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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

合気道技法(124)

2013年07月30日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書
 
座取

第ニ十六条  敵ノ両手首ヲ摑ム事

第ニ十六条  両手ヲ外側ヨリ上ニ両手刀ニテ切リ下シ両手斜上下ニ分チ
         膝ヲ敵側ニ進メテ顎ヲ上方ノ手ニテ突倒ス事

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植芝盛平伝(6)

2013年07月16日 | Weblog
☆植芝盛平語録

 各地の武術道場へ参りまして見ますのに、神様のお祀りしてある道場は甚だ少ない。とくに学校等で殆んど全てが神様をお祀りしていないのであります。現代の人々はただ身体を動かすことによって武道を体得し、武術を修練することができると思っているようであります。かかる精神によって指導されて、汗を流して一生懸命に武術の稽古をしている人々を見ます時に、私は一種いうことのできない哀愁と重大なる責任を感ずるのであります。
 道場とは読んで字の如く道の修業場であります。今日の道場はむしろ工場といった方が適当のように思われます。
 人は刀によって切られる前に先ず切尖より迸る殺気によって切られるのであります。
 例えば少し剣道に達してくると刀を振り下ろして来る敵の意志相念は時間空間を超越してこちらへ直感できるものであります。また私が両三度経験したことは、ピストルの弾丸等も実弾が発射する前に約一寸位の白色の想念の弾丸がシュツと音をは発して飛んでくるのであります。
 しかし真の武道からいいますと敵の行動を単に予見するのはまだ至らざるものでありまして、敵を自分の意志の通りに働かす力、即ち一切を自己の内に抱含する力量が備わってきてこそ誠の神の道を宣揚することができるのであります。
 これは武道に関する霊的体験の一端でありますが、今日の武術家にして神を敬い、霊体一致の修業を必要とする点に覚醒されたならば、その心境は自ら驚嘆されるものがあろうと思うのであります。 (植芝守高(盛平)『武道』武道宣揚会版)

 最初は産屋として茨城県岩間に道場をつくりました。小さいが世界にひびく道場である。これは神示によって建てられたのである。小さな社しか建てられなかったが、禊の神のご神示によって天降ったのである。その社には五柱の神(猿田毘古大神、速武産大神、須佐之男大神、建御雷大神、経津主大神)を奉祭してある。猿田毘古大神のご指示によって創ったのであって、私の作ったものでない。私を通してはいるが、私は、大神のままに動いているだけである。 (植芝盛平先生口述『武産合気』高橋英雄編 昭和33年~36年講話)


☆合気神社駒札『合気神社由来記』

 合気神社は世界でただ一つの合気道に関わる神社であり、合気道開祖植芝盛平翁が建立、昭和十八年晩秋に完成しました。須佐之男大神、武甕槌大神、経津主大神をはじめ、開祖植芝盛平翁の守護神、猿田彦大神、国津竜王、九頭竜大権現、手力男命、天叢雲九鬼沙牟波羅竜王、家津美御子大神、稚産霊命の他、竜王、大権現、大天狗、大菩薩等、四十三柱の大神様が祀られており、年一度の例大祭は四月二十九日に執り行われ、日本国内は勿論、海外からも多数の合気道修行者が訪れ、開祖及び吉祥丸二代道主を偲び、合気道の発展、道場の安全、技術の向上と共に、世界の平和を祈願します。
 
                        【道歌碑】     美しき此の天地の御姿は主の作りし一家なりけり     盛平

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植芝盛平伝(5)

2013年07月09日 | Weblog
 合気道開祖植芝盛平の守護神『建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)』物語

 八岐の大蛇(やまたのおろち)

 天照大神の弟の須佐之男命は高天原から追放され、遠い出雲の国に降りました。
 出雲の簸の川を歩いていると川上から箸が流れてきたので上流には人が住んでいると思い、歩いて行くと美しい少女と老夫婦が泣いていたのでその理由を聞きます。
 老人は「私は大山津見神の子で足名椎(あしなづち)で、妻は手名椎(てなづち)、娘の名は櫛名田比売(くしなだひめ)といいます。私たちには八人の娘がいましたが、この地には恐ろしい高志の八岐の大蛇という大蛇が毎年出てきて、娘を一人ずつ食べてしまうのです。いままたその時期となりこの娘も食られるかと思うと、悲しくて泣いているのです」と言います。
 須佐之男命はその八岐の大蛇はどの様なものか尋ねると、足名椎は「その身体は一つで、頭が八つあり、尾が八つあり、身体には苔や桧、杉が生い茂り、目はほおずきのように赤く、その長さは八つの谷と八つの峯にわたるほどで、腹はいつも全体に血が流れ真っ赤にただれています」と言います。
 それを聞いた須佐之男命は「それならその大蛇を退治してやろう、安心しなさい。私は天照大神の弟で今高天原からここに降りてきたばかりだ。そなたの娘を私の嫁にくれないか」と言うと、老夫婦は「それならば、おそれ多いことですが娘をさしあげましょう」と言いました。
 須佐之男命は少女を櫛に化身させて自分の髪に刺し、足名椎と手名椎に強力な酒を作らせ、垣で囲み、垣に八つの門を作り、それぞれの門に八つの棧敷(さじき)を作り、その棧敷ごとに酒が入ったかめを置いて大蛇が来るのを待ちました。
 間もなく天地をとどろかせ、空の曇り、生臭い風があたりをつつみ大蛇が現れました。大蛇は大好物の酒の臭いで八つの門に頭をつっこんで酒を飲み干し、酔いつぶれてぐっすりと寝込んでしまいました。
 須佐之男命は大蛇に忍び寄り、十拳剣(とつかのつるぎ)を振って大蛇をずたずたに切り刻みました、なおも尾の方まで切り進んでいくと中から一振りの太刀が現れました。
 大蛇のいた所にはいつも叢雲がたなびいていたのは、この剣のためであったかと思い、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と名づけ、のちに天照大神にお詫びとしてこの太刀を献上しました。

 この天叢雲剣は、のちに草薙剣(くさなぎのつるぎ)とよばれ皇室の三種の神器のひとつになる。
 因みに、岩間の合気神社に建速須佐之男命とともに奉祭される速武産大神(はやたけむすおおかみ)は、またの名を天叢雲九鬼沙牟波羅竜王(あめのむらくもくきさむはらりゅうおう)という。

 石見神楽(いわみかぐら)

 石見神楽は、島根県西部の石見地方に古くから伝わる伝統芸能である。五穀豊穣に感謝し、毎年秋祭りに氏神様に奉納されてきたが、時代とともに石見人の気質にあった勇壮にして華麗な郷土芸能へと進化した。活発華麗な舞と、荘重で正雅・古典的な詞章が特徴で、方言的表現、素朴な民謡的詩情とともに独特のものをつくりあげている。
 廃れ忘れられていく伝統芸能が多い中、石見神楽は老人から子供まで大人気。そのスケールの大きさとダイナミックな動きに圧倒される『大蛇(オロチ)』」を含め演目は30種類以上にのぼり、例祭への奉納はもとより各種の祭事、祝事の場に欠かすことのできないものとなっている。
 大蛇は「石見神楽の華」と称されるほどの花形演目で、多くの神楽上演において最終演目として披露される。日本神話における須佐之男命の八岐の大蛇(やまたのおろち)退治を題材とした内容で、数頭の大蛇が須佐之男命と大格闘を繰り広げる。

 石見神楽の中にあって一種特別な特徴を持っている大元神楽(おおもとかぐら)。邑智郡一帯に伝わるこの神楽は、大元神を祀る各社祠において、五年、七年、もしくは十三年に一度行われる式年祭に際して舞われる。よって神楽自体も極めて神事色が強く、祭礼神事に加えて神事的な舞の部分については基本的には神職がこれを担い、そして着面による神話劇風な能舞部分についてはそれぞれの地の一般有志から成る石見神楽団が演じるという混成型の神楽となっている。本来神楽とは、場を清め、神を招き、神の出現を経てお告げを受ける、という意味を持った神事である。他ではほとんど見られなくなったこの「お告げを受ける」を現出する場面が、ここでは『綱貫(つなぬき)』という演目で現される。このような稀有な特徴と、江戸時代初期の元和元年(1615)まで確実に遡る確かな由緒などから、神職が担う神事的な舞の部分が国の重要無形民俗文化財に指定されている。

 祇園祭の宵山に八坂神社で石見神楽の奉納がある。午後6時30分開演。

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植芝盛平伝(4)

2013年07月02日 | Weblog
 植芝守高(盛平)氏の武道と神ながら

 植芝氏はここまで、剣道のみならず、道の精進をして来られた。今日に至るまでの氏の苦心は、実に道の修行であった。道の鍛錬のため、或る假成宗教によって、多年苦心をされたが達せられず、遂に古神道によって神ながらの体得に達すると共に、剣道の奥義が体認された。鍛錬された剣道が更に神ながらの域に達すると、格に入って格を出、流転剣道円融無碍の体認となる。植芝氏の武道は実にこの神域に達したものであるから、型が固定していない。現に今も、神ながらに、次から次へと奥儀の手段が創造されつつある。日一日と進歩する。これが神ながらである。神ながらは、形式を以ても知ることは出来るが、形式を超えなくてはこれに入ることが出来ない。だから宮本武蔵の兵法、剣道の奥義は精神が主となって、その他の一切は精神的直道を学ぶの手段となっている。唯物主義は全くこの妙諦の前に打ち砕かれてしまう。
 私は先に、植芝氏の仕合の場合、相手の幽体なり守護神なりが、植芝氏の空の心に憑くという事を述べた。こういう事は神霊哲学乃至スピリチュアリズムをやって居ない人には解らない言葉である。日本古神道を研究するならば、こんな事は明瞭なる事実として疑うべくもない。
 がさて、植芝氏は五尺二寸(約157cm)位の丈の人であれば、六尺四寸(約193cm)もある剛力の大兵と組み合った際には、相手方も仲々強い。しかし組み合っている間に、白い人体が床の上に倒れているのが見えるそうで、押しも抑えもしないのに、相手はその白い人体(相手の幽体が肉体から脱けてすてに床の上倒れているのが植芝氏の霊眼に見える)の上にへろりと倒れてしまうそうである。いわば魂がすでに脱出して負けているわけである。
 一体、物質としての肉体は、幽体の衣であり、幽体は霊体の衣である。肉体が死ねば、我等は幽体として生きるが、幽体もまたいつかは向上の道程に死んで渾然霊体となる。生きている肉体としての人間も、精神的に向上すれば、幽体として魂の意識が開け、更に純化向上するに従って、霊の意識が開ける。かくて魂の意識及び霊の意識は、人間の所謂普通意識を超えて、更に大なる力と智恵とを得来る。
 文豪ゲーテが『自分自身に遭った』といっているのは、自分の幽体が肉体から脱出しているのを見たのであって、かかる例は今日の日本に於ても幾多の実例がある。幽体の有する魂意識よりも、霊体の有する霊意識は更に向上純化したものであって、芸術美に感じ易い。プラトンが音楽の勇壮美を以て、イデアの世界に我等の霊を燃え上らしめるものだと考えたのは正しい見方である。凡て真の哲人及び大芸術が神秘的なるはこれでよく分る筈。
 さて剣道も植芝守高(盛平)氏の域に達すれば、他を征服したり殺したりするのが目的ではなくなる。また単に身を護るというだけの事でもなくなる。植芝氏の剣道は肉体としての仕合手段ではなく、また幽体としての超越的なものであり、更に霊光燿炳たる神ながらの道である。氏が剣道の修行中、屡々紫の光明に包まれて、万有と呼吸一つになった得もいわれぬ荘厳美に融け入る経験をされたというのは、即ち、剣道極に達して、肉体を超越した霊魂意識に入った境地を言われるのである。

 植芝氏は今、陸海軍の剣道指南、皇族方の武道指南をして居られるが、牛込の道場には無名の青年、講道館の五、六段の若人の外、陸海軍の少将、中将、大将の人々が弟子入りをして居られる。神ながらの技であれば、名は剣道であるけれども、柔道にも、相撲にも共通して不思議な指南となっている。過日私は六尺一寸五分(約2m13cm)もある有名な相撲取が、植芝氏の弟子の一人なる修行初歩の小男に、真逆様にぶち投げられて、大弱りに弱っているのを見た。以てその道の非凡なるを察するに足ろう。

文献:三浦関造『心霊の飛躍』昭和7年 (国立国会図書館蔵)

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