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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

AIKIDO Manuel Buylla

2023年12月24日 | Weblog
                             AIKIDO
                            Manuel Buylla

 この作品は静けさと動きの一瞬が表現されている。ここでの「静」とは静止や静寂をさし、「動」は動きや活気、変化をさしている。言い換えれば、作品が静かでありながらも、その中に瞬時の動きや変化が感じられ、その組み合わせが芸術的な魅力を生んでいる。
 合気道を表現する、静と動という対照的な要素をバランスよく調和させ、その結果として美しい芸術的な体現が生まれているという感覚を示唆している。静的な要素と動的な要素を融合させ、その瞬間瞬間の美しさや情緒を感じさせるマニュエル・ブヤの作品である。

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平安京の女

2023年12月17日 | Weblog
 平安京の女

☆光源氏
 『源氏物語』の主人公。桐壺帝と桐壺更衣の間に生まれた光源氏は、幼少の頃から才能と美貌に恵まれ、「光の君」と呼ばれる。さまざまな女性と恋に落ちるが、最終的には最愛の人を亡くし、孤独に満ちた晩年を過す。

 藤壺
 三歳で母親の桐壺更衣を亡くした光源氏の前に現れる。桐壺帝の妃となった藤壺だったが、更衣と容姿が似ていたことから、光源氏は心を動かされる。紫の上は藤壺の姪になる。

 葵の上
 葵の上は、左大臣の娘で光源氏の最初の妻。美しく教養のある女性として描かれる。光源氏との間に男子の夕霧をもうけるが、葵祭での車争いがもとで早世する。

 空蝉
 光源氏は中流階級の女性を知るべく、空蝉に求愛するが、身分の違いや夫がいたという理由から空蝉は拒み続ける。光源氏を拒絶した女性として描かれる。

 六条御息所
 光源氏の愛人の一人で、年上で嫉妬深い女性として描かれる。光源氏に求愛されたことで恋に落ちるが、葵祭での車争いを発端に生霊となり、光源氏の正妻の葵の上を死なせてしまう。

 夕顔
 頭中将の元恋人で、彼との間に娘がいた。光源氏は夕顔が詠んだ歌に魅了され、互いに好意を寄せるが、ひと気のない院での逢瀬の最中に突然原因不明の死を遂げてしまう。
 
 紫の上
 幼い頃から光源氏に引き取られ、理想の女性として育てられる。正妻であったが、光源氏との間に子供はおらず、正妻の座を他の女性に奪われ、人間関係に悩み病死する。

 朧月夜
 光源氏の政敵の娘。月がかすむ夜に光源氏と出逢い、その後も関係を持ち続けたことで、光源氏は波乱の人生に巻き込まれる。積極的で高貴な女性として描かれる。

 末摘花
 光源氏が求愛した際も、その容姿に衝撃を受ける。一方で、哀れみを感じた光源氏は、彼女の世話をすることとなる。

 明石の君
 朧月夜との密会がばれた光源氏は、須磨、そして明石へと身を隠す。そこで出会って恋に落ちたのが明石の君。身分の違いがあるが、光源氏は彼女の聡明さに惚れる。

 女三宮
 晩年の光源氏の正妻。稚い高貴な女性として描かれる。

 浮舟
 他の女性たちと異なり、実の父親から子と認知されなかった、身分の低い女性として描かれる。薫に囲われるが、薫のライバルである匂宮とも関係を持ち、悩みの末に入水を決断する。

☆頭中将
 光源氏のいとこ。光源氏に引けをとらない容姿と高い教養を持っている。恋のさや当てもしつつ、須磨まで光源氏に会いに行くほどの仲であった。

☆薫
 表向きは光源氏の息子だが、実は柏木という男性の子供であり、世間体を気にする繊細な一面がある。女性関係に悩み、優柔不断な描写がなされる。

☆柏木
 頭中将の息子。光源氏の正妻、女三宮と密通する。

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平安京発掘

2023年12月08日 | Weblog
 平安京発掘

 天皇と后たちの住まい
 平安京北辺中央に造られた平安宮には、国家儀礼を行う大極殿や朝堂院、公的な饗宴を行う豊楽院、行政を執り行う官衙(役所)、武徳殿などの諸施設、そして天皇と后たちが住まう内裏が所在していた。
 「年中行事絵巻」などの絵画資料には、大極殿は塼敷き(せんじき)の土間であるのに対して、清涼殿や仁寿殿などの内裏の建物は床張り建物として描かれており、日々の生活が営まれていた建物は床板張りと考えられている。

 宮殿建築である内裏の建物が掘建柱建物から礎石建物に転換する時期は、平安時代前期である。
 長岡宮からの移築、またはそれを踏襲した建物である。
 底石、縁石、側石がセットになった石組溝が造られた。
 礎石建物の登華殿と弘徽殿(こうきでん)は、渡り廊下で繋がっていた。
 登華殿は東西規模から七間(約13m)四面の建物とみられ、「大内裏図考証」の建物と同規模(98畳、49坪の広さ)となる。
 建物の配置や構造は建て替えによって変更された。
 石組溝に伴う礎石や基壇は見つかっていないことから、礎石建物自体の平面や立体的な規模は不明である。

 平安京貴族邸宅の調査結果
 平安京最初の本格的な発掘調査は、昭和2年(1927)に右京四条二坊(四条通西大路西入)の淳和天皇の後宮・淳和院で木樋を検出したのに始まる。
 近年では、平成23年(2011)に西三条第(JR二条駅西側)の右大臣・藤原良相の邸宅や、平成30年(2018)に右京三条三坊五町(三条通西大路西入)の一町規模の邸宅(約120m四方)の発掘調査がある。

 寝殿造の成立は10世紀後半である。
 敷地中央やや南に主要な殿舎群を配し、北には雑舎群を配している。
 東西棟の寝殿と南北棟の東・西棟が東西に並列し、廊とともに南庭を囲んでいる。
 廊によって建物をつないでいる。
 中門廊を設け、敷地内の空間を細分している。
 主要な出入口を東西面に設けている。
 広大な苑池を敷地の南方に配し、北方から遣り水によって導入している。
  
 『作庭記』 平安時代に書かれた日本最古の庭園書
殿舎をつくるとき、その荘厳のために、山をつきし、これも祇薗図経にみえたり。
池をほり石をたてん所にハ、先地形をミたて、たよりにしたがひて、池のすがたをほり、嶋々をつくり、池へいる水落ならびに池のしりをいだすべき方角を、さだむべき也。南庭ををく事は、階隠の外のハしらより、池の汀にいたるまで六七丈(約20m)、若内裏儀式ならば、八九丈(約25m)にもをよぶべし。礼拝事用意あるべきゆへ也。但一町の家の南面に、いけをほらんに、庭を八九丈をかバ、池の心いくバくならざん歟。よくよく用意あるべし。堂社などにハ四五丈(約15m)も難あるべからず。

 各邸宅には多様性があり、典型的な寝殿造は発掘調査では未確認である。

資料:京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告書
   京都市文化財保護課調査報告書

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