★『無門関』 第十四則 南泉斬猫
【原文】
南泉和尚、因東西両堂、爭猫兒。泉乃提起云、大衆道得即救。道不得即斬却也。衆無對。泉遂斬之。晩趙州外歸。泉擧似州。州乃脱履安頭上而出。泉云子若在即救得猫兒。
無門曰、且道趙州草鞋意作麼生、若向者裏下得一転語、便見南泉令不虚行。其或未然、険。
頌曰 趙州若在 倒行此令 奪却刀子 南泉乞命
【訓読】
南泉和尚、因に東西の両堂、猫兒(みょうに)を爭う。泉乃ち提起(ていき)して云く、大衆道い得ば即ち救わん。道い得ずんば即ち斬却せん。衆、對うる無し。泉遂に之を斬る。晩に趙州外より歸る。泉、州に擧似(こじ)す。州乃ち履(くつ)を脱(だっ)して頭上(づじょう)に安(あん)じて出づ。泉云く、子若(なんじも)し在(いまし)なば即ち猫兒を救い得てん。
無門曰く、且く道へ、趙州草鞋(そうあい)を頂(いただ)く意作麼生(いそもきん)、若し者裏(しやり)に向って一転語(いつてんご)を下し得ば、便ち南泉の令虚(みだ)りに行(ぎよう)ぜざることを見ん。其れ或は未だ然らずんば、険(けん)。
頌に曰く 趙州若し在らば 倒(さかしま)に此の令を行ぜん 刀子を(とうす)を奪却(だつきやく)せば 南泉も命(めい)を乞わん
【和訳】
南泉和尚の山寺。ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の子猫について言い争っていた。南泉和尚は子猫の首をつかんで「僧たちよ、禅の一語を言い得るならば、この子猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨てよう」と問うが、誰一人答える者はなかったので、南泉和尚はついに子猫を斬った。日暮れになって、高弟の趙州が帰ってきた。南泉和尚は趙州に子猫を斬った一件を話したところ、趙州は草鞋を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。南泉和尚は「ああ、今日おまえが居てくれたら、猫の児も助かったものを」と嘆息した。
無門は云う。趙州が草鞋を頭に載せて出て行ったのは、何のことか言ってみるがよい。もしこの行為について正しい一つの転語を与えることができたら、南泉の命令が徒に発せられたのではなかったことが解るであろう。万一、もしそれができなかったら一刀両断! 危い。
頌に詠う。 趙州がもしその場にいたら、その命令を逆手に実行しただろう。 相手の白刃をもぎ取ったならば、南泉でも命乞いをすることであろう。
★三島由紀夫 『金閣寺』
しかし老師の講話だと、これはそれほど難解な問題ではないのである。
南泉和尚が猫を斬つたのは、自我の妄念迷妄の根源を斬つたのである。非情の実践によつて、猫の首を斬り、一切の矛盾、対立、自他の確執を断つたのである。これを殺人刀と呼ぶなら趙州のそれは活人剣である。泥にまみれ、ひとにさげすまれる履というものを、限りない寛容によって頭上にいただき、菩薩堂を実践したのである。
私は手持無沙汰になって喋りつづけた。
「君は『南泉斬猫』の公案を知ってるだろう。老師が終戦のとき、皆を集めてあれの講話をしたんだけど、・・・・・」
「『南泉斬猫』か」と柏木は、木賊の長さをしらべて、水盤にあてがつてみながら答へた。「あの公案はね、あれは人の一生に、いろんな風に形を変へて、何度もあらはれるものなんだ。あれは気味のわるい公案だよ。人生の曲り角で会ふたびに、同じ公案の、姿も意味も変つてゐるのさ。南泉和尚の斬つたあの猫が曲者だつたのさ。あの猫は美しかつたのだぜ、君。たとへやうもなく美しかつたのだ。目は金いろで、毛並はつややかで、その小さな柔らかな体に、この世のあらゆる逸楽と美が、バネのやうにたわんで蔵はれてゐた。猫が美の塊まりだつたといふことを、大ていの註釈者は言ひ落としてゐる。この俺を除けばね。ところでその猫は、突然、草のしげみの中から飛び出して、まるでわざとのやうに、やさしい狡猾な目を光らせて捕はれた。それが両堂の争ひのもとになつた。
何故つて、美は誰にでも身を委せるが、誰のものでもないからだ。美といふものは、さうだ、何と云つたらいいか、虫歯のやうなものなんだ。それは舌にさはり、引つかかり、痛み、自分の存在を主張する。たうとう痛みにたへられなくなつて、歯医者に抜いてもらふ。血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌にのせてみて、人はかう言はないだらうか。『これか? こんなものだつたのか? 俺に痛みを与へ、俺にたえずその存在を思ひわづらはせ、さうして俺の内部に頑固に根を張つてゐたものは、今では死んだ物質にすぎぬ。しかしあれとこれとは本当に同じものだらうか? もしこれがもともと俺の外部存在であつたのなら、どうして、いかなる因縁によつて、俺の内部に結びつき、俺の痛みの根源となりえたのか? こいつの存在の根拠は何か? その根拠は俺の内部にあつたのか? それともそれ自体にあつたのか? それにしても、俺から抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、これは絶対に別物だ。断じてあれぢやあない』
いいかね。美といふものはさういふものなのだ。だから猫を斬つたことは、あたかも痛む虫歯を抜き、美を剔抉したやうに見えるが、さてそれが最後の解決であつたかどうかわからない。美の根は断たれず、たとひ猫は死んでも、猫の美しさは死んでゐないかもしれないからだ。そこでこんな解決の安易さを諷して、趙州はその頭に履をのせた。彼はいはば、虫歯の痛みを耐へるほかに、この解決がないことを知つてゐたんだ」
解釈はいかにも柏木一流のものであつたが、それは多分に私にかこつけ、私の内心を見抜いて、その無解決を諷しているように思われた。私ははじめて柏木を本当に怖れた。黙つていることが可怕かつたので、さらにたずねた。
「君はそれでどつちなんだ。南泉和尚かい。それとも趙州かい」
「さあ、どつちかね。いまのところは、俺が南泉で、君が趙州だが、いつの日か、君が南泉になり、俺が趙州になるかもしれない。この公案はまさに、『猫の目のように』変るからね」
<参考文献> 安谷白雲『無門関提唱』/安谷白雲『碧巌録提唱』
【原文】
南泉和尚、因東西両堂、爭猫兒。泉乃提起云、大衆道得即救。道不得即斬却也。衆無對。泉遂斬之。晩趙州外歸。泉擧似州。州乃脱履安頭上而出。泉云子若在即救得猫兒。
無門曰、且道趙州草鞋意作麼生、若向者裏下得一転語、便見南泉令不虚行。其或未然、険。
頌曰 趙州若在 倒行此令 奪却刀子 南泉乞命
【訓読】
南泉和尚、因に東西の両堂、猫兒(みょうに)を爭う。泉乃ち提起(ていき)して云く、大衆道い得ば即ち救わん。道い得ずんば即ち斬却せん。衆、對うる無し。泉遂に之を斬る。晩に趙州外より歸る。泉、州に擧似(こじ)す。州乃ち履(くつ)を脱(だっ)して頭上(づじょう)に安(あん)じて出づ。泉云く、子若(なんじも)し在(いまし)なば即ち猫兒を救い得てん。
無門曰く、且く道へ、趙州草鞋(そうあい)を頂(いただ)く意作麼生(いそもきん)、若し者裏(しやり)に向って一転語(いつてんご)を下し得ば、便ち南泉の令虚(みだ)りに行(ぎよう)ぜざることを見ん。其れ或は未だ然らずんば、険(けん)。
頌に曰く 趙州若し在らば 倒(さかしま)に此の令を行ぜん 刀子を(とうす)を奪却(だつきやく)せば 南泉も命(めい)を乞わん
【和訳】
南泉和尚の山寺。ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の子猫について言い争っていた。南泉和尚は子猫の首をつかんで「僧たちよ、禅の一語を言い得るならば、この子猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨てよう」と問うが、誰一人答える者はなかったので、南泉和尚はついに子猫を斬った。日暮れになって、高弟の趙州が帰ってきた。南泉和尚は趙州に子猫を斬った一件を話したところ、趙州は草鞋を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。南泉和尚は「ああ、今日おまえが居てくれたら、猫の児も助かったものを」と嘆息した。
無門は云う。趙州が草鞋を頭に載せて出て行ったのは、何のことか言ってみるがよい。もしこの行為について正しい一つの転語を与えることができたら、南泉の命令が徒に発せられたのではなかったことが解るであろう。万一、もしそれができなかったら一刀両断! 危い。
頌に詠う。 趙州がもしその場にいたら、その命令を逆手に実行しただろう。 相手の白刃をもぎ取ったならば、南泉でも命乞いをすることであろう。
★三島由紀夫 『金閣寺』
しかし老師の講話だと、これはそれほど難解な問題ではないのである。
南泉和尚が猫を斬つたのは、自我の妄念迷妄の根源を斬つたのである。非情の実践によつて、猫の首を斬り、一切の矛盾、対立、自他の確執を断つたのである。これを殺人刀と呼ぶなら趙州のそれは活人剣である。泥にまみれ、ひとにさげすまれる履というものを、限りない寛容によって頭上にいただき、菩薩堂を実践したのである。
私は手持無沙汰になって喋りつづけた。
「君は『南泉斬猫』の公案を知ってるだろう。老師が終戦のとき、皆を集めてあれの講話をしたんだけど、・・・・・」
「『南泉斬猫』か」と柏木は、木賊の長さをしらべて、水盤にあてがつてみながら答へた。「あの公案はね、あれは人の一生に、いろんな風に形を変へて、何度もあらはれるものなんだ。あれは気味のわるい公案だよ。人生の曲り角で会ふたびに、同じ公案の、姿も意味も変つてゐるのさ。南泉和尚の斬つたあの猫が曲者だつたのさ。あの猫は美しかつたのだぜ、君。たとへやうもなく美しかつたのだ。目は金いろで、毛並はつややかで、その小さな柔らかな体に、この世のあらゆる逸楽と美が、バネのやうにたわんで蔵はれてゐた。猫が美の塊まりだつたといふことを、大ていの註釈者は言ひ落としてゐる。この俺を除けばね。ところでその猫は、突然、草のしげみの中から飛び出して、まるでわざとのやうに、やさしい狡猾な目を光らせて捕はれた。それが両堂の争ひのもとになつた。
何故つて、美は誰にでも身を委せるが、誰のものでもないからだ。美といふものは、さうだ、何と云つたらいいか、虫歯のやうなものなんだ。それは舌にさはり、引つかかり、痛み、自分の存在を主張する。たうとう痛みにたへられなくなつて、歯医者に抜いてもらふ。血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌にのせてみて、人はかう言はないだらうか。『これか? こんなものだつたのか? 俺に痛みを与へ、俺にたえずその存在を思ひわづらはせ、さうして俺の内部に頑固に根を張つてゐたものは、今では死んだ物質にすぎぬ。しかしあれとこれとは本当に同じものだらうか? もしこれがもともと俺の外部存在であつたのなら、どうして、いかなる因縁によつて、俺の内部に結びつき、俺の痛みの根源となりえたのか? こいつの存在の根拠は何か? その根拠は俺の内部にあつたのか? それともそれ自体にあつたのか? それにしても、俺から抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、これは絶対に別物だ。断じてあれぢやあない』
いいかね。美といふものはさういふものなのだ。だから猫を斬つたことは、あたかも痛む虫歯を抜き、美を剔抉したやうに見えるが、さてそれが最後の解決であつたかどうかわからない。美の根は断たれず、たとひ猫は死んでも、猫の美しさは死んでゐないかもしれないからだ。そこでこんな解決の安易さを諷して、趙州はその頭に履をのせた。彼はいはば、虫歯の痛みを耐へるほかに、この解決がないことを知つてゐたんだ」
解釈はいかにも柏木一流のものであつたが、それは多分に私にかこつけ、私の内心を見抜いて、その無解決を諷しているように思われた。私ははじめて柏木を本当に怖れた。黙つていることが可怕かつたので、さらにたずねた。
「君はそれでどつちなんだ。南泉和尚かい。それとも趙州かい」
「さあ、どつちかね。いまのところは、俺が南泉で、君が趙州だが、いつの日か、君が南泉になり、俺が趙州になるかもしれない。この公案はまさに、『猫の目のように』変るからね」
<参考文献> 安谷白雲『無門関提唱』/安谷白雲『碧巌録提唱』