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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

植芝盛平伝(3)

2013年06月25日 | Weblog
 植芝守高(盛平)氏の武道と神ながら

 さて、宮本武蔵の『二刀一流の空の奥義』とは、あらゆる大宗教の奥義、それこそ神ながらの奥義、三十歳にして基督が神懸りとなった奥義である。武蔵はそれを説明して次のようにいう。

 『二刀一流の兵法の道、空というは物毎のなき所、有所を知りて無所を知る是則空也。此兵法の道に於ても、武士として道を行うに、士の法を知らざる所、空には非ずして、色々迷有りて、せんかたなき所を空というなれ共、是実の空にはあらざる也。武士は兵法の道を慥に覚え、其外武芸を能つとめ、武士の行う道少しもくらからず。心の迷う所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、迷いの雲の晴れたる所こそ、実の空と知るべき也。実の道を知らざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれは慥なる道と思いよき事と思え共、心の直道よりして、世の大かねにあわせて見る時は、其身其身の心のひいき、其目其目のひずみによって、実の道にそむくもの也。その心をしって、直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広く行い、正しく明らかに大きなる所を思いとって、空を道とし道を空と見るべき也。空有善無悪。智は有也。利は有也。道は有也。心は空也』

 この言葉は決して禅門仏法より来たのではなくて、武蔵自らの体認から来た驚くべき心境である。論理哲学の域を遥かに超越した第四次元的な世界の言葉であるから、常識で読んでみても、極意が解らないし、哲学的、科学的に考えてみても、更にその意がつかめない。言葉は簡なれど、その意味は達成されている。道と兵法と芸術と実際生活の極まで磨きあげられ、深められ、引上げられて現われる世界。『空を道とし道を空とする』とは超越の世界から道が現われ、道の極致から超越の世界が現われるということ。この世にあらざるものが、この世の極道となって現わるること、即ち神の顕現である。

 植芝氏はここまで、剣道のみならず、道の精進をして来られた。

文献:三浦関造『心霊の飛躍』昭和7年 (国立国会図書館蔵)

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植芝盛平伝(2)

2013年06月18日 | Weblog
 植芝守高(盛平)氏の武道と神ながら

 一日、私は植芝氏を訪うて三つの質問を発した。
 『私は神秘体験の問題から、宮本武蔵を研究して、日本における純然たる独創の神秘的大哲人、大芸術家、大人物と心得て居る者でありますが、その武蔵そのまんま、或はそれ以上の剣術家だと、あなたを信じています。つきまして、三つほどお尋ねしたいことがあります。先ず、あなたの剣道は、見る人の目には、まるで電気仕掛けか、天狗の早業のように見えますが、一体方法というものがあるのですか、それとも直覚的に隠秘力で、相手をやっつけられるのですか』
 すると植芝氏の答はこうであった。
 『ちゃんと方法があります』
 『その方法は何人も修得出来ますか』
 『出来ます』
 『それにしましても、あなたの早業、さっと電光のように撃ちこむ剣が当らなったり、突込んで来る大兵剛力の手を電光よりも早く避けて、あべこべに相手をやっつけられる其の早業、その迅さは一体、何処から出て来るのですか』
 すると植芝氏はそれには答えないで、こんな突拍子もないことをいわれた。
 『私には鉄砲の弾が当りません』
 『それはまた、どうしたわけです。隠秘力で跳ねのけられるのですか』
 『いいえ、射手が狙いを定めて、今用心金をひっぱった刹那、実弾ならざる幽弾が、私の身体の何処かに当りますから、その刹那ちょいと身をかわせば、その瞬間実弾がずどんとやって来て、みんなそれるのです』
 『はて、分った。なる程そうですか。砲弾にもやっぱり幽弾というものがあるものですな。や、これは初耳。なる程、それで私が考えていました通りの天通者。そこで、もう一つお尋ねいたしますが、一体、どんなに方法があり、身わざが早くても、大兵大力の男を子猫のように弄ばれるに就いては、余程の腕力がなくてちゃならんわけですが、あなたには何の位の力が出て来ますか』
 『普段は、普通の人間と同じ位なものですが、力を入れると、米俵二俵は高足駄をはいて平気にぶらさげて歩けます』
 『おいこら』
 といって、その時同氏は弟子を呼ばれた。そして二十二三貫(約83kg~86kg)もあるような体重の弟子に向い、
 『昨日は何人だったかね、この上に乗っかったのは』
 といわれた。この上というのは、火鉢の火箸を人差指の下に柱となして、右手をさし伸べた腕のことである。
 『三人でありました』
 と弟子は答えた。
 『何、火箸なんかいらんのですけれど』
 と植芝氏はいわれる。とも角も、差し伸べた右腕に三人の大男が乗っかって平気という位な力が出て来る。百貫位な重さなら、我等が一斗の米を弄ぶようなものである。
 私が驚いていると、植芝氏がいわれた。
 『相手が何ぼ強くても、それに打勝つだけの力、自分では分らない力が、立向った刹那興えられます。のみならず、私は神道流はどんなものか知りませんが、神道流の大家と仕合をする時には、すっかり私の手が神道流になってしまいます。柔道家とやる時には柔道の手になります』
 『それは一体、どういうわけですか』
 『透一された私には相手の幽体なり、守護神なりが憑きますから、先方はもぬけの殻になって、只手先や形式ばかりになってやっつけられるのです。修行の上達している相手になればなる程、その幽体も、守護神も偉いのですから、私も亦段違いに偉くなるわけです。何せよ、相手に対した時の心の状態は鏡のように透明ですから、すっかり先方の霊がこちらに映るといった具合ですね』
 『なる程、それが宮本武蔵の二刀一流の空の極意です。それでこそ、あなたは宮本武蔵と同格の方です』
 『どこへ行きまして仕合をやりましても武蔵式に勝負に勝つもんですから、そういわれています』

 さて、宮本武蔵の『二刀一流の空の奥義』とは、

文献:三浦関造『心霊の飛躍』昭和7年 (国立国会図書館蔵)

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植芝盛平伝

2013年06月11日 | Weblog
 植芝守高(盛平)氏の武道と神ながら

 宮本武蔵は故人であるが故に、その非凡な武道の奥義というものが、おそらく平凡な現代人には事実として受けとれまい。そこで、私は宮本武蔵そのまんまの、しかも或る点に於ては、武蔵よりももっと優れていると思われる今の人、植芝守高(盛平)氏について少しばかりを語りたい。

 植芝氏は今、東京牛込に道場を持って居られる。ニ三年前までは隠れた人士で同氏の驚くべき真の武道なるものが、世の中に在るという事さえ知られてなかった。まことの人物は世に現れ難く、無用な人間が天下をとって邪道を教えるのが此の世の中である。そもそも王道なるものは、国の内外古今を問わず世の中に実現されたことがなく、常に覇道が天下を左右している。末法の世とはよくもいわれた言葉である。
 昭和五年早春、植芝氏が陸軍大学で仕合をされたことは、少数の人が知っている。大兵五、六段の柔道家が何ぼ出て来ても、子猫が弄ばれるように破れてしまった。三人の剛の者が頸や手をからめとって、さてそれから仕合というのに、これもまるで紙でも吹きとばすように吹き飛ばされてしまった。剣道の何段でも御座れ、来る者も来る者も、第一剣が当らない上に、ばったりとへこたれて打っ倒されてしまった。
 講道館の代表的な若者どもも、天狗の前の赤ん坊見たようで、とても問題にはならぬ。一体講道館は何を教えているかと問うに、加納治五郎さんは『講道館のは武道ではない。単に体育だ』といわれたそうである。それほど植芝氏に驚嘆して居られるわけ。
 アメリカ一流の拳闘家でコンガム氏が欧州武者修行に廻って、到るところに勝利を得、剛力大兵六尺四寸(約193cm)の体躯を、僅か五尺二寸(約157cm)しかない植芝氏の前に現して、何小僧と突かかって来たが、あべこべに赤ん坊でも弄ばれるように、中空にふり廻されるやら、へたばされるやらで、てんで問題にはならず、驚嘆も驚嘆も、度はずれの驚嘆をして退却した。 
 そういう事で、世間が、やっと植芝氏の人となりを知り、まるで人間以上の武道家、剣道家だとして敬意を表するようになった。初め植芝氏は、これも世に隠れた武田某(惣角)を師とされたのであるが、師と別れた時には、まだ武道神域に達せぬ頃であった。然るに植芝氏はその後、夢によってその奥義を教えられたという。しかも剣道の奥義で、柔道でも、相撲でも、拳闘でも何でも御座れ、円融無碍、まことに神ながらの技を演ぜられる。

 一日、私は植芝氏を訪うて三つの質問を発した。

文献:三浦関造『心霊の飛躍』昭和7年 (国立国会図書館蔵)

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会津藩始末記(6)

2013年06月04日 | Weblog
★八重の桜

 八重は但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川崎尚之助と結婚したが、会津若松城籠城戦を前に離婚する。
 会津若松市立会津図書館の史料『会津藩御近習人別帳. 明治43年(1910)写』の会津藩士の名簿によれば、「大砲方頭取、川崎尚之助」(1865年5月付)とあり、戊辰戦争の後に東京で謹慎となった藩士の名簿『東京謹慎人別帳』にも「斗南県川崎尚之助」と川崎の名がある。尚之助は会津戊辰戦争を戦い抜いた。
 尚之助は謹慎の後も会津のため青森に移住して斗南藩の財政捻出に奔走し、明治8年3月20日に函館で病没した。享年40歳。
 明治4年(1871)、八重は京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って上洛する。翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女、現在の京都府立鴨沂高校)の権舎長・教道試補となる。
 明治8年(1875)、新島譲は同志社英学校を創設する。現、同志社大学の前身である。
 明治9年(1876)、新島と八重は結婚式を挙げる。京都で日本人最初のキリスト教式結婚式である。新島は数えで33歳、八重は30歳。それは川崎尚之助が他界した翌年のことであった。

 銀杏並木の寺町通を道着姿の同志社大学合気道部の学生さんたちが気合を発しながら裸足で駆け抜けていく。植芝盛平先生御縁の地の合気道武産道場(京都市中京区寺町夷川角)から寺町通を北へ二筋目を少し上がったところの、京都御所東に新島夫妻の暮らした家が今もある。
 和洋折衷の見事な家で、京都最初の洋式トイレやセントラルヒーティングは見所である。竣工後まもなくして撮影された旧邸(1878年)の写真が残っている。現在の新島会館のある場所から、母屋の南面を撮影した写真には、今のような垣根は無く、広い庭の様子がうかがえる。 新島は、この庭に作った家庭菜園で洋野菜を自ら栽培し、家事を手伝うこともあったという。
 人力車に新島と洋装の八重が同乗するなどの行動は、世間の目には奇異に映ったらしく、学生の一人、徳富蘇峰は後年『蘇峰自伝』に次のように書いている。それと今から考ふれば、如何にも子供らしき事であるが、新島先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、所謂る鵺(ぬえ)の如き形をなしてをり、且つ我々が敬愛してゐる先生に対して、我々の眼前に於て、余りに馴れ々しき事をして、これも亦た癪にさはった。
 明治23年(1890)、新島襄は同志社大学設立運動中に心臓疾患を悪化させて倒れた。享年46歳。

            【新島襄 最後の言葉】 

                吉野山花咲くころは朝な朝な
                          心にかかる峯の白雲

                 天を怨みず 人を咎めず

 昭和7年(1932)、新島八重は寺町丸太町上るの自邸(現・新島旧邸)にて永眠。享年86歳。

            【八重 会津若松を詠む】

                ふるさとの萩の葉風の音ばかり
                         いまもむかしにかはらざりけり

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