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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

三島由紀夫の南泉斬猫

2012年09月29日 | Weblog
★『無門関』 第十四則 南泉斬猫

【原文】

 南泉和尚、因東西両堂、爭猫兒。泉乃提起云、大衆道得即救。道不得即斬却也。衆無對。泉遂斬之。晩趙州外歸。泉擧似州。州乃脱履安頭上而出。泉云子若在即救得猫兒。

 無門曰、且道趙州草鞋意作麼生、若向者裏下得一転語、便見南泉令不虚行。其或未然、険。

 頌曰  趙州若在 倒行此令 奪却刀子 南泉乞命


【訓読】

 南泉和尚、因に東西の両堂、猫兒(みょうに)を爭う。泉乃ち提起(ていき)して云く、大衆道い得ば即ち救わん。道い得ずんば即ち斬却せん。衆、對うる無し。泉遂に之を斬る。晩に趙州外より歸る。泉、州に擧似(こじ)す。州乃ち履(くつ)を脱(だっ)して頭上(づじょう)に安(あん)じて出づ。泉云く、子若(なんじも)し在(いまし)なば即ち猫兒を救い得てん。

 無門曰く、且く道へ、趙州草鞋(そうあい)を頂(いただ)く意作麼生(いそもきん)、若し者裏(しやり)に向って一転語(いつてんご)を下し得ば、便ち南泉の令虚(みだ)りに行(ぎよう)ぜざることを見ん。其れ或は未だ然らずんば、険(けん)。

 頌に曰く  趙州若し在らば 倒(さかしま)に此の令を行ぜん 刀子を(とうす)を奪却(だつきやく)せば 南泉も命(めい)を乞わん


【和訳】

 南泉和尚の山寺。ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の子猫について言い争っていた。南泉和尚は子猫の首をつかんで「僧たちよ、禅の一語を言い得るならば、この子猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨てよう」と問うが、誰一人答える者はなかったので、南泉和尚はついに子猫を斬った。日暮れになって、高弟の趙州が帰ってきた。南泉和尚は趙州に子猫を斬った一件を話したところ、趙州は草鞋を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。南泉和尚は「ああ、今日おまえが居てくれたら、猫の児も助かったものを」と嘆息した。

 無門は云う。趙州が草鞋を頭に載せて出て行ったのは、何のことか言ってみるがよい。もしこの行為について正しい一つの転語を与えることができたら、南泉の命令が徒に発せられたのではなかったことが解るであろう。万一、もしそれができなかったら一刀両断! 危い。

 頌に詠う。 趙州がもしその場にいたら、その命令を逆手に実行しただろう。 相手の白刃をもぎ取ったならば、南泉でも命乞いをすることであろう。


★三島由紀夫 『金閣寺』

 しかし老師の講話だと、これはそれほど難解な問題ではないのである。

 南泉和尚が猫を斬つたのは、自我の妄念迷妄の根源を斬つたのである。非情の実践によつて、猫の首を斬り、一切の矛盾、対立、自他の確執を断つたのである。これを殺人刀と呼ぶなら趙州のそれは活人剣である。泥にまみれ、ひとにさげすまれる履というものを、限りない寛容によって頭上にいただき、菩薩堂を実践したのである。


 私は手持無沙汰になって喋りつづけた。

「君は『南泉斬猫』の公案を知ってるだろう。老師が終戦のとき、皆を集めてあれの講話をしたんだけど、・・・・・」

「『南泉斬猫』か」と柏木は、木賊の長さをしらべて、水盤にあてがつてみながら答へた。「あの公案はね、あれは人の一生に、いろんな風に形を変へて、何度もあらはれるものなんだ。あれは気味のわるい公案だよ。人生の曲り角で会ふたびに、同じ公案の、姿も意味も変つてゐるのさ。南泉和尚の斬つたあの猫が曲者だつたのさ。あの猫は美しかつたのだぜ、君。たとへやうもなく美しかつたのだ。目は金いろで、毛並はつややかで、その小さな柔らかな体に、この世のあらゆる逸楽と美が、バネのやうにたわんで蔵はれてゐた。猫が美の塊まりだつたといふことを、大ていの註釈者は言ひ落としてゐる。この俺を除けばね。ところでその猫は、突然、草のしげみの中から飛び出して、まるでわざとのやうに、やさしい狡猾な目を光らせて捕はれた。それが両堂の争ひのもとになつた。

何故つて、美は誰にでも身を委せるが、誰のものでもないからだ。美といふものは、さうだ、何と云つたらいいか、虫歯のやうなものなんだ。それは舌にさはり、引つかかり、痛み、自分の存在を主張する。たうとう痛みにたへられなくなつて、歯医者に抜いてもらふ。血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌にのせてみて、人はかう言はないだらうか。『これか? こんなものだつたのか? 俺に痛みを与へ、俺にたえずその存在を思ひわづらはせ、さうして俺の内部に頑固に根を張つてゐたものは、今では死んだ物質にすぎぬ。しかしあれとこれとは本当に同じものだらうか? もしこれがもともと俺の外部存在であつたのなら、どうして、いかなる因縁によつて、俺の内部に結びつき、俺の痛みの根源となりえたのか? こいつの存在の根拠は何か? その根拠は俺の内部にあつたのか? それともそれ自体にあつたのか? それにしても、俺から抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、これは絶対に別物だ。断じてあれぢやあない』

 いいかね。美といふものはさういふものなのだ。だから猫を斬つたことは、あたかも痛む虫歯を抜き、美を剔抉したやうに見えるが、さてそれが最後の解決であつたかどうかわからない。美の根は断たれず、たとひ猫は死んでも、猫の美しさは死んでゐないかもしれないからだ。そこでこんな解決の安易さを諷して、趙州はその頭に履をのせた。彼はいはば、虫歯の痛みを耐へるほかに、この解決がないことを知つてゐたんだ」

 解釈はいかにも柏木一流のものであつたが、それは多分に私にかこつけ、私の内心を見抜いて、その無解決を諷しているように思われた。私ははじめて柏木を本当に怖れた。黙つていることが可怕かつたので、さらにたずねた。

「君はそれでどつちなんだ。南泉和尚かい。それとも趙州かい」

「さあ、どつちかね。いまのところは、俺が南泉で、君が趙州だが、いつの日か、君が南泉になり、俺が趙州になるかもしれない。この公案はまさに、『猫の目のように』変るからね」


<参考文献> 安谷白雲『無門関提唱』/安谷白雲『碧巌録提唱』

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ブログ拝見『合気道開祖との遭遇』

2012年09月23日 | Weblog
本日は、ブラジルのマナウスで武術と養生からの身体メソッドを提唱されている大関智洋さんのブログ「養武禅」です。大先生が旧本部道場である柔道家と立ち合われたとのことです。それでは最後までじっくりとお読みください。


合気道開祖との遭遇

この間つぶやいたマスターズ世界大会で2回優勝している69歳の柔道家とは別の方で、家に来ている患者で74歳の元柔道家の話です。

この方はマナウス在住で、15歳から25歳まで日本の横浜で柔道に青春を燃やしたそうです。
当時、身長178センチ体重78キロ。
ウエトトレーニングはせず、柔道のハードな猛稽古で鍛えていたそうです。

しかし、喧嘩神輿の半分(半分を12~14人ぐらいで担ぐそうです)を一人で担いで、相手の神輿に負けないほど力には自信が有ったらしいです。

鎌倉の相撲の奉納試合なども飛び込みで出て、5人抜きで優勝したり柔道も試合で強かったとのことです。

詳しくは聞けなかったのでどのレベルでの試合で強いかは解りませんが、横浜で敵なしだったそうです。

今から54年ほど前この方が20歳の天狗に成っていた時、植芝翁は力道山より強いらしいとの噂を聞き、東京の有楽町に友達と道場破りに行きました。

意外にも当時既に高齢だった植芝開組が直接相手をしてもらえることとなり、その方が飛びつきつかみかかろうとした刹那・・・・・

胸をポンと突かれて腰が抜けて尻餅を着いたそうです。
あっけない勝負でしたが、それで到底敵わないと悟ったらしいです。
これが胸ではなく顔面だったら鼻を砕かれていた事が想像できたとの事でした。

「当時の合気道は、柔道とは別種の厳しく強い武術だった」とその方は言っていました。

ちなみに澤井先生の噂も当時日本で噂を聞いたことが有るそうです。

又、木村雅彦が力道山にやられたシーンもタイムリーで見ていたらしく、なにか呆気なくヤラレていて「あれ?」と思ったそうです。
それについては「力道山が木村政彦を騙して試合を進め、不意打ちで勝ったらしいですよ」と言ったら「なるほど」と合点がいった様でした。

又、サンパウロにいる沖縄拳法の使い手も合気道の様な座行での稽古をしていたとの事でした。

まさかそんな生き証人に会えるとはマナウスに来た甲斐がほんの少し感じられた話です。 (原文のまま)

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合気道技法(113)

2012年09月16日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書
 
座取

第十五条  敵ノ両肩ヲ摑ム事

第十五条  面打一方ノ手首ヲ絞リ転身関節ヲ両手ニテ小脇ニ押込ム事

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ブログ拝見『新庄中学校の合気道授業』

2012年09月11日 | Weblog
 本日は、合気道開祖植芝盛平生誕の地である和歌山県田辺市の、新庄中学校での合気道授業を合気道田辺道場さんの「合気道田辺道場のblog」からご紹介します。ブログにはたくさんの写真がありますが、トップの一枚を掲載させていただきました。それでは最後までじっくりとお読みください。

 
新庄中学校での合気道授業今年度から武道必修化で合気道を取り上げていただきました。

今年から新庄中学校さんが合気道を取り入れてもらいました!

生徒皆で体育館に畳を敷くところからスタート!

初年度は交差持ちの小手返し・交差持ちの入り身投げ・片手持ちの四方投げ(裏)

背筋を伸ばして礼!!

この日は最終日で小手返しと入り身投げと四方投げ

先日した小手返しを先生が前で見本を見せ

先生方が熱心で私たちも安心しておりました!

こちらはというと先生方のサポートをしました。

入り身投げの足捌きが難しく皆で足の運び方の確認

授業中は皆真剣で休み時間は…リラックス

後半も復習が続き、先生方も手取り足取り指導を

そしてテストが…皆覚えているかな…

テストでもしっかり礼を大切に

テストを終え皆ほっとした感じ…お疲れ様です!

これで今年度の新庄中学校の授業は無事終わりました。

又来年もよろしくお願いします!! . (原文のまま)

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清盛 西行の歌(5) 晩年

2012年09月08日 | Weblog
                         西行の歌 ー 晩年


                    鈴鹿山 うき世をよそに ふり捨てて

                         いかになりゆく わが身なるらむ


                    風になびく 富士の煙の 空にきえて

                         行方も知らぬ 我が思ひかな


                    年たけて またこゆべしと 思ひきや

                         命なりけり 小夜の中山


                    にほてるや なぎたる朝に 見わたせば

                         漕ぎゆく跡の 浪だにもなし


                    ねがはくは 花のもとにて 春死なむ

                         そのきさらぎの 望月の頃

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ブログ拝見『スポーツと善の心』

2012年09月02日 | Weblog
 本日は、舞踊の心を探求されている無心善さんのブログ「善の核爆発」です。今まで語られることのなかった、大先生が亡くなられたあとの岩間のようすを窺い知ることができます。それでは最後までじっくりとお読みください。


 「スポーツと善の心(第1回)」

私は、合気道を何か習ったわけではありません。

学生時代、あることから虚弱となってしまった体をなんとか鍛えなおすために柔道は6年ほど中学高校とやりましたが、合気道に関しては聞いたことがあるという程度の知識しかその時持っていませんでした。

ところが、私が26歳ぐらいの時だったと思いますが、たまたま踊りの求道の過程に茨城県の笠間のひょっとこ踊りを見学に行こうとしていたところ、始めての土地、岩間と笠間を間違えて駅を降り、一生懸命さがしていたところ

なんと、合気道発祥の地に紛れ込んでしまっていたのです。

優しそうな農家のおじさんが働いているのを見て、道を尋ねにその農家?に入り込んでしまったところ、そのおじさんこそが、合気道同祖亡き後、その発祥の地の道主として道を守られていた斉藤守弘先生だったのです。

その時に縁側で斉藤先生がお話してくださった合気道の本質こそ「絶対的安定性」というふうに呼ばれている概念だったのです。

「だからこそ、合気道は大地と同じなのだ。そこからはあらゆる技芸の個性の花が咲き始めるはずだ」という論理です。

その後、合気道についていろいろ調べてみますと、調べるほどに疑問も出てきたのですが、この斉藤先生の言われる「絶対的安定性」の理合いだけは、踊りの心の世界のさらなる追及の年月にも色褪せることなく、むしろ心にさらにしみこんでいったのです。

サッカーでも身体バランスとして安定性は重要視されてきました。

何しろ思いっきり走り込んでいる時にぶつかった時には大の男がなんの投げ技を使うまでもなく、大きく空中にふっとんでしまうこともある格闘技的なスポーツです。

接近戦のなかにこそ、次の展開があるわけですが、その接近にてバランスを保っていられるほうが同じボールコントロールの技術ならはるかにボール保持力や攻撃への変化力、前線へのボール支配力、突破力などへつなげられるということです。

転がってボールを受けるバレーボールでもすぐ体制を整えて急いで次の攻撃にそないなければならないところ、いつまでもバランスを崩されたままですとそのままサーブやアタッカーの餌食、身体バランスは最重要課題の一つとなっているはずです。

あの殺陣演技や、八百長とすら等しい訓練しかしない合気道?でなぜそこまで動的な身体バランス論を語れるのか?

もともとの合気道だけはそのへん違うというのか?

力での抵抗や、反射的切り返しも稽古のうちだったもともとの岩間の合気道ならば、むしろ他のスポーツ以上の安定性「絶対的安定性」と語れるものを持っていたということなのか?

でもそれぐらいのことならば他のスポーツやブ武道(たとえば柔道)では、あたりまえの事であるはず。

「絶対的安定性」とは、その裏にどんな根拠があることなのだろうか?

それは他のスポーツの身体バランス論とどのような違い、そして価値の差などがあるものなのだろうか?

ずばりそれは頭上からの袈裟切りを主用途とする日本刀を扱う技術であった日本剣術の厳しい歴史の上での、実はさらなる厳しい動きを前提とするはずの活人剣の理想を受け継ごうとしたものが本来植芝合気道が求めていたものだからだと言えると思う。

おっと、いきなり専門的になりすぎたかもしれませんね。

ともかく(また詳しいこともここではともかく)

植芝盛平道祖は、最後の最後亡くなられる前まで日本剣術の奥義をさらにさらに研究しつづけていたと言います。

そこを、他の先生方(がた)が長くて5年程度の修行で独立したところ、斉藤先生は、その晩年にいたる最後まで24年も道祖について修行した先生であり、その晩年の剣道のさらなる研鑽の姿を知っておられる唯一の先生でもあったということです。(他の先生方は戦前にすでに独立されていた)

まさに日本刀の刃の真下に飛び込むことで成り立つバランスが故の次への展開の技こそが、もともとの合気道が求め続けていた世界だったわけです。

私が出会ったときにも、若い未熟な者にすぎなかった私に、道祖の晩年にては、剣のすぶりを3年性格に修行した者にしか所謂合気道の体術は教えなかったということを語ってくださっていました。

まだ亡くなられてから10年もたっていなかった頃だったと思いますが、その時にはすでにそんな厳しい剣からの教えでは誰も合気道を習いにこなくなってしまう状況となっていたようなのです。

もともとの合気道の凄まじい求道の世界少し解っていただけましたでしょうか?

あくまで、その精神自体はまさに日本のスポーツの鑑であり、根幹の一つであるべき世界だと思います。

先ほど触れましたように、今では私は「やはり合気道の技術には欠陥があった」という結論をもっているのですが、その精神は、岩間合気道のさらにその原点には、日本武道の最高峰のなにがしかがあり、それが斉藤先生の「合気道の本質は絶対的安定性だ」と言われたことにつながっているという認識には今もなお変わりはないところなのです。

ここまで書いてしまったのでその欠陥についても少し触れますが、それはもともとの合気道にしても、入り身という刃をぎりぎり避ける技術のすぐ次に「転換」そして「極め」へという投げと関節技にすぐ移行する訓練しかしていないところにあると思っています。

道祖ご自身の袈裟切りの形は映像に残されていますが、それは完全に安定した半月引き切りです。これですと、どんなに鋭い変わり身で入り身してもすこしも体制は崩れません。とてもすぐその次の瞬間に「転換」「極め」へと進んでゆけるものではないわけです。

その自己矛盾があったからこそ、最後の最後までの日本剣道の求道の姿がそこにあったということでもあるのだろうと思います。

いずれにしても、その峻厳さ自体は、日本人や日本のスポーツマンの鑑であり、誇りであり、最高の模範の一つだと思うのです。

最初から少し長文となってしまいました。

きょうは、ここまでとさせていただきます。 (原文のまま )

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