武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

びわ湖疏水船

2018年09月20日 | Weblog
 びわ湖疏水船

 地下鉄の蹴上駅から南禅寺に抜ける歩行者用のトンネル「ねじりまんぽ」。ねじりまんぽは、アーチのレンガが螺旋状に積まれたトンネルのことで、正式には斜拱渠(暗渠タイプのアーチ橋)という。トンネルの中に一歩足を踏み入れた瞬間、引き込まれるような感覚になる。このトンネルの壁は、まるで奥へ渦を巻いているかのように螺旋状にねじれているのである。このねじれは、斜めに積み上げられたレンガによるもので、耐久性を上げるために斜めに積み上げられているという。
 南禅寺の水路閣は、疎水分線の一部として日ノ岡から北白川まで灌漑用水のために造られた。明治21年(1888)に完成。長さ93m、幅4mのレンガ造りの16連アーチの水道橋には琵琶湖の水がとうとうと流れる。橋脚のアーチは古代ローマの水道橋を想起させ、TVドラマなどの格好のロケ地となっている。

 琵琶湖疏水は、琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路「疏水」である。総延長は12km。大津から南禅寺までの高低差は僅か4mしかない。
 明治18年(1885)、田邊朔郎(たなべ さくろう)技師により着工、同23年に開通。開通から数十年は、旅客、貨物を乗せる舟運として利用されたが、昭和26年(1951)に運行を停止した。
 この秋の史跡行脚は、京都から大津まで7.8kmの疎水を遡ること約35分、疏水沿いの紅葉を水上から楽しむ趣向である。蹴上の船を運んだ傾斜鉄道「インクライン」から旧御所水道ポンプ室(防火用水として京都御所に水を送る専用の水道施設)へ。疏水船に上船した後、日本最初の鉄筋コンクリート橋である第11号橋、山科の毘沙門堂の参道に架かる安朱橋の馬酔木並木や、鮮やかな朱塗りの正嫡橋。そして四ノ宮の舟溜から、全長約2.5kmの第一トンネル竪坑を通り、伊藤博文揮毫の石の扁額「気象萬千」がある第一トンネル東口を過ぎれば、そこは琵琶湖である。

合気の剣と月之抄

2018年09月16日 | Weblog
 合気の剣と月之抄

 『武道練習』 昭和七年版   植芝守高(盛平)
 古は狭き畳の上で道によって天地の意気を以って戦闘する呼吸を対照的に錬磨したのである。此の場合適当の距離をとる。これは丁度剣道で言へば「水月の理」即ち敵との距離を水の位とし(あたらぬ場合)それを彼我の体的霊的の距離を中に於いて相対す。敵火をもって攻め来たらば水を以って防ぐ。敵を打込ますべく誘った時は水が始終自分の肉身を囲んで水と共に動く。(中略) 天地の呼吸に合し声と心と拍子が一致して言魂となり一つの武器となって飛び出すことが肝要で、之を更に肉体と統一する。声と肉体と心の統一が出来て始めて技が成り立つのである。霊体の統一が出来て偉大な力を猶更に練り固め磨き上げて行くのが武術の稽古である。斯くして行くと剣で切るべく仕向けることが分り、又世の中の武術の大気魂がその稽古場所及び心身に及んで練れば練るほど武の気魂が集まりて大きな武術の太柱が出来る。柳生十兵衛も塚原卜伝もあらゆる古の達人名人の魂が全部集まり来たり、又武術の気も神のめぐみによって全部集まり来るの理を知り稽古に精魂を尽くすべし。

【道歌】

   無明とは誰やの人か夕月の いつるも入るも知る人そなし 

   ありがたやいづとみづとの合氣十 雄々敷進め瑞の御聲に

【意訳】

   無明とは煩悩である。夕方出た月は夜にはもう沈んでしまうので薄暗く、その夕月がいつ出ていつ沈むのか誰も知らない。

   何と有難いことだろう。厳の御魂と瑞の御魂の水火の結びに、合気の道を勇ましく進めと神産巣日神の声を聴く。

 植芝盛平翁は柳生厳周の高弟、下條小三郎から柳生新陰流を学ばれたと聞く。が、それに先立つ大正11年に、武田惣角師から兵法家伝書の「進履橋」一巻を伝授されたともいう。武田惣角といえば小野派一刀流の免許皆伝のはずだが、柳生新陰流は定かではない。ともあれ植芝盛平翁の記述にある間合いの「水月」という美しい言葉と、道歌にある火水の結びの「十」の文字は新陰流の手字種利剣か。そして柳生十兵衛の名に感じるところあり、ここに柳生十兵衛の「月之抄」を紐解く。

 柳生十兵衛三厳(1607〜1650)は柳生但馬守宗矩の嫡男。十兵衛は10歳で初登城、13歳で将軍家光の近習となっているが、20歳の時に突然、家光の勘気を受けて職を解かれる。その後の空白期間を経て、柳生庄に籠もり兵法書の執筆に専心したという。その後、鷹狩りの途中に44歳で突然死する。また十兵衛は隻眼であったともいわれるが、当時の古文書などの史料に十兵衛が隻眼であったという記述は無く、肖像画も両眼が描かれている。十兵衛の代表作である「月之抄」は、祖父石舟斎と父宗矩の教えを比較検討し、独自の見解と工夫を著している。

 『月之抄』  柳生十兵衛三厳

【原文】

   尋行道のあるしやよるの杖 つくこそいらね月のいつれば

 よって此書を月の抄と名付ル也。ここに至テみれは、老父のいはれし一言、今許尊感心不レ浅也。如レ此云ハ、我自由自在を得身に似り。サニハあらす。月としらは、やみにそ月はおもふへし。一首

   月よゝしよゝしと人のつけくれと またいてやらぬ山影のいほ

【抄訳】

   尋ね行く道のあるしや夜の杖 つくこそいらね月の出れば

よって、この書を月之抄と名付ける。ここに至ってみると、父宗矩の言った一言、今こそ感心浅からずなり。しかし、こんな風に言うのは、自分が自由自在を得たと思っているようだからだ。そうではない。月と知ったなら、闇の中にこそ月を思うものだ。一首

   月よゝしよゝしと人のつけくれど まだ出でやらぬ山影の庵

【原文】

 十字手利見之事
 十字也、古語ニ曰く、心は万鏡に隋て転ず、転ずる処実に能く幽なり (中略) 手裏見は手の内也

【抄訳】

 十字手利見の事
 十字である。古語に曰く「心随万境転 転処実能幽」。心は万境に随って転変し、転ずるところは実によく幽玄である。 (中略) 手裏見は手の内の事である。

 更に十兵衛は「種字は、敵の太刀打処を十字になるをゆふ也」と記し、手字種利剣「シュジシュリケン」を「手字手利剣」「手字手利見」「手裏剣」「手裏見」と書いている。十字は、敵の太刀が斬って来るところを十字になるのをいうのである。文字に注意すること。十字という教えの心持ちは、九字の大事「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」といって、真言宗の秘法にある。この九字に一つ足して十字なのである。横五つに、縦五つで十字である。十「とう」は十の字で、十である。それ故、十字なのである。十文字にさえ有れば、敵の攻撃は自分に当たらない。手裏見は手の内の事である。字の裏にその心が隠されている。

 柳生新陰流に十文字勝がある。これは肋「あばら」一寸、転勝「まろばしがち」と称され、自分の中心線である人中路を斬るように真直に斬る技法である。この転勝の論理を、伝書に「左右ノ横二打、或ハ左右ハスニ打、或左右下ヨリ弾ルトモ、吾レハ只中筋ヲ打テバ皆米如ク此十文字二成テ敵ノ拳二勝テル也」と記す。敵が左右横から払うように斬ってくる。或いは左右斜に袈裟に斬ってくる。または左右下から弾ねてきても、われは斬り出す敵の拳をしっかり観て、敵の太刀の拍子に合わせて、敵と正対してわが人中路を一拍子に斬り下せば、必ず彼我の太刀が十文字に交わり、わが太刀が上太刀となり敵の拳を斬り落として勝つことができる。敵が横や斜めから斬れば、「米」の記号のようにその中心である点に帰結し、技法としてその中心の点にあたる拳に勝てるというものである。
 もし敵が真直ぐに人中路を斬り込んできた場合は、われも人中路をはずさずに僅かの時間差をとり敵の太刀の上に乗って合撃打ちに勝つ。またはわれは少し左、右に身を替わり、順、逆勢の斜斬りに敵の柄中へ勝てば、十文字勝となる。即ち、合撃打ちは、敵が真直に斬るのに対して、同様に人中路を斬って真直に斬り降ろす技であるが、この論理の根底に、真直斬りがさらに角度を持ち斜斬りになっても、同様に人中路を斬れば敵の拳に勝てるという理がある。転「まろばし」である。

薩長同盟

2018年09月09日 | Weblog
                                             薩摩藩家老 小松帯刀

 薩長同盟

 慶応2年(1866)1月21日、小松帯刀邸「御花畑屋敷」で、坂本龍馬の立会いのもと、薩摩藩の小松帯刀、西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)と、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)との間で締結された盟約。
 
 御花畑屋敷跡 石碑  京都市上京区森之木町(鞍馬口通烏丸西入る)  総面積約1800坪

   (正面)  近衛家別邸 御花畑御屋敷跡
   (右側面)  薩長同盟所縁之地
   (左側面)  小松帯刀寓居跡 

 薩長同盟条文

一、戦と相成候時は直様二千余の兵を急速差登し、只今在京之兵と合し
   浪華へも千程は差置、京坂両所相固め候事

一、戦自然も我勝利と相成候気鋒相見候とも、其節朝廷へ申上、屹度
   尽力之次第有之候との事

一、万一戦敗色に相成候とも一年や半年に決て壊滅致候と申事は無之事
   に付、其間には必尽力之次第屹度有之候との事

一、是なりにて幕府東帰せし時はきつ度朝廷へ申上、直様寃罪は従朝廷
   御免に相成候都合に屹度尽力の事

一、兵士をも上国の上、(一)橋、会(津)、桑(名)等も如只今次第にて
   勿体なくも朝廷を擁し奉り正義に抗し、周旋尽力の道を相遮り候時
   は終に及決戦候外無之との事

一、寃罪も御免之上は、双方誠心を以て相合、皇国之御為に砕身尽力仕
   候事は不及申、いづれの道にしても今日より双方皇国之御為皇威
   相輝き御回復に立ち至り候を目途に誠心を尽して尽力可致との事

 1月23日に、桂小五郎が坂本龍馬に対して同盟の裏書を依頼している書簡がある。

 坂本龍馬朱筆裏書 二月五日付 (宮内庁所蔵)

表に御記被成候六条は小(松)、西(郷)両氏及老兄龍(馬)等も
御同席にて談論せし所にて毛も相違是無之候
後来といへとも決して変り候事これ無きは、神明の知る所に御座候

十月の武産会   NPO AIKIDO KYOTO

2018年09月04日 | Weblog
 武産合気研究所

 10月7日(日)  武産道場

 10月14日(日)  武道センター

 ※詳しくは案内はがきをご覧ください。

明治維新と京のまち

2018年09月02日 | Weblog
                                                  仁風一覧

 明治維新と京のまち

 幕末、度重なる飢饉などで武士社会の行き詰まりを肌で感じていた町衆たちの復興への取り組みは、やがて維新へと突き進むこととなる。明治維新によって、千年以上続いた「都」としての地位から一転して「一都市」へと転落した京都は、旧来からのあらゆる特権の剥奪や身分集団の解体に直面する。都市復興を目指した当時の京都の実像に迫る。 (『明治維新と京のまち』同志社大学教授・小林丈広講演録)

   享保年間(1716~1736)の飢饉
   天保年間(1832~1845)の飢饉
   嘉永年間(1848~1855)の飢饉
   慶応年間(1865~1868)の飢饉 

 天保の大飢饉は江戸時代後期、天保年間(1832~1845)に起きた大飢饉である。
 京都生まれの儒学者、猪飼敬所(いかい けいしょ)は記す。(部分)
   今年(天保5年)江戸にも京にも餓死なきにあらず、京には米価高値にて家普請少なく、日雇之者業を失ひ、西陣織物少く、其下
   職の失業乞児と成者あり、夫婦離散する者あり
   諸侯は国人を我民とせらるゝ故に、仙台などの飢饉の国も恵下に及ふ、江戸京なとは、郡県の吏と同しく如此に行届かさる事あり
   江戸は将軍之御膝下故に、去年も今年も上より御救米出つ、是は上意に出るなるへし、是を我民と思召さるゝ故也、京は御救米不
   出、此は吏たる人、其民あらされはなり
   農民は麦熟すれは食あり、又雑物にても食し、飢餓に及はす、市民之失業者、飢餓に至る、此京江戸繁華の地に餓民ある処なり、
   平日に無頼之者を容れ置候、其困窮不可不救
   我土に住せは皆民なり、民とせぬ心なれは、初より沙汰して容ましきなり
 因みに、江戸は武士の人口が50%を占める。京都は武士の人口が1.5%未満、大坂は武士の人口が2%である。

 天保の大飢饉における町衆の対応を、平松楽斎は記す。
   町中より窮民ヲ救候て不申出候方勝手宜也、然レトモ是にて窮民去冬ハ飢餓ニ不及、富民より施行も方々ニ有之候

 「仁風一覧」は、救済のために金穀を拠出した有力商人や寺院、町などを網羅した記録である。
   史料:享保の飢饉の「仁風一覧」
       嘉永の飢饉の「仁風扇」
       慶応の飢饉の「仁風集覧」

 仁風集覧にみる有志名前書(部分)
   白米三拾五石  蛸薬師小川西入 池田屋長兵衛(両替商)
   玄米拾五石  姉小路寺町西入  香具屋久右近衛門(香商「鳩居堂」) 
   白米五拾石組合  本銭屋年寄 井筒屋長右衛門(両替商)
   銀百貫目  三井一統(両替商)
   銀三拾貫目  嶋田八郎右衛門(貿易商)
   銀三拾貫目  小野善助(生糸貿易、両替商)
   銀三拾貫目  大文字屋正太郎(大丸呉服店)
   他、銀二貫目として寺町竹屋町上るに大垣屋清八(口入れ屋)の名がある。  

 元治元年(1864)蛤御門の変は、京都の中心部を焼き尽くす。北は丸太町通から南の七条通まで、東は鴨川から西の堀川まで、「京のどんどん焼け」という。 
 明治維新の京都は、人口が2/3に減少し都市衰退の危機に陥った。

 衰退した京都を救うべく立ち上がった町衆たちの復興への軌跡。
   鳩居堂(香商)の熊谷直孝  上京二十七番組大年寄 
   大黒屋(呉服商)の杉浦利貞  京都府上京区長
   福嶋屋(木綿問屋)の竹村藤兵衛  京都府下京区長

 木戸孝允の日記
   同日 晴、杉孫七郎来話、共に今戸の奥蘭田に趣けり、当日於西京鳩居堂(空白)の為に円山に此催あり、今日の展観も蘭田相応
   して鳩居堂(空白)為に設るものなり、余も鳩居堂(空白)は西京一知子己、(空白)の写真と明人の山水を臨せしもの一幅を掛
   けり、一見覚えず惨然たり、展観中可観ものは(空白)

 明治元年(1868)  京都御所で明治天皇の即位の礼が執り行われる。
 明治2年(1869)  番組小学校が創設され、日本初の小学校(柳池小学校、現在の御池中学校)が開設される。
              因みに、柳池小学校の土地は熊谷直孝(鳩居堂)が寄付したものだという。
 明治4年(1871)  日本初の博覧会が西本願寺で開催される。
             廃藩置県。
 明治5年(1872)  新京極通が開通する。
 明治23年(1890)  琵琶湖疏水が完成する。
 明治24年(1891)  日本初の事業用水力発電所「蹴上発電所」の運転開始。
 明治28年(1895)  日本初の路面電車が開業する。(後の京都市電)
              左京区岡崎で第四回・内国勧業博覧会が開催される。(京都市勧業館「みやこめっせ」)
 明治31年(1898)  京都市役所が開庁する。
 明治37年(1904)  第二代京都市長に西郷菊次郎(西郷隆盛の長男)が就任する。在任期間は約7年間に及び、京都百年の大計として、
              琵琶湖疏水の第二疏水(全線トンネルで第一疏水の北側を並行する)建設、電気軌道(市電)敷設、上下水道整備
              の京都三大事業を推し進め、町衆とともに都市基盤整備に貢献した。

 昭和4年(1929)  区の再編により、鞍馬口通より二条通までを上京区、二条通から七条通までを下京区としていた区割りが、丸太町通
              から二条通までの旧上京区の一部と、二条通から四条通までの旧下京区の一部が、中京区となる。

鈴鹿野風呂の俳句

2018年08月16日 | Weblog
                                      風薫る左文右武の学舎跡     岡崎・旧武徳殿

 鈴鹿野風呂先生の『京の句碑めぐり』

 貴椿咲きそめてより春日遅々     鹿ヶ谷・法然院

 さにづらふ紅葉の雨の詩仙堂     洛北・詩仙堂

 嵯峨の蟲いにしへ人になりて聞く     嵯峨・大覚寺
 
 萬両の庭いくとせの日はめぐる     吉田・神麓居

 神岡に鳴く鶯の藤たけて     吉田山

 宝永元年九月の露の慈かりけむ     岡崎・真如堂

 鶯や今日の本尊にこやかに     鹿ヶ谷・法然院

 今年竹まこと真みどり光琳忌      西陣・善光院

 梅早し遠ひびきして神の鈴     北野・西雲寺

 眞開きの龍胆玉の如き晴     梅ヶ畑・平岡八幡宮

 春風に五百羅漢のとはれ皃     深草・石峰寺

田中新兵衛の佩刀

2018年08月11日 | Weblog
                                              薩摩の田中新兵衛

 幕末の京都で『人斬り新兵衛』と呼ばれた薩摩の田中新兵衛。島田左近を斬った刀はニ尺三寸(約69.7㎝)の奥和泉守忠重。刀身は、直刃で身幅広く、反りも深く、重ねも厚く重量感にあふれる。鮫革の柄で鉄の柄頭、鞘は黒の薩摩拵えである。

吉村右京生年二十一歳、彼姉小路方江奪取候刀を以て、京師中之刀屋を最寄江呼寄候処、何れも薩州作り之由申出、其中に竹屋町烏丸東江入町刀屋見覚え有之由にて聢とは覚え不申候得共、薩州之藩士田中新兵衛方より拵に参り候事有之哉に存候旨申に寄、薩州屋敷江御疑念懸り段々御詮議有之、右探索之儀会津家江厳重に被仰付候由

 吉村右京当時二十一歳。彼は京都中の刀屋を呼び寄せ、奪い取った刀を見せたところ、刀屋たちはいずれも薩摩の拵えだと申し出た。その中の竹屋町烏丸東入るの刀屋が、この刀に見覚えがあったようで、はっきりとは覚えていないがこれは薩摩藩士の田中新兵衛様より私共の店に持ち込まれた刀の拵えと似ているようだと証言した。これにより薩摩藩邸に疑惑の目が向き、段々と怪しまれるようになり、その探索を厳重にするよう会津家へ仰せ付けられた。

 文久三年(1863)、田中新兵衛は姉小路公知殺害の疑いで京都町奉行に捕縛拘留された。取り調べ中、新兵衛は隙を見て自刃「切腹」して果てる。享年24歳。

河上彦斎の佩刀

2018年07月29日 | Weblog
                                               肥後の河上彦斎

 幕末の京都で『人斬り彦斎』と呼ばれた肥後の河上彦斎。身長は五尺ほど(約150cm)の小男だったという。佐久間象山を斬った刀は無銘の古刀である。

 象山先生遭難之碑 (京都市中京区木屋町通御池上る西側)
 嘉永以後外舶叩關 国論沸騰挙主鎖攘 当是時佐久間象山 先生以絶特之識独 排群議而唱開国竟 以此取禍実元治元 年七月十一日也後 五十餘年有志胥謀 立石以表其終焉之 地距此正東五十二 尺乃先生遭難処

 碑文 : 嘉永以後(ぺりー来航以降)、外国船がやってきて開国を迫り、国論は二分したが、鎖国攘夷の論を唱える者が主であった。この時に佐久間象山先生は高い識見により攘夷論を排し開国を唱え、ついに暗殺されるに至った。元治元年(1864)7月11日のことである。50年後、有志によって石碑を建立し、終焉の地を記念するものである。この碑の場所から東へ五十二尺(約15m)が先生の暗殺された現場である。

 河上彦斎は明治4年、斬罪の判決を受け斬首された。享年38歳。

 辞世の句

 君が為め死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらん

岡田以蔵の佩刀

2018年07月24日 | Weblog
                                              土佐の岡田以蔵

 幕末の京都で『人斬り以蔵』と呼ばれた土佐の岡田以蔵。本間精一郎を斬った刀はニ尺三寸(約69.7㎝)の肥前忠広。刀身は姿よく中直刃の肥前肌で、朱鞘に紺糸の柄巻、鍔は薄鉄の土佐拵えである。

 文久三年の三月に家茂公がご上洛なさるについて、その頃京都は実に物騒で、いやしくも多少議論のある人はことごとくここへ集まっていたのだから、将軍もなかなか厳重に警戒しておられた。このときおれ(勝海舟)も船でもって上京したけれど、宿屋がどこもかしこも詰まっているので、しかたなしにその夜は市中を歩いていたら、ちょうど寺町通りで三人の壮士がいきなりおれの前に現れて、ものもいわず切りつけた。驚いておれは後へ避けたところが、おれの側にいた土州の岡田以蔵がにわかに長刀を引き抜いて、一人の壮士を真っ二つに斬った。「弱虫どもが、何をするか」と一喝したので、後の二人はその勢いに辟易して、どこともなく逃げていった。おれもやっとのことで虎の口を逃れたが、なにぶん岡田の早業には感心したよ。
 後日、おれは岡田に向かって、君は人を殺すことを嗜んではいけない。先日のような挙動は改めたがよかろうと忠告したら、先生、それでもあのとき私がいなかったら、先生の首は既に飛んでしまっていましょうと言ったが、これにはおれも一言もなかったよ。 (勝海舟『氷川清話』)

 岡田以蔵は慶応元年(1865)、土佐藩に捕縛され、斬首のうえ梟首となる。享年28歳。
 
 辞世の句

 君がため尽くす心は水の泡消えにし後は澄み渡る空

中村半次郎の佩刀(2)

2018年07月17日 | Weblog
                                                 故正五位 桐野利秋
                                                   Kirino