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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

闘う神々 荒魂

2009年02月22日 | Weblog
 合気神社の樹林のなかで相撲をとるように鍛錬をする植芝盛平翁。(写真)

 建速須佐之男命(スサノオ)と天照大神(アマテラス)
 青い山々の草木を枯れさせ、河や海の水を干しあがらせる。また、山も川もめりめりと揺らぎ、国土がみしみしと震い動くほどにあらゆる災いを起すスサノオ。
 その荒ぶる神スサノオを迎え討つアマテラスのいでたちは、髪をといて男髷(おとこまげ)にゆい、両方のびんと両方の腕とに八尺の勾玉(やさかにのまがたま)という立派な玉の飾りをつける。背中には五百本、千本という大層な矢を背負い、右手に弓を取って突き立て、勢いこんで足を踏みながら待ち構える。そのきつい力踏みで、堅い土がまるで粉雪のようにもうもうと飛び散った。武装して闘いに挑む女神アマテラスである。
 スサノオとアマテラスは天安河(あまのやすかわ)をはさんで対峙し、宇気比をする。 そして、宇気比に勝ったスサノオが惹起した穢れに、遂にアマテラスは岩屋ごもりとなる。

 手力雄神(タヂカラオ)
 タヂカラオはアマテラスの天の岩戸隠れの時に、岩戸を引き開けてアマテラスの御手を奉じて出し奉る怪力の持ち主である。タタヂカラオは相撲に因縁深い祖神として、力士の守り本尊のように崇拝されている。

 建御雷神(タケミカズチ) 
 「古事記」に武術の始まりが記されている。天孫族から出雲族に対する国譲りの顛末は、この交渉に不同意であった出雲族の代表、建御名方神(タケミナカタ)と、天孫族の代表タケミカズチとが力競べ(ちからくらべ)の結果、タケミナカタが負けて国譲りの交渉がまとまり、この国は天孫族の治めるところとなる。
 この時の力競べは指掌の握力の争いであった。タケミナカタがタケミカズチの手を握ったところ、タケミカズチの手は垂氷(つらら)のように、また剣の刃のようでとても握ることができない。ところがタケミカズチがタケミナカタの手を握ると、ちょうど若い葦(あし)でもつかむように易々と掴みひしいだという。これは渾身の力を出して、鍛えた握力で強弱を競った手乞い(てごい)であった。

 野見宿禰(ノミノスクネ)
 相撲の神。第十一代垂仁(すいにん)天皇の御代、ノミノスクネと当麻蹴速(タイマノケハヤ)が天覧試合で相まみえ、無敵を誇るタイマノケハヤがノミノスクネの一蹴りに倒され敢えない最後をとげた。「相撲大鑑」には両雄は蹴り技で渡り合い、ノミノスクネがタイマノケハヤの脇骨を踏み折り、その腰を踏み砕いて殺したとある。古式角力の三手といって突く、蹴る、殴るの、真剣勝負のような闘技の相撲であった。
 そして第四十五代聖武天皇の頃に、節会(せつえ)相撲や神事相撲が起こり、打撃技は禁じ手となる。

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浅野温子 語り舞台「日本神話への誘い」

2009年02月20日 | Weblog
俳優 浅野温子さん

                     地域と作る一人舞台

 日本最古の歴史書「古事記」を現代風の仮名遣いにし、独自の解釈を加えたストーリーを読み聞かせる「語り舞台」を始めて7年目を迎える。5月、府内では初めて、石清水八幡宮など4神社で上演する。「京都の歴史、いい気の中できっと初めての経験ができるんじゃないかと期待してます」と意気込んでいる。

 嫉妬(しっと)、恋愛、憎悪――。「すごく赤裸々で内面をえぐりまくる」と語る世界を、様々な声色、スピード、抑揚を駆使して演じる。盛り上がる場面では、まん丸い目をさらに見開いて一気に読み上げる。

 一番の教訓は「一人舞台は一人でやると思ったら大間違い」。年間30~40回はできると思っていた舞台は、多くて年10回程度。一昨年は1カ所でしか開けなかった。「もうダメかなあ」と思う一方で、「自分の思いだけでは舞台はできない。賛同してくれる神社、地域の人あっての公演」と改めて気付いた。

 舞台は03年に伊勢神宮(三重県)から始まり、すでに全国40の神社で上演された。立ち上げには石清水八幡宮の宮司が尽力した。6年を経て、舞台にかかわりの深い土地にかえったことになる。

 「どれだけ成長したのか試される。『怖い』と『楽しみ』がない交ぜです」

 京都での上演は5月2、4、6、16日の4日間。問い合わせは石清水八幡宮内の京都公演実行委員会(075・981・3001)へ。 (朝日新聞 2009年2月19日付朝刊)

写真:平野神社/5月6日に語り舞台「日本神話への誘い」の上演が行われる。

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田中万川伝(4)

2009年02月01日 | Weblog
 昔、宮本武蔵は、「遠いものを近く見、近いものを遠く見る」といっている。昔の武術の達人も、長短の差はあっても、そのような感覚を持っていたと思われる。自分の周囲に何かある時に、その善悪の雰囲気を感じとるのである。それが身辺の間近ででなくても、五里十里、あるいは何百里の距離であっても、その場の状況と雰囲気を知ることが出来るのである。普通人には約束があれば、その約束の時間に約束の場所へ行くのであるが、途中で不時の出来ごとがあっても、それは予想外のこと、計算外の出来ごとにしてすませるのだが、正真の道の修業をし、その奥に達した人には、テレビの映像のように、またその声を聞くように感知することが出来るのである。幸いにこの時には異常はなかったが、あるいは途中で、気の進まなかった予感が解消したのかも知れない。普通人には奇跡とか不思議と思われることも、植芝盛平には当然のことであるのである。

 昭和の初めのころ盛平道主から聞いた言葉だが、
「一町四方(約100メートル平方)で我に危害を加えんとする者があれば、それは相手の気を感応して知ることが出来る」
 というのである。それから十年の歳月を経て奥を極めていた道主だから、昭和十三、四年ごろにはそれに類することは一向に珍しくなかったのである。

 やはりそのころ、大阪の田中万川の家に盛平が滞在していた時、東京の家人から(奥さんが病気だからすぐ帰れ)という意味の電報がきた。田中は早速大阪駅へいって、翌朝の急行列車の切符を求めて出発の準備をしていた。ところがその日の夜中に起きた盛平が、
「俺(わし)は東京へは帰らん、いま家から病気がよくなったと知らせてきた」
 というのであった。果たして翌早朝に東京から電報が来て、「病気がよくなったから帰らんでもよい」といってきたので、田中は驚いてしまった。

 またその大阪の道場で、植芝盛平はいつもその道場正面に祀ってある神前で長いあいだ礼拝していたが、ある日礼拝を終ってから道場主である田中万川に、
「お前は神様のお守りをしていないようだ」
 と、毎日の礼拝を怠っているのを言いあてた。全く盛平に言われた通りなので、田中は一言もなかったという。
「お前は自分で出来ないときは、門人にやらせなさい」
 とたしなめられ、田中はあとで、
「先生は、どこにいても知っているのだなア」
 とつくづく述懐していたことがある。

資料:砂泊兼基「合氣道開祖植芝盛平」講談社
写真:田中万川「合氣道神髄」/合気道技法

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