武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

五狐の剣

2018年06月20日 | Weblog
 開祖直伝『五狐の剣』

 天狐は、左足を前にして剣を右脇に垂直に立て、左前腕は水平に、右肘を張り仁王像の如く八相に構える。
 地狐は、右足を引いて剣を右脇に降ろす脇構え。
 赤狐は、右足を前に平正眼に構える。
 白狐は、平正眼の切先を下げて下段の構え。
 空狐は、右足を引いて棟に左の掌をあて頭上にかざす。
 
 五狐の剣は、乾、巽、坤、艮と転じて四方を切り結ぶ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京言葉の真相を探る

2018年06月10日 | Weblog
 京言葉はいうまでもなく一方言ではない。公家や町衆そして花街だけの言葉でもない。京言葉の担い手として忘れ去られがちな武家や武士に焦点をあて、日本語の根幹であり、中央語であり続けた京言葉の実像とは。 (京都学園大学教授・丸田博之『京言葉の真相を探る』講演録)

 桓武天皇の平安京遷都から登場する武士。武士とは、もともと朝廷に武芸をもって仕え、滝口の武者のように宮中の警備や貴族の身辺警護、都の警備などをする武官を指していた。かれら武士は、やがて臣籍降下(皇族がその身分を離れて臣下の籍に降りること)により、天皇の血筋を引く桓武平氏(第50代桓武天皇の系統)と清和源氏(第56代清和天皇の系統)を棟梁と仰ぐようになり、その結果、源平両氏は地方武士団を広く組織した武家(軍事貴族)を形成した。
 京の都に東山文化が華開いた室町時代。そして、戦国大名が跋扈し、織田信長、豊臣秀吉が天下取りで京を目指す。その後、江戸幕府が開かれても京の朝廷は変わることなく、京を中心とした歴史を築くこととなる。

 武家の言葉こそ京言葉である。
 巷間知られている武家言葉を、式亭三馬の『狂言田舎操』や、イエズス会版の『日葡辞書』、ジョアン・ロドリゲスの『日本大文典』ほか、源氏物語、観世流『大蔵虎明本』などから読み解く。
 式亭三馬の『狂言田舎操』にある江戸時代後期の京の話し言葉。
   これは又ほんの事たが。何の國でも及ばねへとだ。「然様然者(さようしからば)。如何いたして此様仕(かやうつかまつ)りましてござる。」などといふ所は、志やんとして立派で。はなやかで。實(げに)も吾嬬男(あづまおとこ)はづかしくねへの。京女郎(きゃうぢょらう)と対句になる筈さ。
 イエズス会版の『日葡辞書』から室町時代の京言葉を知ることができる。辞書にはポルトガル語で約32,000語が収録されている。
   Catajiqenai. (かたじけない) 謝意を表する言葉。お礼の言葉。
   Tauake. (たわけ) 愚か者。馬鹿になる。
   Vtcuqe. (うつけ)
   Xexxa. (拙者)
 ジョアン・ロドリゲスの『日本大文典』からは、安土桃山時代から江戸時代初期の京言葉を知ることができる。ロドリゲスは豊臣秀吉や徳川家康の通訳を務める。
   有る、在るの意を示すもの。
     Aru. (ある)
     Vogiaru. (おじゃる)
     Yru. (居る)
     Gozaru. (御座る)
     Naru. (なる)
     Maximasu. (まします)
     Vouaximasu. (おはします)
     Voriaru. (おりゃる)
   であるの意を示すもの。
     Nitearu. (にてある)
     De aru. (である)
     De ogiaru. (でおぢゃる)
     Nite gozaru. (にて御座る)
     De voriaru. (でおりゃる)
     Nite maximasu. (にてまします)
     Nite vouaximasu. (にておはします)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都で最古の縄文遺跡(2)

2018年06月01日 | Weblog
                                            京都大学吉田南構内出土 土馬

 『京都大学構内の遺跡』京都大学総合博物館講演録     「足もとの歴史を探る」京都大学准教授・千葉 豊
                                        「縄文時代の巨木の発掘と研究」京都大学准教授・村上由美子

 旧石器時代から古墳時代の鴨東、比叡山から東山の山麓に広がる一体には、一万年前を越える古い時代から、さまざまな時期の遺跡が地中に残されている。岡崎遺跡では、旧石器時代に生きていた大型哺乳類の足跡がみつかり、周辺に人々の生活していた可能性も考えられる。
 縄文時代になると、北白川に集落が時期を追って展開、小さな住まいの痕跡がみつかる。また巨木が発掘されており、縄文から弥生への移行期の資源利用や技術を考えるうえで重要な資料となるであろう。上終町遺跡で早期の建物が、南の追分町遺跡(京都大学北部構内)では、中期以降の竪穴住居跡、後期の甕棺・配石墓などとともに多くの土器・石器が出土した。晩期の埋没林の調査では、当時の自然環境が詳細に明らかになる。
 弥生時代前期には、南へと活動範囲は広がり、地形を巧みに利用した前期の水田遺構や土砂災害の痕跡があった。水田は、一筆が10㎡前後の小区画で、北側の水路から水を取り込んでいる。全体の面積は1800㎡程と推計されている。おそらく4~5人程度の米の収穫量であろう。吉田二本松町遺跡(京都大学吉田南構内)で中期の墓がみつかり、岡崎遺跡でも墓の存在が確認されている。
 古墳時代にはさらに開発がすすみ、吉田では多くの首長の墓「方形墳」が築かれ、岡崎では大規模な集落が広がる。

 北白川追分町遺跡から出土した巨木は京都大学総合博物館一階ロビーに展示されている。巨木からは縄文人が石斧(せきふ)で伐った伐採痕の斧の刃の痕跡がうろこ状に残り、板材を割りとる際に入れられた楔(くさび)の痕跡が観察される。
 遺跡出土の木材は水に浸かった状態で発見される。埋没中に微生物により木材は分解されており、水分を含んでかろうじてもとの形を保っている。巨木はチェーンブロックで吊り上げ、クレーン車で移動した。巨木はコナラ節(せつ)で、伐採されてから2617年目であることが判明した。保存処理法はPEG(ポリエチレングリコール処理法)で、処理剤はポリエチレングリコール、この方法は50年の処理実績があり安定性が高く、一般遺物および大型遺物に適している。
 因みに、出土した土器や陶磁器の破片からの復元作業には、接着剤としてセメダインが、剥離剤にはアセトンが使用されるという。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする