武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

合気道技法真髄

2012年01月05日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

 序 文

 武は神の御姿御心より出で真善美なる我建国の一大精神なり。

 夫れ武術は皇国の道に起り百事神と人との合気より言霊表現の誠を以て基準となし誠の心即ち大和魂を更に体に練及し誠魂の練磨統一と其の魂を以て肉身の統一を計り心身に寸隙なき心魂一如の統一を以て誠の人を作るを以て目的とす。

 凡て人生れて非常時なり。更に稽古には事毎に大試練と大修業たる超非常時を描き出すものなれば能く死生の巷を往復し死生観を超越し如何なる世の超非常時も死地に入るも平日の如く安く明かく開展する道を得るを以て主とす。

 古言に武は神より天皇に伝はり更に武将に及ぶと実に至言なり。即ち斯道たる皇道の誠なり是に依りて天地の真理を悟り練現し天地経綸の為天地の呼吸と呼吸に依り世の様を腹中に修め治国平天下破邪顕正の道を講じ正しき心魂一如の誠を現し其術たる一を以て万に当るを知り以て日の本の建国に向う各人の持場遂行の猛威と叡智を宣揚するを本旨とするものなり。

 世相の開展と人の心の進むにつれて武術は常に先鞭をつけて開展するものなれども合気の道を以て練磨するに於ては知らず知らずの内に此武術の真意を悟り真の達人となるものなり。

 乞ふ此の書は教授を受けしものの為に又入門者に対しゆるしとして渡すものなれば切磋琢磨の日を重ね極意を得益々奥の技に進み教を受くべく茲に一言依頼する次第なり。

 以て序文となす。      

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清盛 京都御所の厳島神社

2012年01月03日 | Weblog
 京都御所の南に平清盛が母、祇園女御のために勧進したと伝えられる厳島神社がある。江戸時代に五摂家・関白九条家邸内の拾翠池(しゅうすいいけ)の島の中に遷座され九条家の鎮守社となった。厳島神社の唐破風鳥居は京都三珍鳥居の一つでもある。因みにあとの二つは、太秦にある蚕の社境内の三柱鳥居(みはしらとりい)と、北野天満宮の伴氏社(ともうじしゃ)の柱の下の蓮座が珍しい鳥居である。

 
 由来

 一、祭神  市杵島姫命  湍津姫命  田心姫命  祇園女御

 一、当社は往昔 平相國清盛公 安藝の國佐伯郡に坐す厳島大神を崇敬の余り摂津の國菟原郡兵庫築島(神戸市兵庫区永沢町)に一社を設けてこの大神を歓請し給い鎮祭されたのであり 後故あって側らに清盛公の母儀 祇園女御をも合祀されました 後世年を経て この九絛家邸内 拾翠池の嶋中に移転遷座されたのであります(濫觴年代等は天明八年京都大火の砌 旧地番悉く焼亡して詳ではありません) この地 旧公爵九絛家の邸内に属せしにより自ら同家の鎮守となりました 又古くより家業繁栄 家内安全の守護神として一般の人々よりも深く崇敬されているところであります 

 一、神前の鳥居(重要美術品)は破風形の鳥居として有名であり詳細は本殿横の由来書をご覧ください (「厳島神社」駒札)


 破風形の鳥居

 社前の鳥居(重要美術品)は 平清盛公兵庫厳島の同神社に建てられたもので第104代後柏原天皇の御代永正の足利家の管領細川武蔵守高國 有名なる京都の彫刻師後藤氏の邸を掠奪して住居として居たが 大永元年3月(1521年)足利12代将軍義晴公 播磨國より上洛して暫くこの邸に在留際 取り寄せて 庭前に建て置かれしところ 足利市滅亡の後 徳川家康公 後藤氏に所領を下賜の沙汰あり 望に任せて後藤氏を右邸に復住せしめたるが 慶長9年徳川家康公此邸に立ち寄らせ給ひし折り 御覧あり 該鳥居の古稚なる形を深く愛玩し給ひし事ありてより 以来 京都所司代の交代後とに必ず 巡見すべき物件となり 明和8年3月(1771年)後藤法橋玄家の代に 内大臣 九絛道前公(芳盛光院殿)鎮守の厳島神社由来有るにより當時所司代 阿部飛騨守正元(武蔵國鷹忍城主)を以て幕府に懇望し給い 當神社に復帰す 之は最も世に類例なき姿にして 即ち破風形の鳥居を口し 昭和13年6月文部省より重要美術品に指定される

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