武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

京都と俳句  夏目漱石

2021年11月23日 | Weblog

                              木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに

                                春の川を隔てゝ男女哉   漱石

 京都と俳句  夏目漱石

 夏目漱石の句碑が鴨川の御池大橋西詰に建つ。駒札に、漱石は生涯、四度にわたって京都を訪れたとある。最初は明治25年(1892)7月、友人で俳人の正岡子規とともに。二度目は明治40年(1907)の春、入社した朝日新聞に『虞美人草』を連載するためで、三度目は2年後の秋、中国東北部への旅の帰路であり、4度目は大正4年(1915)の春、随筆『硝子戸の中』を書き上げた直後であった。
 このとき、漱石は、画家の津田青楓のすすめで木屋町御池の旅館「北大嘉」に宿泊する。祇園の「大友」の女将・磯田多佳女と交友をもつが、ある日、二人の間に小さな行き違いが起こる。漱石は、木屋町の宿から鴨川を隔てた祇園の多佳女を遠く思いながら句を詠んだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都と俳句  与謝蕪村

2021年11月14日 | Weblog

 京都と俳句  与謝蕪村

 洛中に住んだ与謝蕪村は京の俳人。江戸時代を代表する俳人、芭蕉、蕪村、一茶のうち、蕪村の句は最も都会的である。
 蕪村の母の生家は京都府「与謝」郡加悦町。大阪の「天王寺」は蕪の名産地。そして幼い頃に淀川の堤防で遊んだという「毛馬」と、蕪村の出生地は定かでない。明和5年(1768)、53歳のときに四国の讃岐より京都に入る。
 蕪村は絵画と俳句に秀でたが、俳句においては晩熟の俳人である。蕪村は三菓社句会を開いた。それは連句の会ではなく、発句を独立させた席題の会であり、現在の句会の原形となる。

     大名に酒の友あり年忘れ     太祇      

 太祇(たいぎ)は40歳代にして江戸から京に移る。初めは大徳寺に入るが、遊郭の島原に不夜庵をむすび、遊女たちに俳句や手習いを教えた。蕪村も太祇とともに島原で遊んだという。

 蕪村の俳句を評価した人々。
 正岡子規は蕪村の句に絵画的な側面をみる。

     稲妻や浪もてゆえる秋津島 
     さみだれや大河を前に家二軒 

 郷愁の詩人、萩原朔太郎は蕪村の句に魂の故郷をみる。

     凧きのふの空の有り所 
     花茨故郷の路に似たるかな
     愁ひつつ岡にのぼれば花いばら

 京都造形芸術大学の学長を務めた芳賀徹は、蕪村を居籠りの詩人と評する。

     いねぶりて我にかくれん冬籠

 そして日野草城が好んだ句。

     御手打の夫婦なりしを衣更  

 与謝蕪村の邸宅跡(終焉の地)は、京都市下京区仏光寺烏丸西入ルにある。没年は天明3年(1783)、68歳である。 (坪内稔典講義録「京都と俳句」)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都と俳句  松尾芭蕉

2021年11月07日 | Weblog

 京都と俳句  松尾芭蕉

 松尾芭蕉は奥の細道の翌年から、嵯峨野の落柿舎や、大津の幻住庵に滞在している。生涯妻を娶らず、女遊びはせず、酒を嗜むことのなかった芭蕉は貧しさに理想を求めた俳人であった。

       都あたりに年を迎へて
     菰を着て誰人います春の花

       望湖水惜春
     行く春を近江の人と惜しみける

       勢田に泊まりて 暁石山寺に詣で かの源氏の間を見て
     曙はまだ紫にほととぎす

       勢田の蛍見
     京にても京なつかしやほととぎす

          幻住庵の記     元禄三年四月六日~同年七月二十三日
 かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隠さむとにはあらず。やや病身、人に倦んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙き身の科を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。「楽天は五臓の神を破り、老杜は痩せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻の住みかならずや」と、思ひ捨てて臥しぬ。

     先ず頼む椎の木も有り夏木立

 芭蕉は「幻住庵」の名に掛けて「幻の住みか」といった。閑静を好み、人を嫌い、世を嫌い、ついに無能無才にして俳諧の一筋につながると。白楽天は詩作の苦労で五臓の気力を損傷し、杜甫は詩作の苦労で痩せ果ててしまった。白楽天、杜甫の賢文なのに較べ自分は愚質であると断念して、臥せる。
 芭蕉は向井去来の草庵、落柿舎で『嵯峨日記』を記す。そして51歳を迎え、九州を目指して旅に出るが、大坂で病に罹り花屋仁左衛門方でその生涯を閉じた。遺言により、遺骨は近江粟津の湖畔にある義仲寺に葬られる。 (坪内稔典講義録「京都と俳句」)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都と俳句  松永貞徳

2021年11月02日 | Weblog

 京都と俳句  松永貞徳

 俳諧発祥の地が京都であることは意外と知られていない。
 寛永6年(1629)に豊臣秀吉の祐筆を務めた松永貞徳が京の寺町二条(現在の京都市役所北庁舎)にあった妙満寺で俳諧の会を催したのが初めである。この時の式法が句会の基本となった。
 松永貞徳(1571~1653)は細川幽斎や九条植通などに学び、連歌、歌学、古典学など幅広い教養を身につけた。寛永5年(1628)に「俳諧式目歌十首」。「新増犬筑波集」「御傘」「天水抄」などの著書がある。
 古今集の世界、歌詞(うたことば)といわれる和歌の詞で詠む“雅”の連歌に比べ、俗語といわれる俳言(はいごん)で詠まれる“俗”の詩が俳諧である。

        花よりも団子やありて帰る雁

        さかぬ間の春は桜のはなし哉

        和歌に師匠なき鶯と蛙哉

 ある時、句会が終わり早々に帰ろうとする貞徳の前に家人が柿を盛った盆を差し出した。そこで貞徳は次のような即興の句を詠んだという。(余談)

        かきくけこ くはではいかで たちつてと

    (訳) 柿喰けこ 喰わでは如何で 発ちつてと

 その俳風は遊びの精神に満ちており、貞門派俳諧の祖として一大流派をなし、多くの逸材を輩出した。松永貞徳が江戸時代の初めに京都において俗語による詩の時代を築いたのである。俳句は貞徳によって京都で始まり、俳言の詩として俳諧をリードした。そして、俳句は松尾芭蕉や井原西鶴へと受け継がれていくのである。
 いま、妙満寺は洛北の岩倉にあり比叡山を借景にした枯山水の「雪の庭」が美しい。 (坪内稔典講義録「京都と俳句」)     


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする