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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

海老蔵歌舞伎  外れ

2014年10月30日 | Weblog
 市川海老蔵『京都鴨川特設舞台 ~秋風薫鴨川~』の公演に、150名招待のところ5,000通もの応募があったという。

 約400年前に出雲の阿国が「かぶき踊り」を四条河原ではじめ、現在の歌舞伎になったことから、鴨川は歌舞伎発祥の地といわれている。
 11月1日の古典の日に、34年ぶりに市川海老蔵による歌舞伎が上演される。鴨川右岸の四条大橋と三条大橋の間に特設舞台が設置され、能楽囃子や邦楽、神楽の上演もある。観客が橋の上から転落するおそれもあり、外から舞台が見られないように幕が張られる。写真や動画の撮影は禁止。定員150名の事前申し込み制。

 新作舞踊『男伊達花廓』 おとこだてはなのよしわら
 河竹黙阿弥の名作「曽我綉侠御所染」から。その主人公の御所五郎蔵は、代表的な二枚目の伊達男。恋人の傾城に会うため、廓へ向かう五郎蔵の様子を描く新作舞踊。海老蔵の粋な風情に溢れる舞台を観たかった、残念。

 

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京都御所秋の一般公開

2014年10月26日 | Weblog
 京都御所秋の一般公開

期間  10月30日(木)~11月5日(水)
入場  午前9時~午後3時30分  無料

 新御車寄では中に畳が3畳敷けるほどの大きい牛車が、御学問所北側では襖絵「四季花鳥図」四面などが展示される。
 11月1日(土)の午前10時と11時から春興殿前広場で蹴鞠が、11月2日(日)の午前10時と11時から春興殿前広場で雅楽が催される。 (宮内庁京都事務所)

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京都のどんどん焼け

2014年10月19日 | Weblog
 蛤御門の変と『どんどん焼け』

 ことしは蛤御門の変から150年にあたる。ことしの祇園祭山鉾巡行には、どんどん焼けで焼失した大船鉾が復興し巡行に参加した。
 10月22日は時代祭である。維新勤皇隊を先頭に京都御苑を出発、ピーヒョロ・トントントンという鼓笛に合わせ、丹波の山国隊の武装も勇ましく、足並みを揃えて行進する。われわれ京都っ子にとって、祇園囃子と同じように、あの鼓笛の響きは忘れられない。
 京都御所南の寺町に合気道武産道場はある。昭和50年、道場の建築現場から、どんどん焼けの地層が出てきた。

 長州藩内では上洛の機運が高まり、新選組による池田屋事件の知らせが届くと、1600名の藩士が武装して出発。京都を包囲して幕府当局と交渉したが、交渉は決裂し、禁裏御所へと進軍した。
 元治元年(1864)7月19日、長州藩が京都での勢力回復を目指して幕府諸藩と戦った蛤御門の変の兵火は、京都市街の半分以上を焼き尽くす大火災になった。

 蛤御門は禁裏御所へ通る九つの門のひとつで、開かずの門であったのが、大火の時に開け放たれたので、熱を加えたら口を開ける蛤にたとえられたという。因みに、九つの門とは、蛤御門から時計まわりに、中立売御門、乾御門、今出川御門、石薬師御門、清和院御門、寺町御門、堺町御門、下立売御門である。
 蛤御門は現在の位置よりもっと東にあり、南向きの門だった。この門を護ったのは会津藩で、北の乾御門警護の薩摩藩からの援助で、かろうじて長州軍を撃退した。長州藩にとっては最大の敵である会津藩、薩摩藩と戦った蛤御門は7月19日の戦闘のシンボルになった。 
 どんどん焼けの名称の由来は、鉄砲の音からこう呼ばれたと伝える。火の勢いは風の影響を受けて激しくなり市中が炎に包まれた。鉄砲焼けともいう。

 19日朝7時頃に河原町二条の長州藩邸から、10時頃には長州藩が陣取った堺町御門東側の鷹司邸の、二ヵ所から出火し、21日朝まで燃え続けた。鷹司邸の火災は戦火によるものだが、長州藩邸の火災は長州藩の留守居役が火を放ったといわれている。
 焼失した町数は800町、被災世帯2万5千戸~3万5千戸、公家屋敷20、武家屋敷50、社寺250余りに及び、被害は、北は丸太町通、南は七条通、東は寺町、西は東堀川に至る、現在の中京区、下京区のほとんどの地域に及んだ。当時の市街地の半分にあたる地域が焼失し、東本願寺、本能寺、六角堂が罹災した。京都御所、二条城、西本願寺は火がすぐ近くまできたが焼失は免れた。

 火災の直後から、蛤御門附近の戦闘を描いたかわら版や、どんどん焼けの焼失範囲を示すかわら版(写真)の、被害の様子を描いた一枚摺りのかわら版や小冊子が数多く出版された。

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武産合気道・別巻  「武道」解説編  斉藤守弘著

2014年10月18日 | Weblog
★書籍案内

 『武産合気道 別巻』  植芝盛平翁の技術書「武道」解説編  斉藤守弘著

【内容紹介】 
 合気道開祖・植芝盛平翁のもとで24年間修行し薫陶を受けた斉藤守弘師範が、盛平翁直伝の技と伝統ある稽古法を、口伝をまじえて紹介するシリーズ。 『武道』(昭和13年)は盛平翁が出版した、唯一の技術書である。その中に掲載されたすべての写真は盛平翁自身のものであり、解説も盛平翁監修のものである。
 『武産合気道 別巻』では、この『武道』に掲載された植芝盛平翁の演武写真とともに、斉藤守弘師範自らが詳しい連続演武を行ない、技の一つひとつを再現。「武産」の文字通り、無限の可能性をあらわす呼吸投げ78技の基本、変化技、気の流れを豊富な写真を使って段階的に、さらに詳細な解説をつけている。
 合気道家のみならず合気道史を研究する方にも貴重な資料となるであろう。

 尚、『武道』は陸軍戸山学校長の賀陽宮(かやのみや)殿下の希望により作成された限定版であり、現在、日本語の復刻版は出版されていないが、講談社より英語版の Morihei Ueshiba BUDO : Teachings of the Founder of Aikido が出版されている。

Morihei Ueshiba is rightly known as one of the world's greatest martial artists for his creation of aikido, the synthesis of his superb technique and his profound spiritual insight into the nature of the universe. Aikido is much more than just another fighting style, it is a holistic approach to life that Morihei described as "a divine path inspired by the gods that leads to truth, goodness, and beauty." Sadly, Morihei left few writings to explain his martial arts philosophy, preferring to teach his disciples by direct example.

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武道(4)  植芝盛平著

2014年10月14日 | Weblog
                                     小手返し

                      無名指ト小指トヲ以テ手頸ヲ握リ拇指ニテ無名指ノ附ケ根ヲ制ス
                      敵ノ手足ヲ活動セシメザルコト肝要ナリ

 『武道』 合気道開祖・植芝盛平著  昭和13年刊 
 「武道」は陸軍戸山学校長の賀陽宮(かやのみや)殿下の希望により作成された限定版。参謀将校による写真撮影という。開祖の受手は、植芝吉祥丸先生、塩田剛三先生、大久保能忠先生が務める。(写真は塩田剛三先生の小手返し。昭和42年)

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武道(3)  植芝盛平著

2014年10月13日 | Weblog
                                    四方投げ

                            敵ノ右腕ヲ刀ト心得テ動作スルヲ要ス
                            右手ノ拇指ニテ脈部ヲ制スルコト肝要ナリ
                    
 『武道』 合気道開祖・植芝盛平著  昭和13年刊 
 「武道」は陸軍戸山学校長の賀陽宮(かやのみや)殿下の希望により作成された限定版。参謀将校による写真撮影という。開祖の受手は、植芝吉祥丸先生、塩田剛三先生、大久保能忠先生が務める。

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武道(2)  植芝盛平著

2014年10月11日 | Weblog
                                    入身投げ

                      深ク入身ニ入リツツ右手刀ヲ以テ敵ノ右手刀ヲ右下ニ切リオロス
                      左手ニテ後襟ヲトリ(或ハ腰ヲ押ヘ)右足ヲ踏ミ込ミツツ右前肘ヲ以テ首ヲ押シ下ゲテ倒ス
                      コノ時右手ノ指先ニ力ヲ入レ腕ヲ内側ニ向クルコト必要ナリ

 『武道』 合気道開祖・植芝盛平著  昭和13年刊 
 「武道」は陸軍戸山学校長の賀陽宮(かやのみや)殿下の希望により作成された限定版。参謀将校による写真撮影という。開祖の受手は、植芝吉祥丸先生、塩田剛三先生、大久保能忠先生が務める。

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快川禅師の滅却心頭

2014年10月07日 | Weblog
 快川禅師の滅却心頭火自涼

★『滅却心頭火自涼 -甲斐の名刹・恵林寺の至宝-』展
 珠玉の夢窓疎石像、白隠達磨図、武田信玄像、武田二十四将図ほか

会期  10月6日(月)~12月13日(土) 10:00~16:00(土曜日は14:00まで) 日曜休館
会場  花園大学歴史博物館
入館料  無料
主催  公益財団法人 禅文化研究所・花園大学歴史博物館
協力  恵林寺(山梨県)・公益財団法人 信玄公宝物館

★記念講演会
 10月28日(火)13:00~14:30
   「快川国師と恵林寺」 横山住雄氏(濃尾歴史文化研究所主宰)
 11月25日(火)13:00~14:30
   「恵林寺散策」 古川周賢老師(乾徳山恵林寺住職)

場所  花園大学 教堂
入場料  無料 (先着150名)
主催  公益財団法人 禅文化研究所

 安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し。
 中世における傑僧・快川紹喜(〜1582)の遺偈として、快川の名とともに広く知られている。その舞台となったのが、甲斐の名刹・乾徳山恵林寺(山梨県甲州市、臨済宗妙心寺派)。天正10年(1582)、恵林寺は織田信長軍勢の焼き討ちに遭い、時の住持であった快川は、燃え上がる三門楼上でこの遺偈を唱え火定を遂げた。
 恵林寺の歴史は古く、鎌倉時代にまで遡る。元徳2年(1330)、二階堂貞藤(道蘊、1267〜1335)が夢窓疎石(1275〜1351)を招請して開創した。以来、日本禅宗史にその名を連ねる数多くの禅僧によって恵林寺の法灯が嗣がれ、同時に、恵林寺はその宗風を慕う外護者を迎えることによってさらなる発展をみる。ことに、戦国期には武将・武田信玄(1521〜1573)、近世に至っては柳沢吉保(1658〜1714)・吉里(1687〜1745)父子の庇護を受け、信玄・吉保の菩提寺として興隆した。
 恵林寺は戦国期と明治期に主要伽藍を焼失する災禍に遭うが、14世紀に遡る開創期からの歴史を今日に伝える寺宝が守り伝えられている。さらに、信玄を顕彰する人々や柳沢家から、信玄・吉保らゆかりの品々が奉納されてきた。 (禅文化研究所)

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