風薫る左文右武の学舎跡 野風呂
武道専門学校と小男鹿俳句会
武道専門学校の学生は、角帽を被り紋付きに袴と朴歯の下駄で京の街を闊歩し た。そんな若者たちを街の人は親しみをこめて「武専の学生さん」と呼んだ。
武専は礼儀の面が特に厳格で、学生は先生よりも先輩を恐れること甚だしかった。上級生は絶対で、100メートル先の細い路地を横切る上級生に欠礼でもすると、きっと覚えられていてビンタを張られ、鉄拳が飛ぶこともあったから大声で挨拶するか追いかけて礼をするかしかない。映画館の前で入ろうか入るまいか思案している際も、一人は看板を眺め一人は上級生の見張りをする。たまたま背後を上級生が通ったのを気づかないでいようものならば、あとが怖い。即ち、月一回の制裁会なるもので、言い訳無用と四年生からコッテリと絞られるからである。
現在、大学の体育会系などで使われている学生用語の「オス」は武専に発したもので、「お早うございます」が「オワス」となり、ついに「オス」となったものだという。漢字の「押忍」は当て字である。そして、今では後輩が先輩にオスを連発しているがこれは誤りで、先輩が後輩に対するときだけ用いるものである。
武道専門学校は、武道家は文武両道でなければならないと、武科と文科を設けたのである。武道家育成の教育機関としての誇りと、武専出身は並みの武道家とは違うぞという矜持があったのである。卒業資格は三段以上、国語漢文の教員免許を取得して卒業した。
初代校長は第三高等学校校長(兼任)の折田彦市。第五代校長に就任したのが警視総監だった無刀流の西久保弘道で、のちに東京市長になった。
第十代が武専最後の校長となった文科主任教授の鈴鹿登である。鈴鹿はホトトギス派(京鹿子主宰)の俳人で「野風呂」と号した。鈴鹿は武専の中に小男鹿俳句会をこしらえて、月一回、放課後に句会を開いた。小男鹿は「さおしか」と読む。 鈴鹿は学生たちを吟行にともない、寺社仏閣を訪ねたり琵琶湖を徒歩でめぐったりした。毎日、激しい稽古に明け暮れる学生たちにとって蘇生する思いだったであろう。こうして卒業生の約半分が俳号をもったという。
昭和21年、GHQの大日本武徳会解体により、武道専門学校は消滅したが、小男鹿俳句会は卒業生によってその後も存続する。世話役は第26期(昭和15年卒)の木戸高保で、鈴鹿野風呂のもと(没後は丸山海道となる)高瀬川畔の蕎麦処「こづち」などを経て、月一回、裏寺町蛸薬師の光明寺で句会が開かれる。また毎年5月、旧武徳殿の剣道京都大会(武徳祭)に合わせて開かれる東山通仁王門の西方寺での法要と追悼句会は、上京される先生方が参加されて武専の思い出話に花が咲いて賑やかだった。こうして句会は平成11年頃まで続いたのである。
小男鹿俳句会は武道家が集う、武道家の句会だった。 合掌(文中敬称略)
武道専門学校碑
【碑文】
明治二十八年京都遷都千百年記念として平安神宮を建立 延歴尚武の古例に倣って大日本武徳会を設立 同三十二年武徳殿が造された 同会は時代の要請に対応して 同三十八年この地に武術教員養成所を開設 爾来四十年 武徳学校 武術専門学校 武道専門学校と称し 明治 大正 昭和三代に亘るわが国武道指導者育成の拠点となったが 大東亜戦争終結と共に廃絶の止むなきに至った
昭和五十八年武徳殿大修復 武道センタ-本館建設のため 母校々舎は撤去された
茲に有志相図り建碑してその跡を顕示するものである
昭和六十二年三月吉日
大日本武徳会 武道専門学校卒業生有志
大日本武徳会 薙刀術教員養成所卒業生有志