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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

熱田神宮と草薙神剣

2009年01月25日 | Weblog
 名古屋市のほぼ中央に樹齢千年の巨木が生い繁る熱田の森がある。
 熱田神宮は三種の神器の一つ、日本武尊(やまとたけるのみこと)の草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御神体として祀る。まず鳥居で一礼、手水舎で身を清め、熱田の主が宿るという注連縄が張られた大楠を拝む。そして拝殿へと進みお垣内の本殿をお参りした。
 素盞鳴尊(すさのおのみこと)は、八俣の大蛇(やまたのおろち)退治の際に、八俣の大蛇の尾の中から草薙剣を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その草薙剣を天孫降臨の際に迩迩芸命(ににぎのみこと)に授ける。
 第十二代景行天皇の時代、日本武尊は草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命(みやすひめのみこと)のもとに預けた。日本武尊が三重の能褒野(のぼの)で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定めて、草薙剣を祀った。
 熱田神宮所蔵の「熱田本 日本書紀」の巻第三には、熊野の地で東征がはかどらない神武天皇を心配された天照大神が、八咫烏(やたがらす)を遣わして道案内をさせたという記述があるという。
 宝物館では新春特別展が催されていた。古墳時代の埴輪「 鶏 」(高さ54.0㌢)は、羽を納め、胸を堂々と張った姿の雄鶏を表現したものと思われる。埴輪全体、器台に至るまで線描を施し、鶏冠(とさか)と肉垂れは赤系の顔料で着色している。
 熱田神宮所蔵の写本「古事記」、武甕槌神(たけみかづちのかみ)の「鹿島立神影図」、源氏ゆかりの「八幡大菩薩旗」、熱田神宮所蔵「鳥獣家文鏡」の展示品は見ごたえがあった。 

              熊野に一度、伊勢三度、近江の多賀には月参り 

 合気道開祖植芝盛平が生涯に六十余度訪れたというスサノオを祀る紀州の熊野本宮大社、そしてイザナギ・イザナミを祀る近江彦根の多賀大社と参拝してきた。
 今年はアマテラスを祀る伊勢神宮と、開祖が祀られた合気神社の筆頭神のサルタヒコ、五十鈴川上流の猿田彦神社を参拝したい。

写真:熱田神宮本殿

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田中万川伝(3)

2009年01月22日 | Weblog
 その後大阪市の中ほどに道場が新しく出来た。エビス橋を渡ったところに阿部ビルがあり、そこの六階に道場があった。先の道場主田中万川が毎日、植芝盛平のお供でここの道場へ通っていた。市電はあるが自動車のないころである。先生のお供をしているが、とてもいっしょに歩くことが出来なかった、というのは群集の出盛っている繁華街を、まるで無人の境をゆくというふうで、ほとんど真直ぐに、非常に速いのである。見ていると全く普通に歩いているようだが、まるで飛んでいくみたいで、とてもついていけないといっていたが、古くからの門人が、みなこの体験をもっている。
 
 青年のころ、郷里の紀州で病気で難儀していた巡礼の親子を見て、その娘を背負って峻険な山道を二十里(80キロ)離れた医者のいる町まで連れていったこともあった。北海道の開拓当時、雪の振りつむ山道四十里(160キロ)を往復して歩くことが度々であった。盛平の超人ぶりは、そうした名ごりであろう。軍隊にいるときも、馬でゆく隊長の後に徒歩走行十里(40キロ)をついてゆくのは連隊中で彼一人で、ほかのものは皆落伍してしまったという。昔の忍者や駅伝の飛脚の中にも、一日に三、四十里をゆく者があったというから、目(ま)のあたりに見る盛平の歩きぶりでは、走るなれば五、六十里(200キロ以上)は走るのではないかという人もあった。

 またある時、伊勢の方へ先生が来るというので、多くの人が集まって待っていた。いよいよ切符を買って、ホームで電車に乗ろうとする時になって、
「俺(わし)はいくのはやめた」
 といって電車に乗ろうとしないのである。何が何だかわからないのでお供の田中は困ったが、こんなことは珍しくない。忍術を見せてくれといった田中は大阪ではいつもお供を承わっていたが、
「先生は急に気が変ることがあって困る」
 ともらしていた。その時もそうで、困った田中が、
「先方ではすっかり準備して待っていますから・・・・・」
 と、無理に電車へ乗ってもらって行ったが、途中先生の機嫌が直ったので助かったといっていた。

資料:砂泊兼基「合氣道開祖植芝盛平」講談社
写真:田中万川「合氣道神髄」/五狐の剣

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田中万川伝(2)

2009年01月12日 | Weblog
 当時植芝盛平は、大阪の警察署や憲兵隊などへ武道の指導にいっていた。そればかりでなく、幾ヵ所もの民間団体からも稽古を依頼されて廻っていたから多忙な時期である。

 そこの道場で、あるとき稽古の休憩中に、道場主である門人が、
「先生、昔から忍術というものがありますが、あんなことは出来るものですか」
 と聞いた。盛平は、
「忍術は昔からあるが、活動写真でやっているような、煙が出てドロンドロンと消えるあんなものではないよ」
 という。この道場は六十畳(330平方メートル)の広さで、道場と控えの間のあいだは、二階に上がる階段があるという造りである。

 先生は道場の真中に立って、十数人の門弟たちに木刀、棒、銃剣術の木銃などを持たして取囲まれている。先生は、
「みんないっしょに、突くなり打つなり、かかってくるんだ」
 というので、門弟たちは気を合わせて、
「ヤッ」
 とかけ声もろとも打ってかかった。その時、門弟たちは何か、
「ヒュー」
 という音か声を聞いたような気がしたが、見るとそこには、先生の影も姿も見えなかった。ウロウロしていると、
「ここだ、ここだ」
 と声があった。声の方をふり向くと、二階へ上る階段の途中に腰かけた先生の顔があった。道場の真中からそこまでは三間から三間半(6、7メートル)の距離がある。道場の階段付近の途中に、門弟たちが十人ばかり休憩していて、
「君たちは、先生がここを通るのを知らなかったのか」
 と、他の門弟たちに聞かれたが、誰も知らないという。
「忍術て、こんなもんや」
 と、先生が笑っていった。

 またその後、この道場に地方の名士などおおぜい見に来ているときに、その人たちにも先の忍術の一件を見てもらおうと思って、道場の主人が、
「先生、忍術をやってくれませんか」
 とねだると、温厚な盛平が顔色をかえて、
「お前たちは俺(わし)を殺す気か」
 といった。門人たちは驚いてわけを聞くと、
「あんなことをしていると、五年も十年も寿命をちぢめるのじゃ」
 といって、ものすごく怒られたという。

 この町の道場主の名は田中万川(本名、伊三郎)である。

資料:砂泊兼基「合氣道開祖植芝盛平」講談社
写真:田中万川「合氣道神髄」/真空の気

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田中万川伝(1)

2009年01月06日 | Weblog
 昭和13、4年といえば、植芝盛平がすでに合気道の一派をなして、武道家の間には、その名と実力を認められていたころである。

 ある日、盛平が門弟の一人を連れて京阪間の吹田の旅館に宿泊したことがある。そこへ合気道の盛平のことを多少聞き知っていた人が訪ねてきた。概してこういう人は、多少武道に心得があり、幾分ひやかしの気分も手伝っていたのかも知れない。宿の一室へ招じられると、客は、
「先生、いったい合気道とはどんなものですか」
 と聞いた。盛平は、
「あなた、ちょっとここを持ってみなさい」
 というので、客は腕か胸をとりにいった。途端に一間半ぐらい(2、3メートル)投げとばされた。二度投げられて、(これは全く柔道とは違っている)と思い、ていねいに入門を乞うた。盛平が快く入門を許すと喜んだ客は、早速大阪の自宅の近くに道場をつくった。といっても当時は、いくらでも空家のあった時代だから、空いていた撞球場を入手して道場に改造したのである。そして月に二度ほど先生に出稽古をしてもらった。先生の見えない日は、門人に代稽古をつけてもらった。

 先生が見える日には、いつも近くの浴場にたのんで、誰も入浴しない前に、まっ先に先生に入浴してもらったという。そして先生が入浴するときは、いっしょについて行って、背中を流すのが、この道場主の仕事の一つであった。先生のからだには何十となく瘤(こぶ)があって、背中を手拭でこすると、コトコトと音がした。それがいったんからだを柔らかくすると、先ほどの無数の瘤はたちまちなくなってしまったと不思議がっていた。
「俺(わし)のからだは洗いにくいだろう」
 と盛平が笑っていたという。

資料:砂泊兼基「合氣道開祖植芝盛平」講談社
写真:田中万川「合氣道神髄」

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「道」と人間形成(3)

2009年01月03日 | Weblog
 西洋の近代的世界観の根底には、思惟する精神と延長する物質とを全く独立した二つの実体とするデカルト的二元論が存在する。
 東洋的人間観は一言にして「心身一如」なる言葉によって集約的に表現されている。確かに、西洋の人間観が身体と精神とを分析的に截然(せつぜん)と区別し、身体論か精神論のいずれかの立場から議論される傾向が強いのに比し、身体と精神とを一体不可分のものとして捉えるところに特色がある、といってよい。神(仏)、人間、動物、自然を連続的に捉える横系列の世界観によるのであろう。「心身一如」なる思想が広く行われ、これが、ひいては、自己の身体の「形」を整え、その動きを正すことによって「心」のあり方を正していくという考え方を生じた。

 人間の身体の行為や運動にもとずく「型」に限定し、その型を成立させる最低の条件は身体と精神の活動であるが、いわゆる家学や宮廷儀礼、仏教の修法などをその契機として、中世芸能の能楽において「わざ」という観念が自覚化され、心、技、体を三要素とする「形の形」としての「型」が成立した。
 そして、文武の芸の型を、「身体のふるまいが空間に描き出す美しい形としての狭義の型」と「その型を稽古に通じて時間の経過の中で自己の身につけてゆく型」とに分け、この二つのジャンルから、文の芸の側面では世阿弥の能楽の理論を、武の芸に関しては剣法論と、それら相互に交流や構造的同一性があるとの論歩を進める。

 稽古の過程において、文の芸であろうと、武の芸であろうと、心身の関係、身体の諸部分の関係は逆対応のそれであって、次の段階に入ると技が中心となり、技が高度になるほどに心的要素の比重が高く、技の修練が深まった場合、心法の修練に努めて究極的には自己からの開放を得て無心の世界に入り、一たびその世界に至ると現実のありのままの平常底に還帰し、自己は自然の自己に帰って心、技、体はすべて統一され、自己は自己を忘れて人間存在としての自由性を獲得するのであって、「心身一如」とはこの時点のことをいう。
 
 源了圓論文「近代日本における武道の普遍化の二つの型 ー 阿波研造と嘉納治五郎をめぐって」は、弓道と柔道というジャンルを異にする、武の道を徹底的に極めて普遍性を得た阿波と嘉納の二人を対照させ、両者とも伝統に深く関わりつつその関わり方の方向が異なるのであって、阿波は「心」のもつ普遍性を得、嘉納は近代合理性のもつ普遍性を獲得したのであり、日本文化の普遍化のあり方の二つの典型を示す、と説く。
 ドイツ人のオイゲン・ヘリゲルが弓道師範阿波研造を描いた「弓と禅」の本がある。

 伝統とは再体験さるべき歴史的、社会的な「型」なのである。習慣は、われわれが、無自覚で怠情であるとき、最大の力を発揮する。しかしながら、伝統の力が最大となるのは、伝統を回復しようとするわれわれの自覚と努力においてである。
 歴史のなかには埋もれるべくして埋もれているものが多い。しかし、日本人をして精神性に富んだ高貴な民族たらしめてきた伝統たる「型」は、もとより単なる過去の遺物として葬り去られるようなことがあってはならない。

資料:竹内明講義録「道と人間形成」/源了圓 「型」、「型と日本文化」
写真:オイゲン・ヘリゲル「弓と禅」福村出版

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