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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

『西医学』西式健康法(7)

2019年08月09日 | Weblog
                                    西 勝造先生創刊の月刊誌『西医学』

 西 勝造先生を偲ぶ(2)         合気道本部師範部長 九段 藤平光一

 昭和28年の2月、いよいよハワイ西会からの招聘が実現して、単身渡布した。ホノルル埠頭には、大勢の西会の方々が迎えに来てくださった。ハワイ西会会長太田馨氏、副会長栗崎一寿博士等の方々が船上まで迎えに来られ、船の上から出迎えの方々に手を振るように言われたので、私はどの方々が西会の方かわからず、ただ漠然と手を振ったら、桟橋にいた人々が一斉に歓声をあげ、手を上げられたので、あまりに大勢の方々のお迎えに、びっくりするやら、感激するやらで、私の責任の重大なことを更に自分自身に言い聞かせたものであった。船をおりて山城ホテルに落ちつくと、西会の幹部の方々がみな集まってこられた。会長の太田さんは、「ハワイの人は、みな遠慮がないから、人の前でも平気で悪口を言うが、蔭ではあまり言わない。何でも遠慮のない質問をしますから、気にかけないでください」と言われた。私も、「ハワイの人の気質は、船の中でも、ハワイの人々から、よく聞いてきまして、よくわかっています。遠慮なくどうぞ。」と返事をしました。すると一人が「先生はずいぶん若いんですね。8段というから50位かと思っていた。」西会の方々は、ご年配の方々ですから、32歳の私が若いと言われても当然である。次の一人は、「先生は小さいんですね。」これも6尺位の人は、ざらにいるハワイでは、私が小さいと言われても文句を言えない。3人目の人は、「本当にできるんですか。」どうも、これが質問のねらいだったらしい。あとで聞いた話ですと、出迎えのとき船上の私が、ハワイ柔道有段者会長であった、栗崎博士よりも小さいので、合気道なんて本当にやれるんかと心配になったのが本音であったそうである。西先生がハワイへ行かれるたびに、植芝先生の話をされると、大の男が何人かかっても、ぽんぽんぽんといった調子で景気よく話をされたそうである。ハワイの人たちは、西先生のおっしゃることであるから、嘘ではないとは思うが、講談ではあるまいし今の時世にそんなことが果たしてできるのであろうか。プロレスの世界選手権保持者でも、一人の相手に勝つのに苦心惨憺する。80近いご老齢で、そんなことはできる筈はないとも考え、半信半疑でいたそうである。そこへ、弟子が差し向けられたのであるから、さだめし、6尺豊かの髭の生えた偉丈夫であろうと知らず知らずのうちに想像していたところ、5尺4、5寸の弱輩が、ニコニコしているのであるから、たよりなく、心配になったのも無理はなかったであろう。私も苦笑いをしながら、「ここで、できるとか、できないとか言っても、空文句にすぎない。その返事は別の機会にしたいから、いつでもよいから、ハワイの強いといわれる人々を10人くらい集まってもらってください。」と返事をしました。
 さて、その日になると、柔道、剣道、プロレス等、7、8人集まってくださったので、そこに実際に行って、返事の代わりをした。西会の方々も、初めて安心されて、「西先生のおっしゃったことは、やはり本当であった。」と非常に喜ばれた。そのとき集まってくださった柔道、剣道の高段者方が、今ハワイ合気会の最高の指導者になっているわけである。 (『西医学』昭和35年11月号)

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『西医学』西式健康法(6)

2019年08月02日 | Weblog
                                    西 勝造先生創刊の月刊誌『西医学』

 西 勝造先生を偲ぶ(1)         合気道本部師範部長 九段 藤平光一

 昭和27年の初秋の頃であったと思う。私が植芝盛平先生の代理として、和歌山県庁や警察の稽古をしているとき、突然先生よりご連絡があり、すぐ梅田駅前のホテルへ来いとのことであった。すぐに身支度をして飛んで行ってみると、先生が、西先生と向かい合って話をしておられた。先生は、「これが藤平です」と言われ、私が西先生に礼をすると、西先生はニコニコとしながら「ホウ」と言って、丁寧に会釈を返された。そのあとは、別に話もなく、ただ両先生が話されているのを傾聴していた。私が西先生にお会いしたのは、これが最初であった。
 あとで植芝先生から伺ったところによると、私を呼んだのは、西先生が私の体貌観測をされるためとのことであった。病気に対する観測ではなく、性格等に対する観測であったようである。それ以前よりハワイ西会から、合気道をハワイに招聘する話が進んでいて、植芝先生が出かけられないなら、私を招聘するという下話が起きかかっていた。しかし、西先生は、合気道を紹介するについて、苦い経験を持っておられたそうである。戦時も終わりに近い頃、西先生が紹介されて、合気道の一門人をある地方に派遣して、合気道を普及させた。戦争が激しくなるにつれ、合気道の門下生も元気な若手はみな戦陣に参じ、本部に残った者は、召集を受けない少数の人々で、その中の門人の一人がその地方の普及を引き受けた。時局がら、合気道は盛んになったが、この男、少しく山気のある人間で、余計な所へまで口を出して、とうとう、その地方の西会を混乱に陥れたそうである。ゆえに、今度のハワイ普及にしても、腕もさることながら、人間を見て確かめてからということになり、私が呼び出されたわけであった。
 わずか、5分か10分で私は辞し去ったが、その後、西先生がハワイへ送られた書状では、絶対保証する趣が書かれてあったとか、私にとっては、今でも感激を新たにするところである。
 それまでに私は西会の方々にも、ずいぶん面識があったが、西式健康法に対しては、知識といってほとんどなかった。しかし、西先生にお会いしたとき、歳を聞いて、あまりにお若いのにびっくりした。髪の毛は、黒々と、頬は赤みを帯びた童顔で、60を越した方とは、どうにも思えなかった。
 私が和歌山を引き上げて東京に帰ってから、何度か、杉並のご自宅へお伺いした。先生は文字通りご多忙なときでも、必ず、30分か、1時間、時間を割いてお会いくださった。その当時は、未だ31歳で、主に日本酒であったから相当飲んだものであった。当然西式健康違法から見て、酒の点で叱られると思って覚悟はしていたが、先生は、いつもニコニコして、あなたも西式をやりなさいとも言われない。酒に関しては、「酒は別に飲んでも、差支えない」と言われたので、ほっとしていると、そのあとがいけなかった。「酒を飲んだら、20時間以内に、酒の3倍の量の水を飲みなさい。そうすると酒の害は消える」と言われた、1升の酒を飲んだら、3升の水、3升の酒を飲んだら、9升の水、これは到底不可能のことである。それ以来、つとめて、3倍の水を飲むように、努力しているが、勢い、酒の量を減らさなければならなくなる。おかげで、今では、せいぜい酒を飲んではいけないと言われるより効果的であったと思っている。帰りにはいつも、「こういう本ができたから読みなさい。」と本を戴いてきたので、一通り、西先生の著書は、眼を通させていただいた。ただ先生の高等数学だけは、私には苦手であり、植芝先生の言霊学と同様、さっぱりわからなかった。 (『西医学』昭和35年11月号)

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