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武産通信

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「空気」の研究

2020年02月27日 | Weblog
                              「空気」の研究 初版本

 「空気」の研究   山本七平

 昭和52年の発表以来、40年を経ていまだに多くの論者に引用、紹介される名著。今年3月も、NHK Eテレ「100分deメディア論」で、社会学者・大澤真幸氏が本書を紹介し、大きな反響があった。日本には、誰でもないのに誰よりも強い「空気」というものが存在し、人々も行動を規定している・・・。これは、昨今の政治スキャンダルのなかで流行語となった「忖度」そのものではないか!
 山本七平は本書で「「空気」とはまことに大きな絶対権を持った妖怪である。一種の『超能力』かも知れない。」「この『空気』なるものの正体を把握しておかないと、将来なにが起るやら、皆目見当がつかないことになる。」と論じている。それから40年、著者の分析は古びるどころか、ますます現代社会の現実を鋭く言い当てている。「空気を読め」「アイツは空気が読めない」という言葉が当たり前に使われ、誰もが「空気」という権力を怖れて右往左往している。そんな今こそ、日本人の行動様式を鋭く抉った本書が必要とされている。
 『「水=通常性」の研究』『日本的根本主義(ファンダメンタル)について』と続き、日本人の心の中にかつても今も深く根ざしている思想が明らかにされていくのは圧巻。 (文藝春秋「作品紹介」より)

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足利義昭の最後

2020年02月16日 | Weblog
足利義昭の最後

織田信長に京を追放された足利義昭は毛利輝元のもとに身を寄せる。
これは本能寺の変の11日後に毛利水軍の将、乃美宗勝に送った御内書である。

本法寺文書『乃美宗勝宛足利義昭御内書』

信長討果上者、入洛之儀、急度御馳走由、対輝元、隆景申遣条
此節弥可抽忠切事肝要、於本意可恩賞、仍肩衣、袴遣之猶
昭光、家孝可申候也
  (天正十年)六月十三日         義昭(花押)
         乃美兵部丞とのへ

さて、「信長討果上者」を「信長を討ち果たした上は」と読むのか、それとも「「信長討ち果つる上は」と読むのかで随分と内容が変わってくる。ともあれ、義昭が権力の座を求めていたことは確かである。

以下、書き下し文
入洛の儀、きっと御馳走の由、輝元、隆景に対し申し遣わすの条
この節いよいよ忠節をぬくんずべきこと肝要、本意においては恩賞すべし、よって肩衣、袴これを遣わし
なお昭光、家孝申すべく候なり

[史料] ルイス・フロイス『日本史』

内裏の次位にある日本の君主たる公方様(義昭)は、彼を追放した信長の死したるを見て、おのれの追放を想起し、おのれをして、天下の君とならしめんことを羽柴(秀吉)に請いたり。然れども彼がこれにたいし如何なる返答を与うべきかは、判断することは容易なるべし。羽柴はなんらの返答をなさず。

豊臣政権下では、秀吉から一万石を与えられて山城国槙島の大名となり、晩年は秀吉の御伽衆となる。
慶長二年(1597)、体にできた腫れ物の悪化により大坂で死去。享年61歳。

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安土城図屏風の見方

2020年02月06日 | Weblog
 安土城図屏風の見方

 屏風の最小単位は扇。複数の扇がひとつにまとめられたものは曲と呼ばれ、四扇、六扇からなるものが多かった。そして曲が左右一対からなるものは一双と呼ばれ、例えば六扇からなる曲が左右一対の屏風は六曲一双仕立てとなる。また一双の左右の曲は、隻といわれ、それぞれ左隻(させき)、右隻(うせき)と呼ばれる。

 安土城図屏風は一扇の幅が二尺(約60㎝)で曲の幅十二尺~十五尺(約4m)、高さが六尺(約180㎝)の二曲一双で、右隻に安土城を、左隻に安土の城下町を描いている。
 金箔地に色鮮やかに彩色された屏風。右隻には様々な形状の金雲が画面全体に巧みに配置される中、安土山に建つ安土城の曲輪やその周辺の家臣団の屋敷、安土山の西南山腹にある総見寺、琵琶湖湖岸に建つ武家屋敷等が細やかに彩色描写されている。左隻には流麗な形態や複雑な構成で描かれた金雲によって、天守閣とその下に広がる賑わう城下の街並みや琵琶湖、川岸にもやう舟の一団が自然の光や風の中で息づいているかのように描かれている。

 天正9年(1581)、織田信長が安土を訪れた宣教師のヴァリニャーノに贈った安土城図屏風は、狩野永徳筆と考えられている。この屏風は安土城下や京で披露され、後に天正遣欧使節の手によって渡欧しバチカンにてローマ教皇・グレゴリウス13世に献納された。教皇は住居と執務室を結ぶ廊下に屏風絵を飾ったといわれるが、教皇の死後に屏風は行方不明となった。昭和59年(1984)には滋賀県が、平成17年(2005)には安土町(近江八幡市)がそれぞれバチカンを調査したがいずれも発見には至らなかったという。

[史料] ルイス・フロイス『日本史』

 中心には彼らがテンシュ(天守)と呼ぶ一種の塔があり、私たちの塔より気品があり壮大な建築である。この塔は七重からなり、内外共に建築の妙技を尽くして造営された。事実、内部にあっては四方に色彩豊かに描かれた肖像たちが壁全面を覆い尽くしている。外部はこれらの階層ごとに色が分かれている。あるものはこの日本で用いられている黒い漆塗りの窓が配された白壁であり、これが絶妙な美しさを持っている。ある階層は紅く、またある階層は青く、最上階は全て金色である。このテンシュ(天守)は、その他の邸宅と同様に我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。それらは青に見え、前列の瓦には丸い頭が付いている。屋根にはとても気品のある技巧を凝らした形の雄大な怪人面が付けられている。

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明智光秀の最後

2020年02月01日 | Weblog
 明智光秀の最後 「本能寺の変」

[史料] ルイス・フロイス『日本史』

 第五六章  明智が謀叛により、信長、ならびに後継者の息子を殺害し、天下に叛起した次第

 明智(光秀)は夜明けになって坂本城に向かって歩き、そこで再起するつもりであり、ほとんど一人で進んだが、話によれば幾分傷ついていた。哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに金の棒を与えるから坂本城に連行するように頼んだが、彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲望にかられ、彼を刺殺し首をはねたが、それを三七殿(織田信孝)に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に差し出した。そして、次の木曜日に、信長の名誉のために、明智の身体と首を、彼が信長を殺し、他の首が置かれている場所に運んだ。デウスは、明智が日本中を撹乱するほどの勇気を持ちながら、残酷な反逆を遂げた後には、11日か12日以上生きながらえることを許し給わず、彼はこのようにして実に惨めな最後を遂げた。ーー貧しく賤しい農夫の手にかかり、不名誉な死に方をしたーー三七殿は、身体に首をあわせた後、裸にして、万人に見せるため、まちはずれの往来が激しい一街道で十字架に懸けるように命じた。

 山崎の戦の翌日になると、略奪と斬首の勢いがすさまじく、信長が殺された場所へは、初回分としてだけで一千以上の首級がもたらされた。すなわち、全ての首級を同所に持参するようにという命令が出されていたからで、それらをそえて信長の葬儀を営むとの指令でなされたのである。日盛りになると、堪え難い悪臭が立ちこめ、そこから風が吹き寄せる際には、我ら修道院では窓を開けたままではいられぬほどであった。

 安土を去った明智の武将は坂本城に立て籠もったが、そこには明智の婦女子や家族、親族がいた。次の火曜日には羽柴の軍勢が到着したが、すでに多数のものが城から逃亡していた。そこでかの武将らーーは、軍勢が接近し、ジュスト右近殿が最初に入城した者の先発者であるのを見ると、高山、ここへ参れ、貴公を金持にしてしんぜようと呼びかけ、多量の黄金を窓から海に投げ始めた。そしてそれを終えると、貴公らの手に落ちると考えることなかれと言いつつ、最高の塔に立て籠もり、内部に入ったまま、彼らのすべての婦女子を殺害した後、塔に放火し、自分らは切腹した。そのとき、明智の二人の子が死んだーー。かの8日ないし10日の間に、津の国から美濃国にかけて執行された貴人並びに他の人々の死については述べ得ないほど多数である。ーー我らの一司祭は、淀川に沿ってくるときに、五百の死体が川下に流されていくのを目撃した程である。ーー明智に加担した者は一人残らず生命を奪われた。ーー僅かの日々に、すでに一万人以上の者が殺されたらしい。

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