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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

出雲大社近江分詞

2008年11月20日 | Weblog
★出雲大社近江分詞 御鎮座八十周年

 琵琶湖の西岸、和邇北浜にある出雲大社近江分詞に参拝する。
 出雲大社の国造(こくそう)家より千家達彦管長をお迎えして、御鎮座八十周年を記念しての奉祝大祭である。国造の千家は「せんげ」と読む。茶道の千家は「せんけ」と読み、両者に家系の関係はない。
 出雲国造家は、アマテラスの第二子のアメノホヒを初代として代々出雲大社宮司を務める、天皇家に次ぐ古い家系の家柄である。
 因みに、アマテラスの第一子は正勝吾勝勝速日アメノオシホミミで、その子の天津日子番能ニニギが天降り、曾孫の神武天皇が初代天皇となった。
 御鎮座八十周年を迎えた出雲大社近江分詞は、教祖古山眞正(ふるやままきまさ)先生によって大阪福島区吉野町に出雲大社教この花教会所の産声をあげた。時に、昭和3年11月25日のことである。
 そして、京都市下京区西洞院の八雲教会から、東山区五条坂の京都分院へと歴史を重ね、先代の古山茂先生から、現分詞長の齊田敏夫先生のお導きのもと歩んできた。
 奉祝大祭は御歳、八十七歳になられる千家達彦(せんげみちひこ)管長のもと、二礼八拍手の拝礼により始まる。修祓につづき謝恩詞奏上があり、神語「幸魂 奇魂 守給 幸給(さきみたま くしみたま まもりたまい さきはいたまえ)」の三唱の声が神殿をつつみこむ。
 午前10時からの祭典は荘厳な雰囲気のなか粛々と執り行われ、引き続き式典となり和やかな時間が流れて午後2時に終了した。神殿の前庭では総勢8名による祝い太鼓の連打の音がドドーンと和邇の山々にこだまして、琵琶の湖へと響き渡る。

★祭神の由来と祭祀

 大国主大神は、私たちの遠い祖先たちと喜びも悲しみも共にされて初めて国土を開拓され、農耕など諸産業を勧めて人々の暮らしの基礎を築いてくださり、さらに医薬・禁厭の法などを御教示になられて人々の病苦を救われるなるなど慈愛の御心を寄せられました。
 やがて、この国土を皇孫命(すめみまのみこと=御皇室の御祖先神)に捧げられて、「和譲」の道を御教示されて天日隅宮(出雲大社)に鎮られ、目には見えない世界を治められる幽冥主宰大神(かくりよしろしめすおおかみ)として、永遠に人々の生前死後を貫いて私どもをお護り下さるようになりました。
 ここに、天穂日命は皇祖の勅命により大国主大神の祭主となって、大神の御心を奉戴し、天穂日命の子孫は歴年、出雲国造(いずもこくそう)として代々その使命を享け嗣ぎ、真に大神の御神徳の現身なる具現者、すなわち御杖代(みつえしろ)として奉仕して世の人々を導いてきました。
 そして江戸時代に至る頃より、出雲国造は出雲大社の社人たちを諸国に派遣して各地の人々に出雲大社の大国主大神の御神札を授け、御神徳を説く布教に歩ませました。以来、大国主大神の御神徳を慕い、御縁に触れたいと願う人々は次第にその数を増し、出雲大社は親しみを込めて「出雲さん」と呼ばれるようになりました。(出雲大社教ホームページ)

写真:出雲大社御本殿/島根県

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千日回峰行

2008年11月13日 | Weblog
 千日回峰行者、叡南俊照大阿闍梨のお話を伺う機会を得た。
 叡南俊照師は、香川県坂出市生まれ。昭和33年、15歳で入山。昭和49年、千日回峰行をめざし十二年籠山に入る。この年千日回峰行に出峰、昭和54年、千日回峰行満行となり大行満大阿闍梨となる。現在、律院(大津市坂本)住職。

 叡南師は行者の服装や持ち物を示しながら、小僧生活から話を始められた。
 千日回峰行は、十二年籠山行を終え、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行である。行に先立ち、師僧である叡南覚照師から「無一物」の教えをうける。
 行者は途中で行を続けられなくなったときは自害する決まりで、そのために首を吊るための死出紐と短刀を常時携行する。頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、手に荒削りの太い白木の六尺棒を持ち、草鞋ばきといういでたちである。

 無動寺谷で勤行のあと、深夜2時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、七里半の約30㎞を6~7時間で巡拝。ひたすら祈る。「北嶺行者俊照」と書かれた提灯が足元を照らす。
 500日目の回峰の頃に体調を崩し、師僧の叡南覚照師から「遅い」、「たわけが」と叱咤激励されながらも、陰で師僧や弟子に支えられて、なんとか回復して行を継続することができたという。

 700日目の回峰を終えた日から「堂入り」が行なわれる。無動寺谷明王堂で足かけ九日間にわたる断食・断水・断眠・断臥の行に入る。入堂前に行者は生き葬式を行ない、不動明王の真言を唱え続ける。叡南師は堂内での様子を、始めは睡魔に襲われ、次に餓鬼に襲われたと話された。出堂すると、行者は生身の不動明王ともいわれる大阿闍梨となり、信者達の合掌で迎えられる。
 出堂の後、天台座主の山田恵諦老師にご報告にあがり「楽志」の書を賜る。行を楽しめとのお教えであり、ともすれば苦しかった行が、その後は楽しく行うことができたという。
 
 そして、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60㎞の行程を100日続ける。つぎは200日で、前半の100日は全行程約84㎞に及ぶ京都市街を巡る「洛中洛外大回り」で、後半の100日は比叡山中約30㎞の行程に戻り、千日を満行する。千日回峰行を終えると京都御所への土足参内が許される。

 叡南俊照師は「行者になるべく、師僧である叡南覚照師に導かれたように思います」としみじみ語られた。

写真:叡南俊照大阿闍梨

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