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武産通信

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古事記誕生の謎 2

2008年05月17日 | Weblog
 キトラ古墳は奈良県明日香村にある7世紀末~8世紀始めの円墳。石室は切り石を箱状に組み合わせて造られ、四方の壁には方角の守護神である、青竜、白虎、玄武、朱雀の四神が描かれ陰陽五行思想の宇宙観を示す。また各壁には三体づつ描かれる子・丑・寅などの獣頭人身の十二支像があり、天井には日月と天文図がある。
 被葬者は、天武天皇の皇子だった高市皇子(たかいちのみこ)や、右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)、また百済王一族の亡命説などがある。

 天武朝には外国に対して日本国を名乗り、日本の君主を天皇と称した物証がある。
 中国の『新唐書』や朝鮮の『三国史記』によれば、倭国は690年以後に対外的に日本国を名乗り、701(大宝元)年の「大宝令(りょう)」では「日本天皇」と詔書(天皇が出した文書)に明記することが定められた。したがって、その間に「日本国」「日本天皇」の国号・称号が確定したことになる。
 高句麗の道顕(どうけん)が著した『日本世紀』が完成したのは天武朝である。また1998年に飛鳥池遺跡から出土した「天皇」と書かれた木簡によって、「日本国」と「天皇」の使用が始まるのが7世紀後半であったことは、ますます確かになった。
 百済救援を名目として出兵した倭国の軍は、663(天智2)年の8月、白村江で唐・新羅の連合軍に大敗を喫した。それは、倭国存亡の危機につながる。これを転機として国家意識が高まった。
 672(天武元)年の壬申の乱で、実力により近江朝廷を倒した天武朝にあっては、日本独自の君主号「天皇」がより強く意識された。奈良時代に完成する『古事記』や『日本書紀』の編纂が、実質的にはこの時期に始まっているのも軽視できない。
 律令制確立の第一歩となる飛鳥浄御原令は、天武朝にできあがって持統朝に施行された。690(持統4)年からはじまる天皇家の祖先をまつった伊勢神宮の式年遷宮、その翌年から具体化した皇位継承の祭儀(大嘗祭)もこの時期に準備された。朝廷が神社を格付けし、災厄を退ける国家行事として「国の大祓(おおはらい)」を始め、飛鳥寺や百済大寺を朝廷が管理する官寺としたのも天武朝であった。(上田正昭「特別寄稿」朝日新聞 2008年2月15日付朝刊)
写真:合気道開祖植芝盛平

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