ここ、M寺には貫首の他、35人の僧がいる。その全員が声を揃えて誦経する。独特の発声法は耳にではなく腹に響いて来るようだ。堂内全体が振動する。
大般若波羅密多経の転読が始まる。転読とは教典をはらはらと流すように捲り一巻を誦んだ代わりにすることである。こうしなければ全部で六百巻からなる大部の教典を読みきることはできないのだ。転読は動的であるが、これもすべて作法に則って行われている。乱暴な訳ではない。
また勤行の際にも鑼や木魚、手鑿(しゅきん)といった鳴らし物は有効に使われる。実に荘厳な調べであり、まるで音楽を聴いているかのような錯覚を覚えるが、これはそのように聴いてはならないものなのである。
朝課が済むと僧達はそれぞれの公務に就く。
公務とは文字通り公に務めるということである。俗世でいうそれとは違う。
僧達の行っているのは経済活動と結びついた所謂仕事ではないのである。僧達は、働くことに働くこと以外の意味を求めないのだという。労働ではなく修行なのである。清掃や炊事すらも、寺の中では修行として捉えられる。僧達は全員が寺という社会を構成する構成員であり、必ず何かの役割を担っているのだ。その勤めを果たすことがすなわち修行となるのである。
例えば法堂の掃除も勿論修行の内である。塵ひとつ残してはならない。これらの作務は謂わば動く禅なのである。
この間典座(炊事役)の僧達は食事を作る。食事はよくいう一汁一菜。朝はお粥、昼と夜は麦飯という質素なものだ。
雲版という鳴らし物の音に合わせ僧達は食堂に集まる。無言である。一切の音はしない。偈文を唱え、粥座(朝食)が始まる。箸の上げ下し、鉢の持ち方、果ては沢庵の噛み方にまで作法がある。姿勢を崩す者も音を立てる者もいない。食事が済むと鉢には一杯の茶が注がれ、この茶で洗鉢をし、仕舞う。食事にしてはあまりに異様な光景だが、これも修行なのである。
そして愈々坐禅。
坐禅は禅堂と呼ばれる建物で朝夕行われる。禅堂は、食堂、浴室と併せて三黙道場と呼ばれる。つまり一切口を利くことは許さ (了)
これは「鉄鼠の檻」の作中人物が小説内で記した原稿という体裁で書かれている。著者により禅寺での修行僧達の生活が描写される。
写真:十牛図「得牛」相国寺蔵。 男は牛に手綱をつけて、とっ捕まえようとする。
大般若波羅密多経の転読が始まる。転読とは教典をはらはらと流すように捲り一巻を誦んだ代わりにすることである。こうしなければ全部で六百巻からなる大部の教典を読みきることはできないのだ。転読は動的であるが、これもすべて作法に則って行われている。乱暴な訳ではない。
また勤行の際にも鑼や木魚、手鑿(しゅきん)といった鳴らし物は有効に使われる。実に荘厳な調べであり、まるで音楽を聴いているかのような錯覚を覚えるが、これはそのように聴いてはならないものなのである。
朝課が済むと僧達はそれぞれの公務に就く。
公務とは文字通り公に務めるということである。俗世でいうそれとは違う。
僧達の行っているのは経済活動と結びついた所謂仕事ではないのである。僧達は、働くことに働くこと以外の意味を求めないのだという。労働ではなく修行なのである。清掃や炊事すらも、寺の中では修行として捉えられる。僧達は全員が寺という社会を構成する構成員であり、必ず何かの役割を担っているのだ。その勤めを果たすことがすなわち修行となるのである。
例えば法堂の掃除も勿論修行の内である。塵ひとつ残してはならない。これらの作務は謂わば動く禅なのである。
この間典座(炊事役)の僧達は食事を作る。食事はよくいう一汁一菜。朝はお粥、昼と夜は麦飯という質素なものだ。
雲版という鳴らし物の音に合わせ僧達は食堂に集まる。無言である。一切の音はしない。偈文を唱え、粥座(朝食)が始まる。箸の上げ下し、鉢の持ち方、果ては沢庵の噛み方にまで作法がある。姿勢を崩す者も音を立てる者もいない。食事が済むと鉢には一杯の茶が注がれ、この茶で洗鉢をし、仕舞う。食事にしてはあまりに異様な光景だが、これも修行なのである。
そして愈々坐禅。
坐禅は禅堂と呼ばれる建物で朝夕行われる。禅堂は、食堂、浴室と併せて三黙道場と呼ばれる。つまり一切口を利くことは許さ (了)
これは「鉄鼠の檻」の作中人物が小説内で記した原稿という体裁で書かれている。著者により禅寺での修行僧達の生活が描写される。
写真:十牛図「得牛」相国寺蔵。 男は牛に手綱をつけて、とっ捕まえようとする。