武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

豊臣秀吉の遺跡 京都

2014年07月31日 | Weblog
 祇園祭は7月1日の吉符入に始まり、31日の夏越祭まで、ひと月にわたる真夏の神事である。
 今年の祇園祭に大船鉾が蛤御門の変で焼失して以来150年ぶりに曳き鉾として後祭巡行に参加した。それに先立つ前祭の山鉾巡行の後に行われる神幸祭がある。八坂神社から神輿が出て、鴨川を渡り御旅所にやってくる。中世には神輿は四条橋を渡り御旅所に入っていたが。天正19年の秀吉の御土居造営では四条通の御土居には出入口がつくられなかった。出入口がなければ神輿は従来のように四条通を通れないのである。三条橋と五条橋は架けられていたので神輿は三条橋へ迂回していたものと思われる。四条橋が架けられたのは江戸時代になってからである。現在の神幸祭で、神輿は四条大橋を通らず、わざわざ三条大橋へ迂回しているのはその名残りであろうか。

★京都市考古資料館文化財講座『御土居の実像~近年の発掘調査成果から』

 天正13年(1585)、関白となった豊臣秀吉は大規模な造営事業を行う。天正14年(1586)に聚楽第、天正16年(1588)に方広寺、天正19年(1591)には御土居を造営する。
 御土居は土塁と堀によって京都の町を囲み、その範囲は北は鷹ヶ峰、南は東、東は鴨川、西は紙屋川に至り、延長距離は約23㎞に及ぶ。当時の記録によると、工事は天正19年の閏正月から始まり数ヶ月間でほぼ完了するという突貫工事で行われたようである。
 御土居の内側を洛中、外側を洛外という。御土居造営の目的には鴨川・紙屋川の治水、洛中の聚楽第を中心として外敵からの侵入を防ぐ、また古文書によると洛中からの盗賊の逃亡を防ぐ治安の維持とある。
 御土居の名称は江戸時代になって定着したもので、豊臣期には「惣堀」、「土居堀」と呼ばれていた。
 ルイス・フロイスが本国への通信のなかで秀吉の惣構について触れ、その築造理由を「己が名声を記念するために」築いたと記す。(イエズス会日本報告集)

 御土居の貴重な史料に、元禄15年(1702)作成『京都総曲輪(そうぐるわ)御土居絵図』(京都大学総合博物館蔵)がある。
 『京都総曲輪御土居絵図』は、寛文9年(1669)、江戸幕府が御土居の管理を角倉与一(すみのくら よいち)に委託したため、角倉家が維持・管理を行うため作成した絵図面である。
 平成25年(2013)、北野天満宮境内の御土居で整備を目的とした発掘調査が実施された。地上に残る御土居の初めての発掘調査である。
 主な調査成果として次の3点が挙げられる。
1、切石組暗渠を検出した。埋没して位置が不明であった東側の取水口を検出、露出していた排水口と合わせ、切石組暗渠の規模・構造が明らかになった。この暗渠は『京都総曲輪御土居絵図』に描かれた唯一の暗渠にあたる。切石組暗渠は北白川産の花崗岩製である。暗渠は土塁を盛り上げて構築した後に、これを掘り込み、石組みを設置して再び埋め戻している。暗渠の設置の年代を示す遺物は出土していないが、石を切り出す際に打ち込む鉄の矢の楔(くさび)を入れた矢穴の形状から安土桃山時代から江戸時代初期のものとみられる。
2、御土居は紙屋川東岸の段丘上に築かれていることが確認され、その規模や基底部から最上部までの構築方法が明らかになった。土塁の構築土は地山と同種であり、土塁の構築土はその周辺のものが利用されたと考えられる。
3、『京都総曲輪御土居絵図』に描かれる元禄14年(1701)に開削された切通しの道路を検出した。
 今回の調査によって、検出された遺構・絵図面・現地地形がそれぞれ『京都総曲輪御土居絵図』と合致することが確認され、その精度の高さが明らかとなった。

 御土居が築造された目的には諸説あるが、経済発展を重視した秀吉は、上京と下京の集合体であった京都から、一つの町の京都への改造を目指したのではないだろうか。 (京都市埋蔵文化財研究所 南孝雄)

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祇園祭 大船鉾復活

2014年07月22日 | Weblog
 大船鉾が蛤御門の変で焼失して以来150年ぶりに曳き鉾として後祭巡行に参加する。7月24日(木)。

 山鉾巡行ルート
 烏丸御池(午前9時30分出発) ⇒ 河原町御池 ⇒ 四条河原町 ⇒ 四条烏丸(午前11時頃到着)
 花傘巡行が寺町御池から合流する。(午前10時45分頃)

 山鉾巡行の順番
 ①船弁慶山 ②北観音山 ③八幡山 ④浄妙山 ⑤鈴鹿山 ⑥南観音山 ⑦鯉山 ⑧役行者山 ⑨黒主山 ⑩大船鉾

 後祭記念復興事業が開催される。
・祇園祭後祭十ヶ町ご利益めぐり
 21~23日の午後1時~9時。十ヶ町のご朱印を集めると復興記念の特製手ぬぐいをプレゼント。八幡山・鯉山の会所。
・親子で行く後祭山鉾めぐり
 小学生が対象。山鉾十基のスタンプを集めると復興記念のクリアファイルをプレゼント。室町蛸薬師の京都芸術センター。
・エコ屋台村
 21~23日の午後5時~10時。京都芸術センター、丸池藤井㈱(室町蛸薬師)、宮井㈱(室町六角)、山音㈱(三条室町)の四会場。

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柳原白蓮と宮崎龍介

2014年07月19日 | Weblog
 NHK連続テレビ小説「花子とアン」の葉山蓮子(仲間由紀恵)は実在の歌人・柳原白蓮をモデルにしている。

 白蓮と龍介の往復書簡

 淋しげに見ゆるあなたの魂の俤、 人間苦に悩むあなたの心臓の囁き、
 疲労したやうなあの体躯の歩み私には一つの憂が加はつたやうな気がします。
 アア心行くばかり泣いてみたい心臓の破れて了ふまで。  龍介

 貴方のお手紙にハともすれば私の魂を脅かすものがある。
 でなくてさえ微かなひびきにもをののきやすい私の魂を、
 どうぞもうこの上に脅かさないで下さいまし。  蓮


 こんなに一途に思ひ焦がれるやうには誰がしたのでせう。
 私にはこんなことは今迄にないこと、不思議な運命だとひとり存じています。  龍介

 私の今日までのことは何もかも貴方に言つてしまつた。もう何もありはしない。
 あなた決して他の女の唇には手もふれては下さるなよ。  蓮 


 貴方は私を裏切る事はしますまいね。人の情けと世の無情が悲しく辛い。
 どうぞ私を、私の魂をしつかり抱いてて下さいよ。
 覚悟してらつしやいまし。こんな恐ろしい女、もう嫌、嫌ですか。
 嫌なら嫌と、早く仰しやい。さあ何とです。お返事は。  蓮


 宮崎龍介「柳原白蓮との半世紀」
 私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人人よりはあき子の個性を理解し、援助してやることができたと思っています。波瀾にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだ、と思っています。 (『文藝春秋』昭和42年6月号)


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谷崎潤一郎の俳句

2014年07月15日 | Weblog
 谷崎潤一郎・耽美の世界~肉筆と稀覯本を中心に~展     奈良・帝塚山大学

 谷崎潤一郎の俳句

                                提灯にさはりて消ゆる春の雪

                                梅が香にめざしを干してゐたりけり     潤一郎

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本能寺の変の真実(2)

2014年07月12日 | Weblog
 『本能寺の変』直前の書状

 林原美術館(岡山市)と岡山県立博物館は、林原美術館所蔵の古文書の中に、天文4年(1535)~天正15年(1587)までの約50年間にいたる、47点(全3巻)の歴史的意義の高い文書群「石谷家文書(いしがいけもんじょ)」を確認したと発表した。

 この文書は、岡山市にある林原美術館が所蔵する「石谷家文書」と呼ばれる古文書群の中から見つかった。石谷家は明智光秀の重臣の斎藤利三と親戚関係にあり、林原美術館が岡山県立博物館と共同で調査したところ、斎藤利三と長宗我部元親が交わした書状などが含まれていることが分かった。
 本能寺の変の直前に、明智光秀の重臣と四国の戦国大名の長宗我部元親が、織田信長による四国統治などを巡って交わした書状などから、本能寺の変が起きた理由を探るうえで貴重な発見として研究者の注目を集めている。

 明智光秀の動機については「怨恨説」や「野望説」など複数あるが、今回の書状の発見で「四国説」が有力説となるのか。

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織田信長の遺跡 京都

2014年07月05日 | Weblog
★京都市考古資料館文化財講座『織田信長の遺跡』

1、序

 永禄11年(1568)に足利義昭を擁立して入京して以降、天正10年(1582)の本能寺の変まで、織田信長は頻繁に京都を訪れ、上京を焼き討ちするなど大きな影響を与えた。しかしながら、一貫して京都を政治的拠点とすることがなかったことから、思いのほか信長に関わる遺跡は残っていない。

2、旧二条城

 旧二条城は、織田信長が15代将軍足利義昭のために、足利義輝の御所跡を拡張して造営したものである。しかし義昭追放の後は、解体移築が進み廃墟となる。解体された資材は、築城中の近江の安土城へ運ばれた。因みに、「二条城」の名称は平安条坊二条に由来するものと考えられる。烏丸通丸太町の交差点の北方、現在の平安女学院付近に位置した。当時は「公方様御構」、「公方之御城」、「武家御城」と呼ばれていたようである。
 ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、二条城が僅か70日で完成したこと。城の面積は三街を占め、石材の不足を補うために石仏や石塔をも利用したこと。建設作業には1万5千人~2万5千人が従事したこと。吊り上げ橋のある濠をもつこと。この濠には3箇所の入口が設けられていたことなどが記されている。

 1569(永禄12)年  彼(信長)は吊り上げ橋がある非常に大きく美しい濠を造りその中に種々の多数の大小の鳥を入れた。彼はそこ(濠)に三つの広大でよくしつらえた入口を設け、その見張所と砦を築いた。そして内部には第二のより狭い濠があり、その後ろにははなはだ完全に作られた非常に美しく広い中庭があった。(「フロイス日本史 五畿内篇」中央公論社)

 昭和39年の地下鉄烏丸線敷設に伴う調査では、石垣を備えた濠跡が4ヶ所で見つかった。その石垣は、現在の二条城本丸御殿の西側と、京都御苑の南西角に移築されている。
 また平成24年の古代文化調査会の発掘調査により、南北方向の大規模な濠が発見された。位置的に見ると旧二条城の内郭の濠と考えられる。その規模は東西約230メートル、南北約160メートルで、発掘された濠は幅約5メートル、深さ約2.4メートル、犬走は約1.5メートルある。濠は空堀ではなく、水の痕跡がみられ木組みの跡がないので、石垣ではなく土塁だったろうと思われる。このあたりは昭和13年の鴨川改修工事により水脈が変わったが、当時は自然の湧水もあったと考えられる。また濠の最上層からは土師器皿、緑釉単弁四葉蓮華文軒丸瓦が、井戸からは平安時代の土師器皿、輸入白磁碗などが出土した。

3、二条新御所

 織田信長が、上洛の際の御座所とするために造営、資材は松永久秀の奈良の多聞城から運ばれた。
 二条新御所は元は摂関家の二条家の邸宅で、烏丸通御池の交差点の北西側、現在の京都国際マンガミュージアム付近に位置した。その庭園は名園「龍躍池」として知られており、『洛中洛外図屏風』にも池を眺める貴族の姿が描かれている。現在の学区名「龍池学区」にその名残りをみることができる。
 二条家が別の邸宅に移った後、織田信長は天正5年(1577)から京都で滞在するときの宿舎として利用したが、天正7年(1579)には正親町天皇の皇太子であった誠仁親王に献上した。「二条新御所」あるいは、御所に対して「下御所」と呼ばれていたようである。
 また本能寺の変では嫡男の織田信忠が二条新御所に立て籠もって明智光秀の軍勢に抗戦するが、衆寡適せず、家臣たちと共に自刃した。この時、二条新御所も焼失した。
 平成13年の発掘調査では、鎌倉時代から戦国時代にかけて整備が続けられた池の洲浜や庭石が見つかった。織田信長もこの庭園を眺めたであろう。
 また平成22年の発掘調査で、蒸し風呂形式の浴室遺構が見つかった。この風呂は庭園を眺めながら入浴するためのものであったと考えられる。信長は「淋汗茶湯」を楽しんだのではあるまいか。淋汗(りんかん)とは、汗を流す程度の軽い入浴のことで、風呂上がりの客に茶を勧めるという趣向のものでである。
 本能寺の変で信忠が自刃した二条新御所の様子はわからないが、江戸時代初頭には池を埋め立て、複雑な形に組み合わせた用途不明の石垣が作られた。

4、本能寺   所在地の変遷/油小路高辻⇒大宮六角⇒油小路六角(本能寺の変)⇒寺町御池(現在) 

 天正10年(1582)6月2日の早朝、明智光秀が本能寺に織田信長を急襲した本能寺の変。
 現在の本能寺は寺町通御池交差点の南東側にあるが、これは天正19年(1591)に豊臣秀吉の命令で移転したもので、本能寺の変の時には北を六角通、東を西洞院通、南を四条坊門小路(現在の蛸薬師通)、西を油小路通に囲まれた場所、現在の堀川高校の東側に位置した。
 最近まで本能寺の実態についてはほとんどわかっていなかった。しかし、平成19年に行われた3回の発掘調査により、周囲が堀で囲まれ、内部も石垣を備えた堀により区画されること、境内中央部には礎石をもつ建物があること、瓦葺きの建物があり火災で焼失したことなどが明らかになってきている。出土遺物には輪りんぽう宝を額に戴いた鬼面や龍が巻き付く意匠の鬼瓦、本能寺の寺号「能」の異体字である「(去/写真)」の文字を刻んだ軒丸瓦、掛け軸の琥珀製の軸端のほか、火災の激しさを物語る熱を受けて赤く変色した瓦や焼けた壁土などがある。

5、南蛮寺

 南蛮寺とはキリスト教の教会堂のことで、京都には室町通と新町通に挟まれた四条坊門小路(現在の蛸薬師通)北側、現在の京都逓信病院付近に位置した。
 イエズス会宣教師オルガンティーノが信長の信任を受けて、キリシタン武将として有名な高山右近らの協力を得て天正4年(1576)に建立したものである。『洛中洛外名所図扇面』には鐘楼を備えた3階建ての建物が描かれている。天正15年(1587)、豊臣秀吉によるバテレン追放令によって破却された。
 昭和48年の同志社大学による発掘調査で、大きな礎石が見つかった。また、ズボンを穿いた人物を描いた線彫りがある石製硯が出土している。出土した礎石は同志社大学今出川キャンパス構内に移設されている。
 また平成24年の関西文化財調査会の調査で、南蛮寺の敷地北端を示す可能性がある溝が見つかっている。

【参考文献】
上村憲章『平安京左京一条三坊六町・旧二条城跡』古代文化調査会 
柏田有香『平安京左京四条二坊十五町・烏丸御池遺跡・二条殿御池城跡』京都市埋蔵文化財研究所
家崎孝治『本能寺跡・平安京左京四条二坊十五町』古代文化調査会
吉川義彦『本能寺発掘調査報告・平安京左京四条二坊十五町』関西文化財調査会
山本雅和『織田信長と京都』京都市埋蔵文化財研究所

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