goo blog サービス終了のお知らせ 

武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

小男鹿俳句会

2021年09月23日 | Weblog

                              風薫る左文右武の学舎跡   野風呂

 

 小男鹿俳句会

 野風呂忌(水仙忌)十五句

 仕る小男鹿衆の水仙忌  本田雪童

 水仙忌小男鹿と云う砦もつ   角 直指

 風呂敷と袴姿や水仙忌   天野正竹

 逆らはぬことの身につき水仙忌   岩永西海

 息太き揮毫なりしよ水仙忌   高尾芋山

 文武の士育て給ひき水仙忌   清水遊壺

 水仙忌不良学生なりし吾   佐伯田路雨

 師の遺墨句友を偲ぶ水仙忌   矢川浮立子

 野風呂忌や口衝いて出づひひなの句   森 冬星

 水仙忌雛雪洞の灯は消えで   小槻夢心

 同窓の友減るばかり水仙忌   進藤芽風

 先師知る人も老いたり水仙忌   丹生をだまき

 築紫路の遺墨かかげて水仙忌   寺田映峰

 梅の門師の句碑洗う水仙忌   杉江蕗芽

 慕わしや温顔今に水仙忌   原 勁四郎

 
 武徳祭十五句

 神州の血を呼び覚ます武徳祭   本田雪童

 武徳祭武専の意地の見せどころ   木戸京旦

 武に誇りもてる傘壽や武徳祭   清水遊壺

 武徳祭同じ防具とすれ違い   岩永西海

 鬼瓦四方に威を張り武徳祭   進藤芽風

 青春を誇れる証明武徳祭   新造十三日

 武徳祭母校なごりの要石   廣谷麦秋

 寄せ書の扇なつかし武徳祭   甲斐つきを

 武専てふ誇りを秘めて武徳祭   泊 喜雨

 消息を問えば逝きしと武徳祭   天野正竹

 痩身に風吹き抜けて武徳祭   薄 山茱萸

 碑に多き武専佛や武徳祭   寺田映峰

 武徳祭生涯修業で盡きにけり   杉江蕗芽

 傳へ来し風新たにも武徳祭   佐々田豊子

 老武者の二世三世連れ武徳祭   佐藤貞女


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武道専門学校と小男鹿俳句会

2021年09月03日 | Weblog

                              風薫る左文右武の学舎跡   野風呂

 武道専門学校と小男鹿俳句会

 武道専門学校の学生は、角帽を被り紋付きに袴と朴歯の下駄で京の街を闊歩し た。そんな若者たちを街の人は親しみをこめて「武専の学生さん」と呼んだ。
 武専は礼儀の面が特に厳格で、学生は先生よりも先輩を恐れること甚だしかった。上級生は絶対で、100メートル先の細い路地を横切る上級生に欠礼でもすると、きっと覚えられていてビンタを張られ、鉄拳が飛ぶこともあったから大声で挨拶するか追いかけて礼をするかしかない。映画館の前で入ろうか入るまいか思案している際も、一人は看板を眺め一人は上級生の見張りをする。たまたま背後を上級生が通ったのを気づかないでいようものならば、あとが怖い。即ち、月一回の制裁会なるもので、言い訳無用と四年生からコッテリと絞られるからである。
 現在、大学の体育会系などで使われている学生用語の「オス」は武専に発したもので、「お早うございます」が「オワス」となり、ついに「オス」となったものだという。漢字の「押忍」は当て字である。そして、今では後輩が先輩にオスを連発しているがこれは誤りで、先輩が後輩に対するときだけ用いるものである。

 武道専門学校は、武道家は文武両道でなければならないと、武科と文科を設けたのである。武道家育成の教育機関としての誇りと、武専出身は並みの武道家とは違うぞという矜持があったのである。卒業資格は三段以上、国語漢文の教員免許を取得して卒業した。
 初代校長は第三高等学校校長(兼任)の折田彦市。第五代校長に就任したのが警視総監だった無刀流の西久保弘道で、のちに東京市長になった。
 第十代が武専最後の校長となった文科主任教授の鈴鹿登である。鈴鹿はホトトギス派(京鹿子主宰)の俳人で「野風呂」と号した。鈴鹿は武専の中に小男鹿俳句会をこしらえて、月一回、放課後に句会を開いた。小男鹿は「さおしか」と読む。 鈴鹿は学生たちを吟行にともない、寺社仏閣を訪ねたり琵琶湖を徒歩でめぐったりした。毎日、激しい稽古に明け暮れる学生たちにとって蘇生する思いだったであろう。こうして卒業生の約半分が俳号をもったという。
 昭和21年、GHQの大日本武徳会解体により、武道専門学校は消滅したが、小男鹿俳句会は卒業生によってその後も存続する。世話役は第26期(昭和15年卒)の木戸高保で、鈴鹿野風呂のもと(没後は丸山海道となる)高瀬川畔の蕎麦処「こづち」などを経て、月一回、裏寺町蛸薬師の光明寺で句会が開かれる。また毎年5月、旧武徳殿の剣道京都大会(武徳祭)に合わせて開かれる東山通仁王門の西方寺での法要と追悼句会は、上京される先生方が参加されて武専の思い出話に花が咲いて賑やかだった。こうして句会は平成11年頃まで続いたのである。
 小男鹿俳句会は武道家が集う、武道家の句会だった。 合掌(文中敬称略)

 武道専門学校碑
 【碑文】
 明治二十八年京都遷都千百年記念として平安神宮を建立 延歴尚武の古例に倣って大日本武徳会を設立 同三十二年武徳殿が造された 同会は時代の要請に対応して 同三十八年この地に武術教員養成所を開設 爾来四十年 武徳学校 武術専門学校 武道専門学校と称し 明治 大正 昭和三代に亘るわが国武道指導者育成の拠点となったが 大東亜戦争終結と共に廃絶の止むなきに至った
 昭和五十八年武徳殿大修復 武道センタ-本館建設のため 母校々舎は撤去された
 茲に有志相図り建碑してその跡を顕示するものである
 昭和六十二年三月吉日
   大日本武徳会 武道専門学校卒業生有志
   大日本武徳会 薙刀術教員養成所卒業生有志


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする