織田信長の最後 「本能寺の変」
[史料] ルイス・フロイス『日本史』
第五六章 明智が謀叛により、信長、ならびに後継者の息子を殺害し、天下に叛起した次第
我らの教会は、信長の場所からわずか一街を隔てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこの方に来て、折から早朝のミサの支度をしていたカリオン(司祭)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。間もなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。
明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主と女たち以外は誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭で身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出て来た。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われる。また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが、火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかはわかっていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪と言わず骨と言わず灰塵に化さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上に何ら残存しなかったということである。
[史料] ルイス・フロイス『日本史』
第五六章 明智が謀叛により、信長、ならびに後継者の息子を殺害し、天下に叛起した次第
我らの教会は、信長の場所からわずか一街を隔てただけのところにあったので、数名のキリシタンはこの方に来て、折から早朝のミサの支度をしていたカリオン(司祭)に、御殿の前で騒ぎが起こっているから、しばらく待つようにと言った。そしてそのような場所であえて争うからには、重大な事件であるかも知れないと報じた。間もなく銃声が響き、火が我らの修道院から望まれた。次の使者が来て、あれは喧嘩ではなく、明智が信長の敵となり叛逆者となって彼を包囲したのだと言った。
明智の軍勢は御殿の門に到着すると、真先に警備に当たっていた守衛を殺した。内部では、このような叛逆を疑う気配はなく、御殿には宿泊していた若い武士たちと奉仕する茶坊主と女たち以外は誰もいなかったので、兵士たちに抵抗する者はいなかった。そしてこの件で特別な任務を帯びた者が兵士とともに内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手拭で身体をふいている信長を見つけたので、ただちにその背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌のような形をした長槍である長刀という武器を手にして出て来た。そしてしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り、戸を閉じ、そこで切腹したと言われる。また他の者は、彼はただちに御殿に放火し、生きながら焼死したと言った。だが、火事が大きかったので、どのようにして彼が死んだかはわかっていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪と言わず骨と言わず灰塵に化さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上に何ら残存しなかったということである。