武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

枯山水と池泉庭園の見方

2017年03月19日 | Weblog
 『庭園の美』 鑑賞形態と庭園の見え方について   京都工芸繊維大学講師・作庭家 重森千青氏講義録

 日本庭園には、大きく分類すると三つの様式があり、さらにその各々の様式を通しての庭園鑑賞がある。
 その鑑賞方法とは、建物を通しての鑑賞、庭園内に降りて回遊しながら楽しむ鑑賞、舟に乗りながらの鑑賞など様々な鑑賞形態がある。
 これらの鑑賞方法の中で、建物を通しての鑑賞は、ほぼ一定の場所にとどまって見る形態であり、動きの少ない「静」の鑑賞といえる。それとは逆に、回遊路から見たり、また舟に乗って見る鑑賞形態などは動きのある「動」の鑑賞である。このように庭園には「静と動」の鑑賞があって、これらを複雑に絡ませていくことで、庭園をより魅力的な鑑賞へと導いていくのである。
 さらに庭園には四季折々の変化、時間、天候や、鑑賞者の心情など、さらに複雑な要因が重なることによって美しい風情を見せてくれる。但し、これらの時間や天候などによる変化は、気が付かなければすぐに変化してしまう「一瞬の美」であり、このような瞬間的な美を発見したときの喜びはとても大きいものである。
 このように鑑賞形態や、庭園の見え方は千変万化することを意識しながら鑑賞する姿勢が大切であることを心得るべきである。

 枯山水庭園 
 水を用いないで山水の風景を象徴的に表現した、主として白砂と石組みによって構成された庭園「枯山水」は、基本は建物からの鑑賞だが、まれに園路からの鑑賞もある。
 大徳寺大仙院の庭園(写真)は、狭い空間に遠近法を用いて山水画の如き趣がある。
 慈照寺(銀閣寺)の砂盛り「向月台」の白川砂は、石英が月の光に反射してキラキラと光ってとても美しい。
 龍安寺の石庭。水を表現するのに、白砂に描かれる砂紋。陽の移りとともに変る砂紋の陰影は一瞬の美しさを醸しだす。とくに雪の降り始めの一瞬、砂紋の天辺に僅かに積もる雪は格別で、この瞬間に立ち会えた幸せを感じるであろう。
 四季折々の移ろいや、朝・昼・夕方・夜と時間による変化など、自然風景の美しさに想いを馳せて鑑賞してもらいたい。

 池泉庭園
 園路からの鑑賞、平橋や反橋からの鑑賞など、いずれも目線の高低差による変化がある。
 池に浮かべた舟からの眺めは、ゆっくりとした速度と、水面に浮いた浮遊感で、庭の意外性が発見できる。香川の栗林公園の舟遊びは最高である。
 建物からの鑑賞は一階からが一般的だが、二階からの鑑賞、また高床式の建物からの鑑賞もまた違った景色が楽しめる。
 鹿苑寺(金閣寺)は、建物と背後の稜線の調和が美しく、特に二階からの眺めは素晴らしいという。
 四季折々の変化や、時間による鑑賞は、虹の出たときの美しさや、月夜の美しさなど、違った風情が味わえるであろう。

 露地
 内露地、外露地を待合から鑑賞する。
 道すがらの鑑賞は、飛石や敷石、植えられている木々や石灯籠など。
 茶席においては、躙口からの一瞬の風情、下地窓からの光の案配、風炉先窓からの柔らかい光、突上窓からの明かりなどを鑑賞する。

 建物からの鑑賞は、庭園に至るまでの間に、いくつもの額縁が存在する。絵画のような感覚で庭園を鑑賞するとよい。また、遣水や池泉を渡廊から眺める。
 書院からの鑑賞は、障子越しの光や、障子を開けたときの鑑賞。また、雪見障子からの鑑賞は、上下が障子によって隠され、より小さな額縁となる。
 そして、付書院前の窓からの眺めや、畳の間の先にある縁側から庇を通して庭園を鑑賞する。

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鎌倉・室町時代の庭園

2017年03月14日 | Weblog
                                 『洛中洛外図』に描かれた二条殿

 鎌倉・室町時代の庭園『後鳥羽上皇と二条良基の二条殿』   資料:京都市考古資料館

 京都国際マンガミュージアムがある京都市中京区烏丸御池の旧龍池小学校跡地西側から、鎌倉時代に造営され、室町時代後期まで維持、整備された庭園が発掘された。この地周辺は、平安時代以降、皇族や貴族の邸宅が営まれ、平安時代中期には、後朱雀天皇の皇后である禎子内親王の邸宅、鎌倉時代には、後鳥羽上皇の御所・押小路殿があったと記録にのこされている。
 承久の乱で後鳥羽上皇が隠岐へ流された後、この地は藤原道家を経て二条良実のものとなり、それ以降、室町時代後期まで藤原氏二条家の本邸・二条殿として受け継がれた。二条殿は邸内の庭園が有名で『洛中洛外図』にその様子が描かれている。(写真)

 庭園の池は「龍躍池(りゅうやくいけ)」と名付けられ、調査地のある龍池学区の名称の由来となった。
 鎌倉時代になると地面を削って高さ約1㍍の段差が作られ、東側が高く西側が低い地形がつくり出されて整備される。段差の西側には礎石を用いた細長い建物が作られるが、この場所は平安時代中期の井戸底と比較して水が湧いていてもおかしくない深さなので、建物の間近まで池の汀(みぎわ)が寄せていたと考えられる。
 その後、段差の西側は整地が行なわれる。雨落溝をもつ別の建物が作られ、建物の東側と西側には一基ずつ庭石が据えられる。また、整地により池の汀は西へ移ったと考えられ、これにともなって溝や石組が作られた。

 室町時代になると、段差の西側に度々整地が行なわれ、庭園が整備された。室町時代前期の庭園は、池に小石を敷き詰めた緩やかに湾曲する洲浜が作られ、庭石を配置した美しい景観をつくり出す。池は南西側へ向かって調査地の外側へ拡がる。
 室町時代中期の庭園は、前期のものとほぼ同じだが、白砂のみで洲浜が作られ、庭石がない。また、東側の高まりには建物が作られる。建物は庭園にともなう施設であったと考えられる。
 室町時代後期の庭園は、小石と白砂をまばらに敷いた洲浜が作られ、庭石は高い方に一基、一段下がった低い方に二基が据られている。また、東側の建物も建て替えられる。

 二条殿の庭園は名園として知られており、整備の機会ごとに意匠を尽くした作庭が行なわれたのだろう。鎌倉時代に削られた段差は緩やかとなっていったが、東側の高まりと池の底とでは高低差が2㍍ほどもあり、立体的な造形がこの庭園の特徴だった。
 『洛中洛外図』に描かれた庭園は、時代の移り変わりの中で、風情の異なる巧みな造園を繰り返しながら維持されてきたことが、発掘調査で明らかになった。

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平安貴族の庭園(2)

2017年03月07日 | Weblog
                                       平等院(宇治市)

 平安貴族の庭園『白川上皇と鳥羽上皇』   京都市考古資料館館長 前田義明氏講演録

 平安時代後期。浄土庭園は、仏教の浄土信仰や末法思想に影響を受け、浄土系寺院の仏堂前面に展開する園池で、州浜など曲線の汀をもっている。その代表的な事例として、宇治の地にあって応仁の乱などの戦火を免れた平等院がある。

 天皇位を譲位して上皇「太上天皇」となり、出家して法皇となった院政期に、洛南の鳥羽の地に雄大な園池「鳥羽離宮庭園」を造った白川上皇と鳥羽上皇。場所は、平安京の朱雀大路を南へ延長した鳥羽作り道(旧千本通)を3㌔程南へ行った景勝地である。『扶桑略記』に、九条以南の鳥羽山荘に新しく後院を建てる、その面積は百余町あり、近習などに家土地が与えられ、さながら都遷りのようである。(中略)池を掘って山を築く、池の広さは南北八町、東西六町、水深は八尺余り、と記す。
 鳥羽離宮の造営期間は68年に及び、規模は東西1.2㌔、南北0.9㌔の大きさとなる。それぞれの御所には御堂が付属して、南殿、北殿、東殿、泉殿、田中殿があり、浄土庭園が造られた。

 南殿の発掘調査からは、景石や州浜などの庭園遺構を検出しているが、池の形状にしても未知な部分を多く残している。
 北殿の池の汀は州浜を形成し、汀と池底に景石を配して、島は掘り込み地業を施してさらに盛土をしている。 
 東殿は、南北約130㍍、東西約120㍍の大きさの池である。池の汀は穏やかなカーブを描き、勾配もなだらかで、池には中島を築いている。池は南北約70㍍、東西約40㍍で、北と南が岸につながる出島となっている。中島から西側の汀には、拳大の玉石を1㍍前後の幅で敷いて州浜を形成している。
 泉殿では庭園の一部を検出してはいるが、明確な遺構が検出されたとはいえない。
 田中殿の池は、東池、中央池、西池があり、滝組、州浜、荒磯、石組み、橋などの作庭技術がみられ、典型的な浄土庭園である。中央池は、他と比べて水深が浅く、景石が少量みられるももの形状も長方形を呈し、園池としては得意な形状で蓮池と考えられる。これらの池は人工的に掘削されたものだが、下層の状況をみるともともと自然流路があり、湧水が激しい場所に池を掘削したように思われ、自然の地形を利用して池を掘り築山を築いたのであろう。池水は上流から取り入れただけでなく、池の底からもかなりの湧水があったと推測される。

 『今鏡』にみる白川上皇と橘俊綱の庭園談義
 白河院、一におもしろき所は、いつこかあるとゝはせ給ひけれは、一にはいしたこそ侍れ。つきにはとおほせられけれは、高陽院そ候ふらんと申に、第三は鳥羽ありなんや、とおほせられけれは、とは殿は君のかくしなさせ給たれはこそ侍れ。地形眺望なといとなき所也。第三には俊綱かふしみや候ふらんとそ申されける。こと人ならはいと申にくきことなりかし。高陽院にはあらて、平等院と申ひともあり。(原文)
 橘俊綱は藤原頼通の次男で『作庭記』の作者と推定されている。俊綱が白河上皇に問われて、優れた庭園の第一は石田殿(大津にあり琵琶湖が見渡せる)で、第二は高陽院という。そこで白川上皇が、第三は鳥羽殿であろうと仰せらたが、俊綱は、鳥羽殿は地形の眺望がないからと、第三は俊綱の自邸の伏見邸( 巨椋池池が見渡せる)という。また二番は、高陽院ではなく平等院という人もいる。
 白川上皇は阿弥陀堂と園池が一体となった浄土庭園を良しとし、橘俊綱は庭園からの眺望の利く庭を良しとしたのであろう。因みに、鳥羽離宮は低地にあり眺望は利かないが、広々とした庭園と、東に稲荷山、西には西山の遠望が見渡せる。

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言 霊(3)

2017年03月01日 | Weblog
【道 歌】

                                 美しき此の天地の御姿は主の作りし一家なりけり

                                 うるわしき このあめつちの みすがたは ぬしのつくりし いっかなりけり

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