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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

西式健康法と西勝造

2011年08月24日 | Weblog
★8月23日(火)7:00 TBSテレビ「教科書に絶対のせたい今こそ学ぼう昭和SP」

 昭和には健康器具の原点があった。いつの時代も自らの美と健康への追及に余念がない女性たち、その奮闘の歴史から垣間見る、驚きの健康器具が紹介される。取材は香川県坂出市の特定非営利活動法人「健康を考えるつどい」で行われた。

1. 頭と腎臓とに微振動を与えて毛細血管の活動を旺盛にし、眼・鼻・耳の疾患を治す。また腎臓の機能を正常にし、顔の皮膚も美しくなる。下肢を柔軟にかつ強化させる 『美容機』

2. 血液の循環を正常にし、宿便を排除し、消化吸収を旺盛にして若返る 『旋転機』

3. 西式健康法の金魚運動、毛管運動、顎下懸垂が同時にできる 『三号型健康機』
  金魚運動は背椎の左右の歪みを矯正する。毛管運動は全身の血液循環を活発にする。顎下懸垂は背椎を引き伸ばして整正、特に腰椎によい。 

★西医学 四大原則

1.栄養 ー 調和のとれた食事と小食を心掛ける
2.四肢 ー 手足や背椎の歪みを治す
3.皮膚 ー 排毒作用を高める
4.精神 ー 健全な思考をもつ
 
★西医学 六大法則

1.平床 ー 背椎の前後の歪みを矯正する
2.硬枕 ー 頚椎の歪みを矯正する
3.金魚運動 ー 背椎の左右の歪みを矯正する
4.毛管運動 ー 全身の血液循環を活発にする 
5.合掌合蹠運動 ー 左右神経の働きのバランスをとる
6.背腹運動 ー 酸性、アルカリ性の偏りをなくし体液の中性を促す

写真:西式健康法創始者・西勝造先生

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続・それからの武田惣角

2011年08月16日 | Weblog
★植芝盛平翁の生前に記された『合気道開祖植芝盛平』にみる武田惣角。砂泊兼基著、昭和44年。

 大本弾圧の嵐は大正十年の二月十二日から十月二十日の破壊工作が始まり、それが終るまでつづいたのであるが、植芝盛平はその間、武術の稽古、天王平農場の仕事をしながら、取壊された神殿や家屋の跡の整理に多忙な毎日を送っていた。そんなある日、北海道白滝に定住しているはずの武田惣角が、ヒョッコリ綾部に訪ねて来た。
 盛平は師弟の礼をつくして粗末にはせずもてなした。どんな事情があったのか、盛平が惣角のために残して来た財産はどうなったのか、詳しくも話さなかったが惣角は、そのまま綾部の盛平のところに滞まることとなった。余程の事情があったらしい。
 惣角が綾部に来たときは、すでにその前年に道場をつくってあったので、そこで希望者が惣角から大東流柔術を習うことにした。そんなとき盛平は代稽古をした。  
 惣角は約半年綾部に滞在して、またいずこへか発っていった。その時まで門弟や盛平は、稽古料のすべては惣角に直接渡していたのであるが、惣角夫妻の様子から、何とか餞別を心配してやらねばならぬと考え、盛平は、出口王仁三郎師に相談すると、事情を聞いた王仁三郎は「これはお前に貸すから・・・」といって〇〇円を出してくれたので、それをそっくり持たせて旅立たせた。勿論、滞在期間中のまかないはすべて負担し、一家中で心をこめて接待したことはいうまでもない。
 
 大正十五年、植芝盛平は東京に出てきた。
 ところがその後、その武田惣角が殆ど毎年上京しては盛平の道場へ訪ねて来るのであった。その度ごとに盛平は、あくまで恩師として厚くもてなし、滞在中の食費から遊覧費に至るまで支出して、帰るときにはかなりの餞別金を持たせるのであった。これが毎年のことで、盛平の態度は少しも変らなかったと、当時を知る人は一様に盛平の情誼の厚さに頭が下がったと語っている。


★『秘伝日本柔術』にみる武田惣角。松田隆智編、昭和53年。

 その時の事情を久琢磨師範は『武芸帖(別冊第二十一号)』で、つぎのようにのべられている。

 この時北海道から植芝先生の恩師と称する老人が来訪して、「諸氏は植芝守高から合気柔術を習っているそうだが、折角合気柔術を習わんとするに偽の合気では困る。自分は大東流合気柔術の宗家で武田惣角というもの。守高には若干教えたが、まだまだ未熟で他人に教えるどころではない。これから自分が直接指導して差しあげる」といって否応なしに教授を始められた。ちょうど昭和十一年十一月一日のことであった。これから早速植芝先生にこの由を報告したところ、恩師の膝下に馳せ参ずるかと思いの他、早々に大阪を引き上げてしまった。


★『合気道開祖植芝盛平伝』にみる武田惣角。植芝吉祥丸著、昭和52年。

 昭和7年、大阪では久琢磨を中心に大阪朝日新聞社内に多数の熱心な門弟が参集した。昭和11年といえば、東京牛込若松町に「皇武館」道場を構え、武道界における開祖(植芝守高と号す)の実力および名声はきわめて高く、関東・関西を頻繁に往復していた頃であると記されている。

 大正九年春、開祖が綾部移住を決意したむねの挨拶にいくと、出口王仁三郎師は「あんたが来ることは前からようわかっとった」とひどく喜ばれ、「わしの近侍になりなさい。(中略)あんたはな、好きなように柔術でも剣術でも鍛錬することが一番の幽斎になるはずじゃ。武の道を天職とさだめ、その道をきわめることによって大宇宙の神・幽・顕三界に自在に生きることじゃ。大東流とやらも結構だが、まだ神人一如の真の武とは思われぬ。あんたは、植芝流でいきなされ。真の武とは戈を止ましむる愛善の道のためにある。植芝流でいきなされ。大本の神さんが手伝うのやさかい。かならず一道を成すはずじゃ」ざっとそのような意味のことばで諭されたという。のちに開祖は嬉しげに語っていた。


★『合気道史跡行脚』にみる武田惣角。樋口隆成編、昭和54年。

 親和体道(親英体道)創始者・井上鑑昭(いのうえ のりあき)先生の会見録。昭和53年4月30日、東京方南町のご自宅にて。先生は、本名を与一郎、号を方軒と称される。
 神棚の左側上方に、出口王仁三郎師直筆の『電撃雷飛』の扁額が飾ってあった。これは重宝としてお祀りしているとのことであった。ここから、話は大本のことについて及ぶこととなる。

 わしは、直接的には大東流を習っていないが、流派は知っていた。武田惣角先生とともに稽古をした。武田先生の助手になったこともある。だが、武田先生の流れは邪道じゃよ。この人の剣は受け身だ。相手を殺す。入身の実在は相手を活かすにあるので、入身に入ってこそ人を断ち切ることができるのじゃ。平法(親和体道における平法学のこと)には受け身はないのじゃ。すべて入身で世界が生成されるのじゃ。・・・決して受け身はない。すべてが入身じゃよ。これが、山、海で修行した実感じゃよ。・・・入身! 入身! 入身!。


 「忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、(中略)自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」と坂口安吾『堕落論』にある。

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時事俳句

2011年08月14日 | Weblog
                   戦争が廊下の奥に立つてゐた     渡辺白泉

                   いつせいに柱の燃ゆる都かな     三橋敏雄

                   広島や卵食う時口ひらく     西東三鬼

 昭和18年、大陸戦線での合気道門人のあまりの「殺傷技術の高さ」に感動した陸軍幹部が合気道の植芝盛平開祖のもとを訪れた。
 剣道、柔道を廃し、今後軍事教練では合気道を必修にする計画への協力を申し出たのである。
 開祖(植芝盛平)は激怒して、「それは日本人全員を鬼にするということである」と一喝して、そのまま東京を去って、岩間に隠遁してしまわれた。
 この開祖の怒りに共感できた人が当時の日本の武徳会関係者のうちにどれほどいただろうか。 (中略)
 学校体育における武道はどうあるべきかについて明治維新以降もっとも真剣に考えたのは、私の知る限りでは、講道館柔道の開祖である嘉納治五郎先生である。
 嘉納先生が大正末年から昭和のはじめにかけて書かれた「学校体育における武道の堕落」を慨嘆する胸痛む文を読んだことのある人は中教審(中央教育審議会)の中に果たして一人でもいるのであろうか。 (内田樹「武道の必修化は必要なのか?」)

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それからの武田惣角

2011年08月12日 | Weblog
★白滝在住の合気道家・久保田師範による村民が見た武田惣角『白滝記』 平成19年。

 武田惣角は白滝では「柔道先生」と呼ばれていたらしい。一般の方々には柔道も柔術も対して違いがわからなかったのだろう。そんな柔道先生・惣角は白滝ではちょっと恐れられた人だったようだ。私が勤める農場にいるおばあちゃんは惣角の三女・志づかさんと同級生だったこともあり、惣角の家にも入ったことがあるらしいが、家の中には数種類の武器がかけてあり、やはり恐ろしくて早くおいとましたかったと語ってくれた。

 白滝で一番良く聞く話は武田惣角の庭の話である。現在、惣角の記念碑が立てられているところが実際に惣角が最後に住んでいた土地だとされているが、そこはX字の交差点になっていて惣角の土地は三角形である。その三角地帯をちょっと近道しようとして通りかかったのを見られようものなら、惣角が飛び出してきて怒って追いかけてきたという。捕まったら最後、関節を極められ懲らしめられてしまう。惣角にやられたのが原因で、腕の関節が変形したままの人もいたようだ。

 たかが庭を横切っただけでと思う方もいるかもしれないが、武田惣角の用心深さは相当なものだったらしい。これは色々な書物で、惣角と関わった先生方が証言している。「男は外に出たら7人の敵がいると思え」という武士のような気構えで生きてきた惣角からすれば、自分の土地に勝手に踏み込んできた者も当然敵とうつっただろう。白滝住民から実際に話を伺って書かれた小説「大雪山のふもとから」によると、姿が見えなくても庭を横切ったことがばれ、どこからか棒が飛んできたこともあったようだ。この本によると、惣角の庭を横切るのは一種の度胸試しにもなったらしい。

 庭のエピソードには武田惣角の失敗談もあった。馬がイチゴを食べたことに腹を立て、夫婦連れの夫の方を懲らしめていた惣角に妻が「何をする!」と体当たりしたところ、これが当たってしまったという話。惣角はばつが悪くなったのか、そそくさと家の中に引き上げたという。これには惣角のような達人でもそんなことがあったのかと驚いた。植芝盛平もそうだが、達人は武勇伝が目立つのでこういう話が聞けるのはとても興味深い。

 また、庭の話とは別に武田惣角が道の交通料をとっていたという話も聞いた。この話の真偽は分からないが、見た目や、性格の厳しさから白滝住民にとって惣角はあまりいい印象ではなかったようである。

 植芝盛平は白滝原野を開拓するため、和歌山紀州団体の団長として白滝に入植し、人々のために働いた。一方、武田惣角はその厳しい性格や、会津なまりのひどさからそれほど人と触れ合う機会はなかったようである。しかし、大東流の指導は行っていたようだ。惣角がどの程度の指導を行ったのかはわからないが、白滝には惣角から手ほどきを受けた人が結構いたらしい。

 そのうちに武田惣角は植芝盛平の家に転がり込むようになる。毎日の惣角の世話で盛平はだんだんと自分の仕事ができなくなっていった。盛平は白滝から出た初の上湧別村村会議員をも務めるが、一年足らずでやめている。その背景にも惣角がいたのかもしれない。このことについて、盛平は後にこう語っている。「公務の仕事がいっさいできなくなってしまった、自分は。邪魔ばっかりするんです。先々先々自分の行くとこ邪魔ばっかりするもんやから、それでしまいに自分のうちのようになって入りこんできて、私の権利書から私の印鑑を全部とられてしもうた」(白滝村史編纂取材録音テープ/昭和42年)。本当にここまでひどい目に合わされたのかどうかはわからないが、惣角と関わったことで白滝での生活が破綻したことは間違いなさそうだ。盛平は白滝から離れることを考えるようになる。盛平はどうやら故郷田辺に戻り、武道家として生きていくつもりで道場も建てていたようだ。盛平は白滝を去る時にも田辺の道場について語ったらしく、そのことは白滝の方からも聞いたことがある。ちなみにこの話をしてくれた方は、盛平が白滝を捨てて田辺で武道家になろうとしたことで、盛平にいい印象を持っていなかった。

 そして大正8年12月、植芝盛平は「チチキトク」の電報を受け取り、これを機に帰郷を決行した。その際にも盛平は惣角に土地を与えている。その後は結局田辺にとどまらす、京都の綾部へ行くことになるのだが、惣角には行き先を告げなかったという。そして、惣角が終生家を持ち続けた白滝には戻って来る事がなかった。

 先の「大雪山のふもとから」によると、武田惣角が指導していたのは大東流だけではなかったらしい。同書には惣角が剣道を指導したという記述が出てくるのである。元々惣角が剣術家であったことは知っていたが、この話はこの本で初めて知った。今でこそ、白滝には剣道少年団くらいしかなく剣道熱も下火であるが、一時期の白滝は大変剣道が盛んであり、強い剣士が多かったという。その剣道も元は惣角が始めたものかと思いをめぐらせると、意外なところに惣角の落とした影を見ることが出来る。

 達人もやはり年には勝てぬと見え、晩年の武田惣角は大小便垂れ流しの状態で歩くこともままならなかったと聞いた。そのために杖をついているのだが、その杖はとても太い木刀であったという。握り方も変わっていて、通常杖を握るときは親指が上にくると思うが、惣角はその逆で親指が下を向いていたという。この握りであれば、手を返せばそのまま木刀を持つ格好となる。惣角は年老いても常に臨戦態勢であったのだ。おまけに木刀も極太であったというからすさまじい。足腰は弱っても、剣で鍛えた腕力は健在だったのだろう。

 武田惣角は齢80を越えても全国を旅し続け、各地で教授を行った。その旅立ちの際、白滝の駅に向うときも一人ではろくに歩けず、支えられていたという。しかし、そんな状態でも一人で旅を続けたのだからすごい。そして、旅の途中青森で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

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『土芥寇讎記』にみる水戸光圀

2011年08月06日 | Weblog
★隠密調書『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』にみる水戸藩・水戸光圀(みと みつくに)行状記。元禄三年(1690)頃。

 光圀卿文武両道ヲ専ラニ学ビ、才知発明ニシテ其ノ身ヲ正シ、道ヲ以政道ヲ行ヒ、仁勇セ專家民ニ施シ、哀憐セラル、事比類ナシ。或世間ニ誉有ル人ヲ集テ、自ラ其ノ諸芸ヲ試ミ、猶家士ヲ励マサルト聞フ。其ノ御身ハ文学而巳ニ非ズ、神道ヲ学ビ、且ツ仏道ヲ修行シ、智者学ク匠ヲ有テ招請ハ、儒仏乃論シ或ハ仏氏乃奥義ヲ尋明メテ難文シ、或ハ自カラ文ヲ書キ、詩ヲ作リテ、出家之智学之程ヲ被ル探知ラ。是御身博学多才成ル故ナルベシ。爰ニ一ツ難アリ。世ニ流布スル処ハ、女色ニ耽リ給ヒ、潜ニ悪所へ通ヒ、且ツ又常ニ酒宴遊興甚シト云ヘリ。然レドモ当時世上之口無き善悪ケレバ、其ノ虚実ヲ不知ラ。

 光圀卿は文武両道をよく学び、才知発明の頭のよい男である。身を正して、道にのっとった政治をやっている。仁と勇とでもって、家来と領民に接し、彼らを憐れむ点では比類がない。また、学問芸能で、世に名高い人物を集めてきて、自分でもそれをやっている。家来にも、やらせるという。学問だけではない。神道を学び、仏道の修行を行い、知恵者や学者を招いて、儒教や仏教の議論をしている。仏教の難しい奥義を明らかにして、難しい文章を書くこともある。あるいは、自分で文章を書き、漢詩を作って、出家僧侶の学識を意地悪く試してみたりしている。きっと、ご自身が博学多才だから、こんなことをするのだろう。ただ、ここに一つ難がある。世に流布するところによれば、女色に耽(ふけ)りたまい、ひそかに悪所(遊郭)に通い、かつ、また、常に酒宴遊興、甚だしといわれている。しかしながら、当時、世上の人は口さがないので、その虚実はわからない。


「謳歌評説」
 色ノ淫ジテ国家ヲ滅ス人古今其ノ類多キ故ニ深ク禁ム之。然レ共光圀卿之事女色籠愛之事ニ付為シ害ヲタル沙汰ナシ。色不ル好ハ聖賢之外希ナルベシ。女色ヲ好ミ給フトモ国家之仕置ニ無クバ害苦シカルマジキ歟。

 女と淫行(いんこう)にはしり、国家を滅ぼす人は、古今その例が多い。だから、深く戒められるのである。しかし、光圀卿が女色を好むからといって、国政に害をなしたという話は聞かない。色を好まないのは、聖人賢人のほかは稀(まれ)だろう。女色を好まれるとしても、国家の政治に害がなければ、構わないのではなかろうか。


 学者ハ学ヲ隠シ、智ヲ隠シ、徳ヲ隠セドモ、隠タルヨリ顕ル、ハナキ道理ナル故ニ、自然ト人知ル之。是「徳不弧ナラ必ズ有ル隣」故也。又疎学ノ出家或ハ儒者等ハ議論ニ負、或ハ御尋之難文ヲ不知ラシテ、赤面迷惑ス。如キ斯ノ耻辱ヲ与ヘテ快シトシ給フ事ハ、学者之セザル所也。既ニ顔淵ハ「人ニ労ヲ施ス事ナカレ」トコソ云ヒシトニヤ。此ノ義ハ不可トスベキ歟。

 まことの学者は、学問をかくし、知恵をかくすものだが、自然に学識があらわれて、人にしられるものである。だから、「徳は弧ならず、必ず隣あり」というのだ。光圀卿のせいで学におろそかな僧侶や学者は、議論に負け、あるいは尋ねられた難しい文章を知らなかったりして、赤面し、迷惑している。こういう恥辱を与えておいて、悦にいっているのは学者のやらないことだ。孔子の弟子の中でも一番秀才だった顔淵(がんえん)も「人に迷惑をかけるな」といったという。光圀卿の学者いじめはよくないことだ。 (史料:東京大学史料編纂所所蔵)


 国民的テレビ番組「水戸黄門」が今年いっぱいで終わるという。1200余回、42年で五代の黄門様を生んだ。
 初代 東野英治郎、二代 西村晃、三代 佐野浅夫、四代 石坂浩二、五代 里見浩太朗
 ♪人生楽ありゃ苦もあるさ・・・の主題歌で始まり、「この紋所が目に入らぬか」の揺るぎない勧善懲悪が、最高視聴率40%の番組を支えた。

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