だから、「基本の技をやっても最後の最後まで極めて締めるのはゆっくりやりなさい」と、大先生は言われていました。よく演武会で受けがふにゃっとなっていたかと思うと最後の二教の締めでぐーっと受けのお尻が上がるくらい思い切り締めている人を見かけますが、ああいうことしたら大先生はものすごく怒りましたよ。「最後の最後まで持ち続けて気を抜くな! 締めるときには、ゆっくり締めなさい!」「体が硬い人も柔らかい人もいるから、怪我をしないように!」とそれはよく言われました。

――締めるまでが大事なんですね。

五味田  はい。大先生はパッと離したら起き上がってくるから起きないようにきちんと決めなさいと言われましたが最後の締めをあまりきつくすると怒ったですね。しかし大先生の技は瞬間的に受けが飛んでしまうでしょ。昔は、入身投げでも天地投げでも、全部ここ(顎のところ)にくるんですよ。だから受けが飛んでしまうんですね。

――掌底が顎にきてる感じが多いですし、当身もありますよね……

五味田  僕らがはいった時には、当身7分で技3分とそういうふうに教えられました。技を掛けるために当身で相手の体勢を崩し、技につなげいく。また、相手の体を崩すことにより、技が掛けやすくなるんです。

――当身の時点で技が極まっている。あとは投げで怪我のないように処理すると。

五味田  そうそう。ぱっと当身を入れた瞬間に技が掛かっているそういう技が多かったですね。稽古は、大先生が亡くなるまでこちらにちょいちょい来られた時に習いました。斉藤守弘先生のようにきちっと内弟子として習ったのとはもちろん違って年に何回か来られた時に教えてもらうというふうでしたが、しかし、私は田辺に生まれて大先生に習ったことを光栄に思います。

――先生が出会った頃の植芝先生はおだやかな人ということですが反骨精神のようなものは見られましたか。

五味田  話をしてる時と稽古してる時とは、ぜんぜん違うんですよ。話してる時はおだやかで「また、いついつ来るよ」というような、和気あいあいとした感じで何もない時はふつうのお爺ちゃんでしたが稽古中は、傍へも寄れないほど厳しい人でしたね。怒鳴るというようなことはそんなになかったですが「そういう技してたらモジッテシマウ(壊れる)」とかよく言っておられました。また、最後の締めの時はゆっくりやれ」とか、「ケガのないようにしろ」とも言っておられました。先輩が受けの若い子らにストーンと倒すでしょ。相手が倒れたら離すんですがそれを怒られましたね「最後まで持っておれ」と。

――当時の演武会というのはどのように行なわれていたのでしょうか。

五味田  広っぱとか、屋上とかにゴザを敷いて説明演武をしたんです。でも大先生の説明というのが、難しくて長くて判断できんようなことばっかり言われたですね(笑)。神さんの話になってきますから!その点、吉祥丸先生はかみくだいて話してくださった。


<五味田聖二(ごみた せいじ)師範 プロフィール>

昭和15年11月、和歌山県田辺市に生まれる。
昭和28年、合気道を始める。
昭和44年、5段になってから高山寺にあった田辺道場で指導を開始。
昭和56年4月、合気道田辺道場開設。鉄骨造り二階建、百畳敷きの大道場がある。(写真)
田辺道場は稲成本部道場以外に、高山寺道場、目良道場、南部道場、白浜道場、富田道場、日高武道館道場がある。
合気会八段。田辺道場道場長、和歌山県合気道連盟副理事、植芝盛平翁顕彰会理事を兼任。

                                          (どう出版案内より転載させていただきました)

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