植芝守高(盛平)氏の武道と神ながら
さて、宮本武蔵の『二刀一流の空の奥義』とは、あらゆる大宗教の奥義、それこそ神ながらの奥義、三十歳にして基督が神懸りとなった奥義である。武蔵はそれを説明して次のようにいう。
『二刀一流の兵法の道、空というは物毎のなき所、有所を知りて無所を知る是則空也。此兵法の道に於ても、武士として道を行うに、士の法を知らざる所、空には非ずして、色々迷有りて、せんかたなき所を空というなれ共、是実の空にはあらざる也。武士は兵法の道を慥に覚え、其外武芸を能つとめ、武士の行う道少しもくらからず。心の迷う所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、迷いの雲の晴れたる所こそ、実の空と知るべき也。実の道を知らざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれは慥なる道と思いよき事と思え共、心の直道よりして、世の大かねにあわせて見る時は、其身其身の心のひいき、其目其目のひずみによって、実の道にそむくもの也。その心をしって、直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広く行い、正しく明らかに大きなる所を思いとって、空を道とし道を空と見るべき也。空有善無悪。智は有也。利は有也。道は有也。心は空也』
この言葉は決して禅門仏法より来たのではなくて、武蔵自らの体認から来た驚くべき心境である。論理哲学の域を遥かに超越した第四次元的な世界の言葉であるから、常識で読んでみても、極意が解らないし、哲学的、科学的に考えてみても、更にその意がつかめない。言葉は簡なれど、その意味は達成されている。道と兵法と芸術と実際生活の極まで磨きあげられ、深められ、引上げられて現われる世界。『空を道とし道を空とする』とは超越の世界から道が現われ、道の極致から超越の世界が現われるということ。この世にあらざるものが、この世の極道となって現わるること、即ち神の顕現である。
植芝氏はここまで、剣道のみならず、道の精進をして来られた。
文献:三浦関造『心霊の飛躍』昭和7年 (国立国会図書館蔵)
さて、宮本武蔵の『二刀一流の空の奥義』とは、あらゆる大宗教の奥義、それこそ神ながらの奥義、三十歳にして基督が神懸りとなった奥義である。武蔵はそれを説明して次のようにいう。
『二刀一流の兵法の道、空というは物毎のなき所、有所を知りて無所を知る是則空也。此兵法の道に於ても、武士として道を行うに、士の法を知らざる所、空には非ずして、色々迷有りて、せんかたなき所を空というなれ共、是実の空にはあらざる也。武士は兵法の道を慥に覚え、其外武芸を能つとめ、武士の行う道少しもくらからず。心の迷う所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、迷いの雲の晴れたる所こそ、実の空と知るべき也。実の道を知らざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれは慥なる道と思いよき事と思え共、心の直道よりして、世の大かねにあわせて見る時は、其身其身の心のひいき、其目其目のひずみによって、実の道にそむくもの也。その心をしって、直なる所を本とし、実の心を道として、兵法を広く行い、正しく明らかに大きなる所を思いとって、空を道とし道を空と見るべき也。空有善無悪。智は有也。利は有也。道は有也。心は空也』
この言葉は決して禅門仏法より来たのではなくて、武蔵自らの体認から来た驚くべき心境である。論理哲学の域を遥かに超越した第四次元的な世界の言葉であるから、常識で読んでみても、極意が解らないし、哲学的、科学的に考えてみても、更にその意がつかめない。言葉は簡なれど、その意味は達成されている。道と兵法と芸術と実際生活の極まで磨きあげられ、深められ、引上げられて現われる世界。『空を道とし道を空とする』とは超越の世界から道が現われ、道の極致から超越の世界が現われるということ。この世にあらざるものが、この世の極道となって現わるること、即ち神の顕現である。
植芝氏はここまで、剣道のみならず、道の精進をして来られた。
文献:三浦関造『心霊の飛躍』昭和7年 (国立国会図書館蔵)